第42話
オルゲルが土埃と雑草の汁がついてしまったズボンの尻の辺りを払っているとゲンザが言った。
「この木のことはミヤコや竹子には言ったのか?」
「いいえ。不実李がどういう存在か、倶李からいくらか聞かされていたので、とにかく誰にも言わないようにしていました」
「慎重にやってくれてありがたい。俺と雲雀もこのことは誰にも言ってない。紗白にも話していない。ま、こんな所に植えておいて、用心も何もないが」
「ゲンザさんがここに倶李を?」
ゲンザはオルゲルを見つけた時のことを話し始めた。
「雲雀と二人で植えた。まあそれ自体は大したことじゃない。谷からお前と倶李を運び出したことを思えばな。何しろお前は引っ張ったらばらばらになりそうな状態だったからな。お前には悪いが、段取りには悩んだよ」
話しながらオルゲルにいやなことを思い出させていると気づいたゲンザは咳払いをしてこの話を終わらせた。カブトワリが見つかって自分が持っていることは、当然オルゲルに話すつもりはない。
「俺は種になった倶李をポケットに入れたまま、燕巣に戻った。この庭はいろんな奴が持ちこんだ植物が勝手に生えている箇所がいっぱいある。その中にこっそり倶李が混ざっていても大丈夫だろうと思ってな。倶李がこの先どうするかだが、俺としてはこのままここにいればいいと思っている。中にさえいれば二十四時間安全だ。それとも月か」
倶李はここにいるのが一番無難だというゲンザの意見自体には、オルゲルもうなずくしかない。
「だがこいつはここに根を張る気はないらしい。だから植えて何か月もたつのに、申し訳程度にしか伸びていない」
「
「その青い空と身の安全、両方揃えるのが難しいんだ、倶李の場合は。まあ、こいつ自身が一番分かっていることだ、俺ごときが何言っても聞きゃしないさ。嫌われてるしな」
「どうして?」
「もう知ってるだろうが……、俺は女王の護衛だった。だが二九一六年の洪水で何もかも終わった。女王も女王が抱えていた倶李も、あの谷に呑まれた。そのくせ俺はまだこのとおり生きている。さぞかしいやだろうさ。谷から引き上げてもらうのに俺の手が必要だったが、それでチャラになるもんでもない」
オルゲルには倶李の気持ちもゲンザの気持ちも途方もないものに思えた。どちらも今オルゲルの目の前にいる。倶李とゲンザの間に横たわるものを考えると、倶李の前でゲンザに助けてくれたお礼を言うのはよくないのではという考えが頭をよぎった。だが自分が燕巣に乗ってそもそも何をしたかったのかを思い出し、大事なのはそっちだと思った。
「ゲンザさん、私と倶李を助けてくれてありがとうございます」
まるで何かのお手本のようにまっすぐに礼を述べたオルゲルに対し、ゲンザは少しきまり悪そうに「いや別に」と言った。
「感謝しなくてもいいさ」
「私はずっと言いたかったんです」
「お前さんがよかったんなら、何よりだ」
「あ、ゲンザさん、倶李と話をしにきたんでしょう? 私もう行きます」
「いや、俺はただ様子を見にきただけだ。もう行くよ。そっちこそ好きなだけいればいい。あれ、バルバラはいないのか?」
「内緒で一人で来ました」
「そりゃまずいな。早く帰った方がいい」
「はい、そうします」
それからゲンザはオルゲルの手元を見て言った。
「新しいな。その木刀、誰かにもらったのか?」
「バルバラさんにもらったんです」
オルゲルがうれしそうな顔で言ったので、ゲンザもついつられて笑ってしまった。そのなごやかな表情のままに、ゲンザはオルゲルに訊ねた。
「かわいがってもらってるんだな。まあ、あんまり気を使うのに疲れたら、俺に言ってくれていいぞ。代わりをあたる」
ゲンザにそう言われて、オルゲルの表情は沈んだ。
「仮に、ですけど、私がバルバラさんをいやだったとしても、代わりに別の人なんて、そんな人いるんですか」
バルバラは概ね親切だとオルゲルは思っている。しかし燕巣に竹子やミヤコのような人は恐らくいない。それはオルゲルにとって決して愉快なことではない。
「いざとなれば紗白がいる。もともと今回のことだって予定が早まったのは機長である彼女の独断なんだ。いざとなったら紗白の後ろにくっついていればいい。それぐらい許される。それか、俺か雲雀でも引き受けるぞ」
それに対しオルゲルが何か言いかけた時、けたたましい警報が鳴り響いた。
(なんだこの音……。離陸前のサイレンとは全然違う)
いかにも恐ろしいことが迫っている音だった。オルゲルはゲンザを見た。彼の雰囲気ががらりと変わっている。オルゲルはゲンザが恐くなって、後ずさりした。ゲンザはオルゲルの変化にすぐ気づいて、思わず出てしまった殺気を消した。
「オルゲル違う、大丈夫だ。この警報は、ロカスト・ブラザーズの接近を知らせるものだ。恐がらなくていい、あんな連中すぐ帯刀屋がすぐ片づける。部屋に帰れ。じっとしているんだ。それから、窓の外は絶対見るな。ロカストの連中がお前の姿を発見したら厄介だ」
オルゲルは恐怖で声が出なかった。無言でうなずくと、木刀を握りしめ、その場から歩きだそうとした。しかし立ち止まった。倶李はここにいて本当に大丈夫なのだろうか。
