第40話
エレベーターで「公園」という階に向かった。エレベーターを出て他と同じように金属製の風景の中を歩き、一つの扉を開けると、機内に漂う空気とは別種の空気がむっと押し寄せてきた。
(土の匂い……。月も月なりに自然があったけど、ここはまるで地上だ。地上の普通の庭、普通の公園。それがこんな機械のかたまりの中にあるなんて!)
ここには月と違って太陽があった。燕巣のこのフロアだけ三六〇度、外壁に透明の特殊な金属が使われていて、自然光が入ってくるのだ。燕巣が巨大なだけに、フロア丸ごとに広がる公園もまた、相当な広さだった。
「いいとこでしょ。池や湖こそないけど、小さな噴水なら、そこかしこにあります」
「素敵ですね!」
滝鶴にはすっかりいやな印象を持ったオルゲルだったが、公園の自然のまぶしさには大いに魅了され、不愉快なできごとについては一旦頭の外に置いた。何より、この公園なら倶李もいるかもしれない。
(倶李、いないの、倶李……)
だが相変わらず返事はなかった。
(よっぽど近づかないと意志の疎通は難しいのかな。それにしても結構広い……)
いっそこのままひたすら倶李を探し続けたいと思ったが、この後も組まれた予定があったので、それからすぐ公園を出た。
燕巣内のおもだった施設をひととおり回り終わって、滝鶴とはそこで別れた。オルゲルは疲れてしまい、少し部屋で休みたかったが、バルバラがどうしても連れていきたい所があると言うのでついていった。
そこは居住区ではない階で、ドアには木工室と書かれてあった。そこを入ると、木の匂いが鼻をついた。金槌の音もする。
それはオルゲルにドリントのヴァンダの店を不意に思い出させた。もうすぐ帰れると分かっていても、長くドリントと離れていた寂しさがオルゲルの胸を掻き回した。
木の匂いと言えば、なんと言ってもオルゲルが生まれ育った静海の家の工房もまさにそうだった。しかし今思い出されるのは生家の工房よりも、ドリントのヴァンダのもとに移ってからのできごとの方だ。
(お母さん……)
あのころシュテフィがヴァンダの店の裏にある作業場で、そこの木の匂いや工具の音から珀花のオルゴール工房を思い出して泣いたことがあったのだ。
(あの時、私はお母さんの気持ちが分からなかった。わざわざ思い出してめそめそしなくてもいいのに、なんて思っちゃった)
ああどうして、ここでそんなことを今さら思い出すのか。オルゲルがそんな苦い気持ちを抱えている横で、バルバラの方は楽しそうにしていた。
「お前、彦郎剣やるんだったよな」
「はい」
「なら帯刀屋が最初に稽古に使う木刀、一本作ってやるよ」
オルゲルは自分はここで帯刀屋にされるのだろうか、となんとなく警戒したが、バルバラの態度にはそういう下心のようなものは感じなかったので、素直に「いいんですか」とだけ言った。
「作ってもらって、その上使っていいんですか」
「やる」
「えっ」
「まあ消耗品だから、そう気を使わなくていい」
「ありがとうございます。あれ、でも帯刀屋って、
オルゲルがそう聞くと、バルバラは「使わない」と素っ気なく答えた。
木工室というので職人がいる様子を想像していたオルゲルだったが、実際にはそういう所ではなかった。バルバラが機械の前に立ってボタンや光画面を指で操作すると、それだけで機械が勝手に作業をし始め、ゴオンゴオンという音が一、二分続いたと思ったら、小刀サイズの木刀がぽろりと出てきた。オルゲルが顔を輝かせながらその木刀を手に取ってみせた。
「うわー、すごい!」
「この程度のものを一つ作るぐらいなら、許可はいらないんだ。椅子とか机とかになると、いろいろ書いて出さないとやらせてくれないけど」
あともういっちょうやるから貸してくれと言って、バルバラは木刀をオルゲルから取った。そして今度は壁にぶら下がっている長さ三十センチほどの縦長の四角い機械を手に取った。機械には穴が空いていて、木刀の柄がぴったりと納まるようになっている。
「お前、生年月日いつだ」
今それが何に関係あるんだろうと思いながら、オルゲルは二九九二年九月四日ですと答えた。
「わっけーなあ」
バルバラはそんなひとりごとを言いながら、機械の文字と数字が並んだボタンをぱぱっと押してみせた。鉛筆削りのような音がしたと思ったら機械からブザー音が鳴って機械の動きが止まった。バルバラが木刀を抜くと、そこに今オルゲルが自分で言った生年月日が刻まれていた。
