第44話

 夜の公園はまた昼間とは別の雰囲気だった。街灯があちこちにたっている。ただ植物の保護のためもあってか明るさは控えめだ。地上の公園のように酔っ払いやホームレスがいるわけではなく、中の人たちはみな落ち着いた雰囲気だった。恋人同士か夫婦と思わしき二人連れが手を繋いで歩いているのが目につく。昼間はそういう人たちはあまりいなかった。

「窓だ。窓のある方に行くぞ」

 二人は外壁に向かって走りだした。窓にはすでにたくさんの人がつめかけていた。オルゲルとバルバラがその隙間に潜りこみ、人々の視線のある方に目を向けると、燕巣の外壁の作業場の一つに雲雀が座って、横笛を拭いていた。もちろんオルゲルたちのいる所からは聞こえない。

「雲雀さんはフルートを吹くんだ」

「あの人は双人そうじんってダンスのダンサーじゃなかったんですか」

「そのころのことは私は知らない。あの人は帯刀屋になってから、フルートを買ってああやって練習するようになったんだ。今じゃ相当な腕前だ。その辺のレコードなんかめじゃない。あ、今はああやって外で吹いてならしているんだ。もうすぐ公園にやってきて聞かせてくださるぞ」

 公園にいりゃどこでも聞こえるがせっかくだからそばで聞こう、と言ってバルバラは雲雀が吹く時にステージ代わりにしているという東屋の近くまでいった。音楽にはあまりそそられないたちのオルゲルだったが、目の前で何かを見て楽しむということからずっと遠ざかってきたので、雲雀のフルートは楽しみだった。

 ほどなく雲雀が入口から姿をあらわした。まるでスターを待っていたように人々の雲雀への視線は熱かった。だが当の雲雀はフルートを持っている以外はたった一人で、誰に愛嬌を振りまくでもなく、ただふらっと立ち寄っただけのような風でいた。しかし素っ気なくしていても、何かを期待せずにはいられない雰囲気をまとっていた。双人をしていたころも当時の人々にとってはさぞかし大きな存在だったのだろうとオルゲルは思った。

 東屋に立った雲雀は、曲目を言うでもなく、いきなり吹き始めた。雲雀の息吹は彼女の内なる力によってフルートを介して、燕巣の公園内に響き渡り、人々の耳に公園の木々に吸われていった。

 曲はいずれも戦前のオペラニアで普及していたもので、オルゲルには知る由もないものだった。雲雀は曲名も言わなかった。誰かに受け継いで欲しいという気持ちが彼女にはないのである。

 聞きながらオルゲルの目から涙がこぼれた。一曲目が特に悲しい曲だったわけではない。むしろ軽めの楽しい曲だった。しかしどうしてなのか、涙がぼろぼろと流れ落ちた。

 その後四曲演奏し終わったところで雲雀は軽く頭を下げた。どうやらこれで終わりらしい。

「今日はここへ来た新人のためにも吹いた。ついこの間までここは藤が満開だったが、あいにくその季節は終わってしまった。これはその代わり」

 雲雀がオペラニア語でそう言うと、誰もが驚いたような顔をした。バルバラが小さな声で言った。

「雲雀さんは終わったら何も言わないで行ってしまう。何か話すなんて、今までなかったぞ。お前に向けて言ってるんだ。やったな」

「そんな……」

 オルゲルが動揺していると、東屋の中の雲雀が言った。

「みんな知ってのとおり、そこにいるのは月での不運なできごとをきっかけに無量寿であることが分かったオルゲルだ。今、帯刀屋のバルバラがここへ連れてきているのが見えた。オルゲル、多少なりとも楽しめたのなら幸いだ」

 それじゃあみんな安全第一で、と言って雲雀はそこから去っていった。人々が口々に、

「今日もよかったよ」

「また聞かせてね」

 と笑顔で声をかけていた。オルゲルも思わず大きな声で、

「ありがとう! 雲雀さん!」

 と叫んだ。すると雲雀がオルゲルの方を向いた。オルゲルは思わずどきりとしたが、次に雲雀はオルゲルを手招きした。驚きつつバルバラの方を見るとバルバラは「私はもうここで帰るから、あんた、あの人についていきな。十時ぐらいになったら風呂に連れていくからな」と言った。オルゲルはあたふたとしながら雲雀のあとについていった。

