第41話
飛行機にも乗ったことのないオルゲルにとって、骨翼の離陸はあまりにも想像のつかないものだった。おかげで道場がもうないというショックを少し忘れていられた。
窓のそばに椅子を置き直し、ひたすら外を見ていた。わくわくする気持ちもありつつ、半分ぐらいは恐かった。上昇が止まり高度が安定するまで室内でなるべくじっとしていれば何も危ないことはないと聞かされていたとおり、骨翼の浮上は激しく揺れるようなこともなく、どこか安心するぐらいのふわりとした感じだった。これだけの重量のものが敢えて空を飛ぶと、かえってこんなものなのかもしれないなどと思った。
(本当に飛んでる!)
心が踊った。それでも一方でやはりこんな巨大な機械、突然何か起こるんじゃないのかという心配もなくなりはせず、結局待機が解除となるまで、オルゲルはバルバラからもらった木刀をずっと握りしめていた。もしこれが墜落して死んだら、この生年月日が刻まれた木刀だけが私が私である証拠ということになる。いや、もし墜落したらこんなものは消し炭になっているだろう。
(帯刀屋の人たちは、仮にこれが墜落しても、あの技で逃げられそうだなあ)
あの稽古、燕のように舞う彼らの姿が、熊のように木刀を打ちこむ彼らのありさまが、オルゲルの脳裏をかすめる。もうガース先生の道場はない。これはもしかしたら帯刀屋を目指せというなんらかの啓示なのだろうか。あの力は私に必要ということなんだろうか。だがついこの間、そもそも帯刀警察になるのを無理だと思ったことを思い出し、だったら帯刀屋はもっと無理だと考え直した。
そしてオルゲルはガースの道場がもうないという現実に、心のどこかでほっとしていた。今の彼女にとって、なじみの場所は懐かしくもあり恐ろしくもあった。
早くおばあちゃんやフリューに会いたい。エッカとはたくさん話したい。
でも、みんなから私の記憶がなくなってしまえばいいのに。
待機解除のアナウンスがなされると、燕巣は大地の上で止まっているように安定していた。
(これだけ静かなら一人で公園に行っても大丈夫かな。早く俱李を探しに行きたい)
オルゲルは窓の外を見た。雲が下に見える。あとは海だ。こんな光景を見るのは初めてだった。世界はなんて広いんだろう。
オペラニアやボリーバンのある大陸こそまだ見えなかったが、オルゲルはこの超然と浮遊し続ける骨翼に自分が守られているのを実感し、間違いなく自分はヴァンダやフリューに会えるのだと思うことができた。
オルゲルは早速言いつけを破って一人で部屋の外をうろついた。が、やはり誰もが考えることは同じで、制限が解かれれば人は一斉に動き出すのである。人の多さが恐くて、オルゲルは結局部屋に引き返した。
時々外を確かめながら結局一時間ほど閉じこもった。やっと人がほとんどいなくなるとオルゲルは勇んでとび出した。オペラニア語を不用意に喋ったりしなければ目立つこともないだろう、公園に行くぐらいならなんとか、と高をくくっていたとも言える。しかし少し歩くとやはり自分は目立つと思った。この日のオルゲルは薄緑色の長袖シャツに紺色の長ズボンと地味な格好ではあったが、誰がどう見ても乗組員の格好ではない。ここまでこの中で私服姿の人間を見たことがなかった。デザインはいろいろだが、見るからに指定された作業着を着ている。
(とにかく目立たないように動こう……)
ついでに木刀も持っていった。出歩いているのを誰かに咎められたら、素振りに行くところだったという言い訳にできるし、多少の護身にもなるかもしれない。
エレベーターを待つ間はとても緊張した。ドアが開いた時に誰も乗っていなかった時は、思わず安堵のため息が出た。
そのまま公園に入ると、もう倶李のこと以外、何も考えられなかった。公園の地図を見ると、大抵の所に遊歩道ができている。こここを辿って「声」をあげていくしかない。
(やっぱりゲンザさんや雲雀さんと会ってからの方が確実じゃないかな。散々歩き回ってここにいなかったらどうしよう……。種のまま、ゲンザさんか雲雀さんの部屋にいるのかもしれないし。取り敢えず紗白さんは倶李については何も知らないみたいだから、それだけはラッキーかな)
今のオルゲルは何につけてもただ「早く会いたい」という感情が先走っていた。おばあちゃんに早く会いたい、フリューに早く会いたい。今のオルゲルに合理的な判断はできそうになかった。
しかし公園は厄介なことに解除になった後とあって、人がそれなりに多かった。誰もがちらりちらりとオルゲルに目をくれた。「おっ」とか「あっ」とか言いながら視線を送る人もいた。はっきり言って恐い。早く倶李を見つけて部屋に戻りたかった。
心の中でひたすら倶李の名を呼び、それらしいものが生えていないか目を凝らしながら、オルゲルはひたすら公園の中をさまよった。
探しながら歩いていると時間がかかる。一時間は歩き回ったがそれでもまだ踏破できたわけではなかった。へとへとになってしまい、もうこれ以上歩けそうになかった。しかし倶李については今日のうちに知りたかった。
「ねえ」
女の声、一人の無量寿が話しかけていた。オルゲルが咄嗟に振り返ると、見ず知らずの中年らしき外見の女性がオルゲルを見て笑っていた。オルゲルはなんとか笑顔を作りながら、こんにちはとだけ言って、いち早く距離をとった。
「ちょっとー、ボリーバンの子ー」
背中からそんな声が聞こえてきたが、オルゲルはひたすら無視した。
(倶李……、どこ? ねえ帰ろう、私と一緒に帰ろう。うちの庭の金木犀の隣に植えてあげるから!)