「ゲンザさん、この公園は安全なんですよね?」
ゲンザはあくまで落ち着いた声でオルゲルを諭した。
「帯刀屋が出れば、燕巣は傷一つつかない。この中の草花も木もそっくり守られる。だがオルゲルは部屋にいろ。ロカストが来た時はとにかく全員が決められた場所にいないといけない」
オルゲルはそれでもすぐには動けなかった。自分がここで逃げていったら、倶李が傷つくだろうと思ったのである。
『ばーか! ぐずぐずしてないでとっとと部屋に行け!』
(分かった……。ごめんね、倶李)
『いいから早く!』
オルゲルは一度振り返りはしたが、その後は走っていった。後ろの方から慌てなくていいから気をつけて帰れよ、とゲンザの声がした。
(助かった。ありがとうよ、倶李)
ゲンザが倶李にそう話しかけたが、返事はなかった。
警報はやがてやみ、その後アナウンスが入った。
『次に待機解除の放送があるまで各自その場を動かないでください。繰り返します……』
外からまだばたばたと足音がしている。あれがそれぞれの待機場所へ戻る足音なのか、帯刀屋が走っているのか、どちらなのかは分からない。
部屋に戻ったオルゲルだったが、座っていてもベッドに寝転がっていても落ち着かなかった。外を見るなと言われてはいたが、やはり気になってしまう。寝転がっていれば、視界から窓は見える。しかし今のところ空と雲以外何も見えない。オルゲルは恐いもの見たさでしばらく眺めていた。やがて豆粒のようなものが窓を横切った。
(相当な距離だけど、あんな豆粒でも私の顔見えていたらどうしよう)
豆粒は次から次へと窓を横切っていく。オルゲルは位置はそのままに、頭にシーツを被った。豆粒はやがて上から飛来した別の何かによって動きを止められた。その後も猛禽類が獲物を仕留めるように、一つが一つを仕留めていった。オルゲルはベッドから出て、体を低くしながら窓の外を見た。しばらくは何も見えなかったが、やがてまた黒い鳥のような影が見えた。さっきより近い。恐怖を感じていると、やはりまた上から何かが降ってきた。さっきよりずっとよく見える。顔を上げてはいけないと思いつつ、オルゲルはもっとよく見ようとしてしまう。
当たり前だがそれは虫でもなければ鳥でもない。
オルゲルが見たのは、空を飛ぶ人間が空を駆ける無量寿によって串刺しにされるさまだった。
これが帯刀屋なのだ、とオルゲルは理解した。と同時に思った。自分には無理だ。帯刀警察になるのは無理だと思ったものだが、それとはもう比べものにならない。
『なにびびってんだよ。よかったじゃないか、これで安全だ』
(倶李! どうして! 離れてるのに声が聞こえる!)
『このぐらいの距離なら無理しなくても話せる』
(だったら、私がここに入った時にでもすぐ話しかけてくれればよかったのに)
『いや、そういうことじゃなくて、以前に話した時から時間がたってなけりゃ、こうやって離れていても会話できるんだ。二、三日ぐらいの間隔ならそれができる』
(へえ)
『だからその間はいちいち公園に来なくても問題ない。まあお前もややこしい立場みたいだしな』
(そうできるんなら、あんた以外の誰とも話したくないな)
『帯刀屋がそんなに恐かったのか。だがあいつらがやってくれなかったら、お前も私も生きていない。分かってるだろ、骨翼に機関銃をつけるわけにはいかないんだ。ああするしかない。それとも何か、お前ロカストに同情でもしてるのか?』
(そんなこと思ってない。ただ……)
『なんだよ』
(私……、無量寿に向いてないなあと思って)
『お前は無量寿だろ』
(体は確かに無量寿だよ。それは間違いないけど、無量寿として生きていくことには向いてない気がする)
『どう向いていないと言うんだ』
(私と似たような無量寿がいないんだもの)
『どこに行っても仲間外れってことか』
(月ではみんな親切にしてくれたけど、あそこは自分には合わないって思った。月崩れもあるし、あの薄暗さもいやだ。でも地上でやっていこうと思ったら、バルバラや滝鶴みたいにならなきゃいけないような気がして、それはそれでうんざりする。やられたらやり返すって思うよ、私だって。でも今みたいなのは……、無理。なんかこういう巡り合わせなのかなあ。私、お父さんやお母さんとも合わなかったし。もう早くドリントに着いて欲しいよ。着いたら私、おばあちゃんが死ぬまで家から出ないで暮らす)
その時イヤホンが外れるような感覚がまたあった。倶李が会話を打ち切ったのだ。
俱李に見放されたような気がして落ちこんでいると声がした。
『今のはたまたまちょっと途切れただけだ。神経質になるな』
その日の声はそれきりだった。
俱李に嫌われたわけではなかったことにはほっとしたが、総じてよい気分ではなかった。唯一よかったのは、窓から見た黄昏の空が今まで見た中で一番美しかったことだ。
(そうだ私はやっと広い空の下に帰ってきたんだ。忘れていた。今はずっと窓の内側だけど、もうすぐ外側にいられるようになるんだ)
鮮やかな日没を見送りながら、ああ、今ごろ月は真っ暗だろうな、などとも思った。
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