 通路を歩き、エレベーターに乗り、オルゲルはそのまま雲雀の部屋に招かれた。そこはオルゲルの部屋、つまりバルバラが元いた部屋の倍ぐらいの広さだった。と言っても何か調度品が飾ってあるわけでもなく、広さ以外はオルゲルの部屋と大差なかった。部屋の片隅に何か平べったい機械が見えた。

 オルゲルの目についたのは、綺麗な飴色にコーティングされた古めかしい小さなテーブルだった。テーブルにはその色によく合う椅子が二つあり、そこだけ少し特別な感じがした。

「適当に座ってくれ。お茶入れてくる」

 雲雀は小さな冷蔵庫から瓶に入った水を取り出し、薬缶の中にそれをそそいだ。ほどなく紅茶の香りが部屋を包んだ。

「砂糖やミルクは適当に取ってくれ」

「すみません、あの、谷から引き上げてくださったお礼を言いたかったのに、あんな素敵な音楽を聞かせてもらって、この上お茶まで。……いただきます」

 一口飲むとオルゲルはためいきをついた。

「すみません、ついため息なんか。おいしくて……」

「疲れてるんだろ、当たり前だ。さっきは私も悪かったな。なんか、お前のこと引っ張り出すような真似をして。今日はどのみち声をかけるつもりでいたんだ。機長からみんなの前で声をかけてやってくれと言われていたし、私も一度会ってみたかったから」

「そうだったんですか」

「時々ああやって人前で演奏するんだ。ありがたいことにみんなの楽しみになってるみたいで、気がつけばもう何年もやってる」

 雲雀は照れ臭そうにそう言った。

「誰だってうっとりしちゃいますよ、あんな音楽聞いたら!」

 それはありがとうと雲雀は微笑みながら言った。その様子を見て、きっとこんなことは言われ慣れているんだろなとオルゲルは思った。

「私以外にも演奏を聞かせたり、他にもいろんな芸を見せる乗組員がいるんだよ。骨翼はそういう場所なんだ。誰がいつどこでやるかというのは、大抵食堂に案内が出ているんだ。あいにくこれからしばらくは誰も予定がないけどね」

 雲雀がそう説明してくれている間、オルゲルはずっと彼女の顔に見とれていた。鉄枝の目に見えて華やかな美しさとはまた違い、雲雀の美しさは野生の鷹を思わせた。これで帯刀屋ということなら、さぞかしの使い手なのだろう、とも。

「それにしても安心した。綺麗な顔してるよ。やっぱりお前もミヤコも大したものだ」

 美しい人に外見を誉められてどうにもオルゲルは有頂天になった。

「紗白さんがくださったかつらのおかげもあって、今は安心して鏡が見られます。なんかもう、ひどかったころのことは忘れかけてます。あの……、ありがとうございました」

「いや、そんなことはいい。それより、何かいやなめにあったりしていない?」

 何も問題ありません、オルゲルはそう即答した。オペラニア語を大っぴらに使ったことをたしなめられたことぐらいは伝えてもいいような気がしたが、それを言ったら当の雲雀こそまさにオペラニア語を普段から使っている。言葉を注意されたことを雲雀に伝えたら、雲雀は多分バルバラを叱るのではないか。そう思ったのでオルゲルはその件については触れなかった。

「それならいいんだけど。いやね、バルバラはいい奴だけど、ちょっと気が短いところがあるからね。お前のお付きをやるについては、バルバラが自分から言い出したことなんだが、やる気が空回りして何かやらかしていないかと、気になったんだ」

 オルゲルはどんな顔をしていいのか分からなかった。今の雲雀はとてもやさしそうに見える。だがオルゲルが本心を言えばまたバルバラや滝鶴のように怒るかもしれない。そう思うと、言葉にも詰まった。しかし雲雀はかつてあの竹子と親しげにお喋りをしていた。バルバラとはまた少し違うかもしれない、という気もした。

(でもバルバラさんにはあんな過去があったんだから、私にいらつくのもしょうがいないところはあるな……。雲雀さんにもきっと何かある。踊りをやめるくらいのことが)

