第43話
襲来から数時間してドアのブザーが鳴ったので覗き窓を見ると、バルバラが立っていた。
「どうしたんだ。ちっとも呼びに来ないじゃないか。夕飯食べないのか?」
「……すみません、忘れて寝てました」
「腹が減ってないのか。減ってないならお茶かコーヒーだけでもどうだ。ケーキやアイスも出してくれるぞ」
「行きます」
自分でもいやになるぐらいにオルゲルは即答した。
食堂の注文カウンターへ行ったオルゲルは、アイスクリームを頼もうとしたのだが、メニューの中にチョコレートパフェがあるのを見つけると、うっかり選んでしまった。
テーブルにつくと「お前、腹は減ってないんじゃなかったのか」とバルバラに笑われた。確かにきまりが悪かった。
「これは別腹です」
バルバラはオルゲルの向かいに座った。オルゲルとしては実にありがたくないことだった。邪悪な連中からここを守るためとはいえ、さっきまで人を串刺しにしてきた者と向き合いながら食べるパフェはつらい。しかしアイスとチョコにはなんの罪もないのだからとオルゲルはバルバラには目もくれずに、バニラの山にスプーンを入れていった。
パフェ自体はこんな閉鎖された空間で出されたものとは思えないほどおいしかったのだが、バルバラがずっと見てくるのがどうにもいやだった。向こうはと言えば、クッキーを食べてお茶を飲んでいるだけだ。
「あの……」
「ん?」
「なんかさっきからすごくじろじろ見てません? 私のこと。さすがに気になるんですけど」
かつらが変だったらどうしようとオルゲルは思っていた。
「ああ……。悪かったな、いやまあ……」
またむやみに怒られるかと思っていたらそうでもなかったのでオルゲルはかえって怪訝に思った。
「私ももう二百年以上生きてる。そうすると朝食べたらもういらない。こうやってちょっと口にするのがせいぜいだ。他の奴らも似たようなもんだ。お前みたいにこの時間にがつがつ食ってるのを見るの、久しぶりなんだよ」
そう言うバルバラの口調も表情もこれまでよりずっとなごやかだった。
「なあんだ。変な気持ちで見ているんじゃないんなら、いいです。どうぞ、じろじろ見てても」
「見ねえよ。それよりとけねえうちに食えよ」
「言われなくてもそうします。もう、一年近くパフェ食べてないんです!」
食べながらオルゲルは切なくなった。自分より若い者がおいしそうに食べている姿を好ましく見ているような人が、昼間あんなことを、串刺しにするだけならともかくその死骸をそのまま機内に持ちこむ、というようなことをするのは、それも長年そんなことをこなしながらこの広大な閉鎖空間の中にいるのは、一体どういうことなのだろうかと思った。もちろん武装して襲ってくる連中がいる以上、帯刀屋がああするのは必要なことだ。それでも相手は中身はどうあれ、人の形をしている。どう足掻いても殺しには変わりない。ああいったことを何年も何十年も続けられるものなのだろうか。バルバラや他の帯刀屋たちにそうさせているものはなんなのだろうか。
「バルバラさん」
「なんだ」
「私、明日は部屋にいます。せっかく木刀いただきましたけど、やっぱりあの稽古場には行かないです」
「ふん、あいつらの稽古見てびびったか。まあ、最初からあんなにがんがん打てなくてもいいんだ。徐々にやっていけば。ま、あと何日かで降りる奴に言ってもしょうがないけどな」
「部屋から出るのが恐いんです。剣は好きだから自分の部屋でやります。そのぐらいの天井の高さはあるし。トイレとお風呂と食堂に行く時だけお世話になります」
まあ好きにしろとバルバラは軽い調子で言ったが、続けてこうも言った。
「だけど忘れるな。燕巣は無事ドリントに行けるだろう。それは帯刀屋のおかげだってことだ」
「今日窓からこっそり見ました。だから私はこうやっておいしいもの食べれます」
「それが分かってりゃ上等だ」
バルバラの態度が険を帯び始めた。この人とこれから三食のたびに向かい合ってこういう調子でいくことになる、でもそれもこれもドリントへ行くまでの話だ、我慢しようと思いながら、オルゲルはパフェの底のチョコレートソースをかき出した。
「でも一つ気になることがあります」
きれいになったパフェのグラスを前にしてオルゲルはバルバラに訊ねた。
「襲ってきた連中をどうしてわざわざあんな風に体ごと回収するんですか。帯刀屋ならそのまま切り捨ててしまえばいいのに。下は海以外何もない」
「あの高さから切り身を捨てて、万が一どこかの船に落ちたらどうする」
「ああ……」
「まあそれもあるが私たちは下がどうなっていようと、イナゴたちの髪の毛一本、海には落とさない。そう決めているんだ。特にこのエンカラーシュ大陸を囲む海にはな」
エンカラーシュ大陸というのは、オペラニアとボリーバンなどの国土を含む大陸のことである。