倶李を自分の実家に植えるなど、どこからそんな考えがわいてきたのか、オルゲルは自分でも分からない。
『どうして私がドリントに帰るという話になってるんだ?』
「えっ……?」
間違いなく倶李の声だった。こんな風に頭の中で響く声は倶李以外他にない。きょろきょろとしていると、
『そこだ、止まれ!』
と言われた。はたして動きを止めたその視線の先に、二十センチほどの小さな木が見えた。小さいながら枝も何本かあり、それぞれに緑色の葉がついている。
「倶李……、嘘みたい……。芽が出たんだね!」
『ばか! お前みたいな新顔がここで迂闊にオペラニア語なんか下手に喋るなって言われなかったのか? ここは月じゃないんだぞ』
いきなり怒られて面食らったが、そのおかげか、オルゲルの気持ちから切迫したものが消えた。
「あはは……。倶李にまでおんなじようなこと言われちゃった」
消えそうな声でそう呟くと、オルゲルは倶李の前へとぼとぼと歩いていき、その場にへたりこんだ。
(もう、歩けないよ……)
『慌てたものだな。ゲンザか雲雀に聞いてから動けばいいものを。でもまあよく頑張ったな。私も今は中途半端な状態だから、声を届けるのも上手くできなかった。ひとまず、よくまた会えたもんだ』
倶李らしからぬしんみりとした言いぐさに、オルゲルは思わず涙をこぼしてしまった。
『ふん、先の心配をすれば涙なんか引っこむぞ』
(違うんだよ、勝手に。だってうれしくて。倶李がいたこともあそこで話をしたことも、本当はただの夢だったらどうしようって、恐くて)
『まあ頭のダメージも大概だったものな。自分の記憶に自信が持てないのも分かる』
(またそういう言い方。まあいいや、そうだ、ねえ、倶李はどうやってここに?)
その時後ろから声がした。
「何してるんだ」
倶李に会えたことですっかり警戒心を怠っていたオルゲルは、木刀を握りしめつつも、恐怖に跳び上がった。しかしどこかで聞き覚えのある声だ。振り返るまでもなく、その男はいつの間にかすぐ隣にいた。顔ははっきり思い出せなかったが、レンガ色の丸い帽子には見覚えがある。
「ゲンザさん……」
不思議なことに、ゲンザと話し始めるとまるで耳を塞がれたように、倶李の声や気配といったものを感じなくなった。しかし下を見ると、不実李の木はちゃんとそのままそこにあった。
「いや、びっくりさせたのは悪かった、すまん。オルゲル、どうかしたのか?」
そこで再び倶李の声が聞こえた。
『ゲンザになら言ってもいい。お前と私が旧知の間柄ということを。私をここに植えてくれたのはゲンザだ。ひとまずあいつはお前の敵じゃない』
オルゲルは心からほっとしながら一つ息を吸った。
「お久しぶりです、ゲンザさん……。私はその、これと話していました」
オルゲルは間近にある小さな木を示しながらそう言った。
「ちょっと待った。その、指さすのはやめた方がいいぞ。こいつの存在がばれないようにな」
「え?」
「オルゲル、悪いがしばらく小声で話そう」
「あ、はい」
「こいつの声を聞いたのか。そうか。あの谷の中でか?」
ゲンザはそう囁くような小声で訊ねてきた。オルゲルはなんとなく不穏なものを覚えたが、やはりつられて小声で答えた。
「そうです。私は倶李に引っかかったから助かったんです」
ゲンザは深刻な顔をしながらオルゲルの声に耳を傾けていたが、ふと気づいて言った。
「そんな所にへたりこんでるとズボン汚れるぞ。そんなんじゃあ、夕食の時に着替えてこいって怒られる」
言われてオルゲルは立とうとしたのだが、力が入らずできなかった。
「まあ俺が悪い。ほれ」
ゲンザはそう言ってオルゲルに手を差し伸べた。文字どおりかなりの年長者とは言え、男の人の手を取るのは恥ずかしかったが、全くの自力で立ち上がるのも無理そうだったので、ほんの一瞬だけ握った。唐突にさっきのバルバラの言葉を思い出した。彦郎剣が本来どのようなものであったか。
(今私の手を取ってくれているその手で、涙の谷から私を引き上げてくれたその手で、この人は私の知っている人の先祖を大勢殺したのかもしれないんだ。こんな、どう見ても普通のおじさんが)
(でも師匠が言ってた。ゲンザは人間を殺すことには反対してたって)
しかし今、本当はどうだったんですかなどと訊けるはずもない。
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