「その様子じゃやっぱり代わった方がよさそうだな」

 思わぬ指摘をされてオルゲルは大慌てで「いえそんなことは」と言った。

「バルバラさんは確かにちょっと怒りっぽいなあと思うことはあります。でも今日あの人が自分の昔の話をしてくれて、私も無神経なところはあったかもと思いました」

「へえ。あいつが自分のことをね。まあ、それについては考えすぎなくていいよ。長年同じ顔ぶれで仕事をしていると、互いのことを知りすぎてしまって、敢えて話すこともなくなる。君が久しぶりの新顔だったから、話したくなったんだろう」

「あんなつらい過去を好きこのんで話すとは……」

「若い奴相手に話せる部分だけ話した。それだけのことだよ。君にとって今つらいことは何? いや、いきなり聞かれても困るかな」

「自分でもよく分かりません。でも今は、とにかくバルバラさんや、ここで知り合う人たちとうまくやりたいです」

「そう思ってくれてありがとう。バルバラもそうだが帯刀屋というのはね、感謝されてもいるが、煙たがられてもいる。私たちが排除するのは人間だけだが、力を振るう立場の人間はやはり味方からも恐れられる。私は望んで帯刀屋をしているし、人からどう思われようが今さら平気だが、ほとんどの奴はそうじゃない。みんな人間に恨みがあるとは言っても、そいつらを殺すことを仕事にしている奴にはなるべく関わりたくないんだ。そうやってまわりから敬遠されて、そのことでよけい帯刀屋は鬱屈する。そんな奴らばかりだ。オルゲルのそばには帯刀屋がいた方がいいと言ったのは、機長と滝鶴なんだ。ただ私は正直迷った。それでも万が一の時のために、腕のたつ奴がいた方がいいだろうと思って最終的には賛成した。お前がいやな思いをしたんなら、それは我々の都合のせいなんだ。本来お前が気に病むことは何もない」

「お気遣い、ありがとうございます。でもいいんです。ただ、それとは関係なく、ドリントに着くまではなるべく部屋でじっとしていようって思ってて、それはもうバルバラさんにも伝えてあります」

 骨翼の内部をできるだけ探検してみたかったが、今となってはトラブルを防ぎ、バルバラをいらいらさせないようにするためには、部屋からなるべく出ないようにする以外、思いつかなかった。紗白の秘書だとかいう滝鶴だってオルゲルにとっては悪印象のままだ。

「そもそもここには不実李がいるんです。倶李とたまにお喋りできれば、私はそんなに寂しくないです」

「そうか。まあ、そういうことなら……」

「それより今日のフルートはとても感動しました。音楽聞くのなんて、正直あんまり好きじゃなかったんですけど、もう本当に素晴らしかったです」

 雲雀は少し笑いながら言った。

「あの曲で泣かれるとは、こっちも思わなかったよ」

「うわっ、見えてたんですか」

「まあね。人前に立つとなんとなく伝わってくるんだ。それぞれの温度というものがね」

「なんか、竹子さんを思い出しました。竹子さんもトランペット吹いてるから」

「そうだよ、私のは竹子の真似さ」

「ええっ」

「あいつが楽器の練習をし始めたというのを聞いて、最初はふーんと思ったんだ。でも毎日練習してそれを二十年も続ければ、半人前ぐらいにはなれる。取り敢えず一曲自分で間違わずに吹けるようになればいいなと思ったんだ。それで、帯刀屋の日常の鍛錬と並行して始めたんだ。悪くはなかったよ」

「へえ……」

「お前はやっぱり部屋で素振りがいいか?」

 オルゲルはにこりとしながらそうしますと言った。雲雀もそれに笑顔で言った。

「まあ時間は好きに使えばいい。ただ公園に行く時も誰かと一緒に行った方がいいぞ」

 雲雀にそう言われたがオルゲルは思った。どうせ公園に行くのなら倶李と話がしたい。でもバルバラや他の誰かがいたんじゃ、倶李とお喋りはできないじゃないか。でもまあいい。公園に行かなくても当分は倶李と通じ合えるのだ。

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