第45話
「雲雀さん、ちょっと聞きますけど……」
「なんだ?」
「やっぱり私のこと嫌いな人、いっぱいいるんですか?」
「そんなことはないと思っているよ」
雲雀はいっそう真剣な顔でオルゲルに訊ねた。
「何か危ないことでも?」
「いえ、今のところは」
そう言うオルゲルの顔を、雲雀は注意深く見守った。
「もしこの中でお前に危害を加えようなどという連中がいたら、私が
オルゲルが驚いたような顔をしていると、別に大袈裟で言ってるんじゃないぞと雲雀は言った。
「別に当たり前のことだ。まあ、恩着せがましいことを言えば、オルゲルと俱李をあそこから助け出すのに私もゲンザもそれなりに苦労したんだ。それを無駄にはしたくないだけさ。それに、ここにいる連中はみんな誰かの助けがあって生き延びてきたんだ。もちろん、その逆に助けられなかった仲間も大勢いる。オルゲルを安全に送り届けたいのに理由はないよ」
この人は私のことを守ってくれる。それだけはオルゲルも確信が持てた。しかし雲雀の言い方は今のオルゲルには安心と不安両方をもたらすものだった。
お前は仲間だ、だから何がなんでも助けると言われると、オルゲルの頭には同時に串刺しにされるロカスト・ブラザーズたちの姿が頭をよぎる。間違ってもロカスト・ブラザーズたちと連帯する気などないが、これまで育ってきた自分の中身は、間違いなくあちら側なのだ。
「それと、おかしな奴は雇われていないはずだが、妙な奴が紛れこんでいる可能性もないわけじゃない。私は人一倍用心深いから、どうしてもね。公園に行きたい時バルバラに声をかけづらかったら、私の所に来い。あの部屋からはちょっと遠くて面倒だろうけど。ああ、お前と倶李が一緒にいるところに割りこむつもりはないから、公園に入ったら、離れた所から見ている」
雲雀はとても誠実な人だとオルゲルは思った。取り敢えずこの人は最低限のところは埋めようとしてくれている。それでオルゲルに不満はなかった。
「ありがとうございます、雲雀さん。もしもの時はどうかお願いします」
その日のうちにオルゲルと雲雀はバルバラの部屋に行き、明日から毎日二人で一緒に公園に行くことにしたからよろしく、と告げにいった。
「オルゲルが一人でいるように見えても、私がその辺にいるから、気にしないでくれ。ただ食事はこれまでどおり、お前と一緒にな」
バルバラは怪訝な顔をしていたが、ひとまず任務が多少減ることは彼女にとってもありがたいことだったのか、よけいなことは言わずに「了解です」と言うだけに留まった。
帰ってきたついでに、そのままバルバラとオルゲルで入浴に行った。
「うちの風呂場はでかいんだ。居住階の階ごとに同じぐらいの規模の風呂場がついている」
大きな風呂場へ行くのは普段だったら大喜びするところだが、今のオルゲルにとって見ず知らずの人間が大勢行き交うような浴場を利用するのは気の重いことだった。かつらを外すのも、まだ傷痕が残っている体をさらすのも、本当はしたくない。
しかしいざ脱衣所に入ると、義手や義足の人は珍しくなかった。オルゲルの姿自体は珍しかったので見られはしたが、かつらを外したところで、そこに反応して視線を向けてくるような人はいなかった。そもそも、バルバラ自身が左足の膝から下が義足だった。義手も義足もつけたまま風呂に入っているのには驚かされたが、それについてバルバラに訊ねるオルゲルでもなかった。
オルゲルの燕巣最初の一日が終わろうとしていた。
(今日の明け方にはまだ静海の病院にいたなんて嘘みたい)
身も心も疲れているはずなのに、頭が眠ってくれそうになかった。今日のできごと一つ一つが、脈絡もなくオルゲルの頭の中で繰り返され、意味もなく不安にさせてくる。きっとなんとかなるという気持ちも彼女の中にはある。手術を受けたばかりのころや、痛みに耐えながらリハビリに懸命になっていたころや、直視しがたい自分の外見と向き合っていたころに比べれば、少なくとも今はずっといい。なんだって変わるのだ、どうにかすぎていくのだ。そういう内なる声をオルゲルは聞き逃してはいけないと思っている。
そうしてバルバラのことを思っていた。海での惨劇についてはある程度具体的に話してくれたのに、その後のことについて、バルバラはまるで記号のようにしか話さなかった。鮫に体を食われながら陸に流れ着いて、それから一体何があったのだろう。長くなるから省略したようには思えなかった。
辿り着いたのがもしドリントの港だったのなら、バルバラを捕まえたのは、オルゲルの知っている人の先祖であるかもしれないのだ。
(別に知りたくはないけど……)
こうしてベッドにいると、バルバラの語った光景の中に自分を投影して想像してしまう。
オルゲルは木切れの一つに摑まりながら、ビート板のようにして陸を目指す。隣にはシュテフィがいる。シュテフィは怪我をしていて板を摑んでいるのもままならない。
『お母さん、お願い、頑張って! 諦めないで』
後ろを振り返ると鮫がいる。もちろん鮫の方がずっと早い。気がつけば前も後ろも鮫がいる。背ビレや尾が海面から出たり引っこんだりしている。こちらの体力ももう残っていない。母の手もいつまで摑んでいられるのか、すでに絶望しかけている。
不意に目の前が真っ赤になる。足に激痛が走る。そして引っ張られる。でも離さない、お母さんの手だけは。
『お母さん、お母さん!』
気がつくと陸が見える。まだ板に摑まっている。自分の手で。もう片方の手で母の手も摑んだままだ。
『お母さん』
母の手は手首から下がなかった。
「ああ……」
オルゲルはベッドの中にもぐって、何度もお母さんと呟いた。涙が止まらなかった。
『オルゲル、それはお前の想像だ。起こったわけでもないことに気持ちを使うな』
(何言ってるの、私のお母さんなんだよ!)
『別にお前に呆れて言ったわけじゃない。そのまま寝て、バルバラに泣き腫らした顔を見せるはめになってもいいのか。バルバラはともかく、滝鶴とか』
(……分かったよ、考えるのやめる)
今の気分を振り払おうと、オルゲルは室内備えつけのラジオをつけた。こんな上空まで電波が届くはずないのだが、なぜか燕巣内では聞くことができる。今のところ珀花のラジオ局のニュースを聞くことができた。
しばらくは特に興味のないニュースを流していたが、すぐに「たった今入った速報です」というアナウンサーの少し強張った声が聞こえた。
「
その晩、結局オルゲルは一睡もできなかった。
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