「わー、すごい。ありがとうございます! でもなんか、名前とかイニシャルじゃなくて生年月日が刻んであるのってちょっと恥ずかしいなあ」
「無量寿なら生年月日は名前よりも重要だ。ま、お前もいずれそういう気持ちになる」
バルバラはそう言ってオルゲルの顔を見た。オルゲルはまっすぐバルバラの方を見ている。バルバラは思わず視線を外し、何事もなかったかのように「名前の方を刻んで欲しいのか?」と訊ねた。
「あ、いえそういうわけでは」
「オルゲルって変わった名前だな」
「あ、よく言われます。妹のフリューもちょっと変わった名前ですけど、オルゲルって響きがなんだかごつくて」
「ボリーバン語でオルゴールって意味だろ」
「え、そうなんですか! へえ」
現代人であるオルゲルにとって、珀花の文字もボリーバンで使われていた言語も、ほとんどなじみのないものである。死んだ父の話もあまりしたくなかったので、その話はそこまでになった。今自分の手の中にある真新しい木刀の方に夢中だった。
「練習できる場所とかあるんですか?」
これだけ巨大な空間ならありそうだと思ってオルゲルがそう言うと、バルバラは「これから行くところだ」と言ってまたどこかの部屋へオルゲルを連れていった。その部屋のドアを開けると、外からは想像もつかない空間が広がっていた。
部屋の天井が最初は見えなかった。頭を上げると、何階分もありそうな高さのはてにどうにか見えた。
「えっ?」
遥か先の天井を見上げていると、さらに驚愕の光景が目に映った。人が飛んでいる。
「そこに線が見えるだろ。そこから先に行くなよ。誰か上からふってきたら下敷きになる。そうだ、上を見ろ。石が浮いているの、見えるか?」
言われてみれば黒い小さなものがいくつか宙に浮かんでいた。すると天井に近い高さから跳び降りた者がその石を踏み台にして空中のあちこちを移動していたのだった。
あまりに想像を越えた光景にかたまっているオルゲルを、バルバラはおかしそうに眺めつつ言った。
「さ、見学はこのぐらいだ。素人には危ないからな。お前が稽古するとしてもここじゃないから安心しろ」
「は、はい……。あれが踏燕なんですか」
「そうだ。若くて身体能力の高い奴が、一日中ひたすら鍛錬するのを十年以上続ければ、ああいう踏燕はできるさ」
バルバラは強い口調でそう言った。
(いや、真似する気にもなれないよ)
それからバルバラに連れていかれて入った別の部屋は、広さこそあったが、前の部屋のような高い天井はなかった。誰もが木刀を振るって稽古に励んでいたのだが、オルゲルが知っている道場の稽古とは似ても似つかなかった。細い丸太を縛りつけて作った壁板のようなものがいくつもあって、みんなそこに木刀をひたすら打ちこんでいたのだった。単純そのものだったが、叩く時の勢いがちょっとやそっとではない。人一人の力でここまで打てるのかと、彼らの一撃一撃から出る音は、轟音と言った方がしっくりきた。
(あんなやり方で手首を痛めないのかな)
そうも思ったが、彼らのそれぞれの表情を見ると、そんな段階はとうに越えているように見えた。ここでは誰もがただ自分の練習に集中しているのだ。何時間も、何年も。あるいは何十年も。
「ここは踏燕をやるまでの基礎を徹底的に覚える所だ。と言っても師匠がいるわけじゃない。あの壁からいい音がするようになるまでずうっとああしている。それだけだ」
「みんなもう、すごい音がしてますけど」
「いや、ああいう音をしているようじゃまだまだ。とにかく、音に程度が出るんだ」
「打ち合いとかしないんですか」
「しない。とにかく私たちがやっているのはな、お前の知っている彦郎剣じゃないんだ。今の彦郎剣は
バルバラの言葉の大半にはオルゲルには同意できなかったが、最後のものだけは理解できた。
「やられっぱなしは私もいやです」
「そうとも。で、まあそれでだ。明日から稽古したけりゃあそこでやれ。お前に壁打ちはまだ無理だろうから、素振りだけでいい。ここで素振りだけやってるのは気まずいかもしれないが、ここの連中は他人がどれだけやってるかなんて気にしていないからお前も気にするな。行きたい時に私の部屋に声をかけにくるか、前もって言ってくれたらいい」