「エンカラーシュ大陸と珀花との間の海の底には、大勢の無量寿の死体が沈んでいるからさ。お前も月刻録を読んだのならその辺のことも知っているだろう。オペラニアやボリーバンから珀花を目指して海を渡ったたくさんの無量寿がいたことを」
まさにオルゲルが初めて月刻録を手に取った時に書いてあったとこだった。ドリントと珀花を結ぶ定期船が戦争によってまかれた機雷によって運航中止となったため、多くの無量寿たちが個人で船を調達して海を渡ろうとしたのだ。
「私の話をすれば、私は定期船が動いていたころに母と二人でフェリーに乗ったんだ。フェリーにはすごい数の人が乗っていた。切符の席の等級なんてあってないようなもんだった。どこもかしこも人とその荷物が詰まっていた。それでも船を確保できたんならましな方だと思っていたよ。だけど進んだ先にオペラニアの戦艦が待ち構えていた。奴らはそれが明らかに民間の客船であることを知りながら、大砲を打ってきたんだ」
オルゲルの口の中で、アイスクリームとチョコレートの味が死んでいった。
想像の中でバルバラの顔が自分に、バルバラの母の顔がシュテフィになる。
「船には戦火を逃れた庶だって大勢乗っていた。奴らはそのことだって知っていただろう。でも打ってきやがった」
ボリーバンの人間側の勢力である新共和国側は、敵対関係にある無量寿側の政府との戦争に勝つため、オペラニアと同盟を結んでいた。このため、人間側にも多数の犠牲者が出たにも拘わらず、新共和国側はオペラニア軍の行いを黙認した。
「海上はあっという間に船の残骸と、死体でいっぱいになった。でも無量寿の多くはまだ生きていた。みんなフェリーの木切れに摑まったり、自力で泳いだりしながら珀花を目指した。するとそこへオペラニアの海軍がボートに乗って近づいてきた。何隻もいた。じきに機関銃の弾がとんできた。奴らは無量寿がそう簡単には死なないことを知っているから、泳いで珀花に行かせないよう、海上でまだ生きている連中まで殺しにきたんだ。私たちがそれをくぐり抜けて珀花を目指すのはもう無理だった。私も母もまだ辛うじて生きていたから、とにかく泳いでドリントに引き返すしかなかった。でもそのうち血の匂いを嗅ぎつけて鮫がどんどんあらわれた。母は食われて、私も体のあちこちを食われた。それでどこかの浜に辿りついたところを人間に捕まった。私はそれからオペラニア軍に引き渡されて、オペラニア本国に連れていかれた。戦争が終わって、それからさらに何十年もたって、今の機長と帯刀屋に救われた。おかげで今ここにいる。お前さあ、」
はい、とオルゲルは言った。
「別に私たちの言うことに従順である必要はないし、好きじゃなくてもいい。ただ、私たちが何を嫌いか分かっていないと、困るのはお前だぞ」
オルゲルはじっとしたまま黙っていた。バルバラがさらに言った。
「私の言うことを聞きたくないんなら、それも仕方がないけどな」
「いいえ、聞きたいです。そういう話は、私が知っておいて損はないっていうのは、よく分かります。それで、私の話は誰が聞いてくれるんですか。私がバルバラさんやいろんな無量寿のことを分かろうとしているのと同じくらい、分かろうとしてくれる人、いるんですか。もし誰も私の話を聞いてくれないのなら、今のバルバラさんの話だって、私がちゃんと聞く意味、ありますか?」
知る意味があるのか。それは自分が無量寿であることを知った時から、オルゲルがうっすらと思ってきたことであり、そして日々濃くなっていく思いであった。しかし彼女としては誰にも言うつもりはなかった。予想外のパフェで元気になったせいかもしれない。
「聞く意味がないっていうのか、私の話が!」
バルバラは逆上して立ち上がった。しかしオルゲルも、パフェのグラスを摑んで立ち上がっていた。
オルゲルのそのさまにバルバラの怒りが彼女自身でも不思議なくらい、一瞬で鎮火してしまった。
「まあ、今のは私も言いすぎた。手ぇ、おろせよ」
オルゲルも黙って腰をおろした。しかし、グラスをちょっと振り回した勢いで、チョコレートのソースが手についてしまった。
「わ、もったいない」
オルゲルはバルバラがいるのも忘れて、思わずそれを舐めてしまった。バルバラはつい笑いそうになったが、自分は常にオルゲルの前ではある程度偉そうにしていなくてはならないと己を戒めているのを思い出し、笑うのを我慢した。
「あ」
何かを思い出したように、不意にバルバラが目の色を変えた。
「今すぐ一緒に公園に行こう」
「え?」
「いいものを見せてやるぞ。びびるなよ、本当だ。ほら立って、さっさとついてこい。公園に行くぞ」
公園と聞いてオルゲルは不安になった。俱李のことがばれた可能性を思った。が、オルゲルはバルバラに促されるまま、あとについていった。倶李の声がした。
『そいつが言ってるのは私とは無関係だ。大丈夫だよ』
オルゲルは安心してバルバラの後についていった。
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