「じゃあ明日から早速素振りします。まだあんまり動かせないからちょっとずつやります」
「お前は無量寿なんだから、無理したってどうってことない。たった数日でも本気でやりこめば一段階上に行けるぜ」
過酷な要求にオルゲルは困惑した。
「でもミヤコ区長から、痛みがするようなら激しい運動はやめた方がいいって言われたんですけど。ああでも、地元の道場へはまた通いたいから、やっぱり今のうちにちょっと鍛錬しておきます!」
ミヤコの名前を出した途端、バルバラの表情は険しくなった。
「あんなモロ寄りの偽善女の言うことなんか信じるな。大体あいつモロ相手の医者だろ? あいつの言うことなんか真に受けるなよ」
オルゲルは再び不愉快になった。ミヤコは自分に手を尽くしてくれたし、後のことについても親身になってくれた。何よりオルゲルが望んでいることをいつも確認し優先してくれた。それに、無量寿についてこれまでのことを多少なりとも知った今となっては、敢えて無量寿と人間との交流の場を作ろうとしたミヤコたちのことをオルゲルは立派だと思った。
しかしバルバラが人間を憎んでいることも察しがつく。迷いながらも、オルゲルは言った。
「ミヤコ区長からはすごくよくしてもらいました。だから私、悪口聞きたくないです。それだけです」
ふん、とバルバラは見下したような顔でオルゲルに言った。
「お前ばかだろ。あいつが計画したあの嘘くさいおためごかしの大会のせいでお前はこんなことになってんだぞ」
「それはミヤコ区長は悪くないです。あのラウルっていう奴のせいです」
「お前なあ。そのラウルがロカスト・ブラザーズだってこと、ミヤコも含めてみんなあらかじめ知ってたんだぜ? そのくせ参加を許して野放しにした。ミヤコや竹子がお前に親切にするのも、気が咎めているからだよ!」
ラウルがロカスト・ブラザーズの一員であることをミヤコと竹子が事前に把握していたというのはオルゲルには初耳であった。だが知ったからと言って彼らを責める気持ちはどこからもわいてこなかった。
「ラウルなんてあんなのクソ野郎ですよ。でもロカストに入っている人間とそうじゃない人間に、そんなに大した違いがあるとも思えないです。だからミヤコ区長はラウルをそのままにしたんだと思ってます。それがいいかどうかなんて、私には分かりません」
「ふん、ガキのわりには上手いこと言うな。まあそりゃそうだ」
バルバラはそう言って鉾をおさめたが、オルゲルの腹の内は煮えくり返っていた。こいつも滝鶴と変わらない、腹の立つ奴だとオルゲルは思った。
(まあこの場はどうでもいいや。なるべく我慢しよう。なにせこれから空の上だし)
「まあしかしあれだ、どうせ当分道場には通えないんだし、新しい道場が決まるまでは、家で素振りするしかないだろ」
バルバラそう何気なく言った言葉の意味が分からず、オルゲルはぽかんとしていた。新しい道場とはなんだろう。
「だってお前が通ってた道場、もうないだろ? それかもう新しく行くとこ決まってるのか?」
「なんです、それ。ガース先生の道場がなくなったって……」
バルバラの態度が一気に気まずそうなものになった。
「なんだよ、それすら知らなかったのかよ。ドリントにあるガースの道場はな、生徒が来なくなって潰れたんだよ。ああ、ガースはどっかの別の道場で教えてるって聞いたぞ。でもドリントじゃない」
「生徒が来なくなったって、どうして。わ、私のせいで?」
「違うよ! 確かにいろいろ騒ぎになったからだけどな、お前のせいじゃない」
バルバラがそう言ってもオルゲルの顔は沈んだままだった。帯刀屋の稽古風景を間近に見て、ついさっきまでこれは是非道場のみんなにもこのすごい光景を話して聞かせてやりたい、などと浮かれていた。その気分の落差は埋めがたかった。
やがて離陸直前のアナウンスが流れた。これが聞こえたらとにかく自室であれ、持ち場であれ、決められた場所にいなければならない。オルゲルとバルバラの場合はそれぞれの自室であった。お互いに微妙な空気のまま、二人はそれぞれの部屋にこもった。
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