第39話
先ほど自分の目の前で繰り広げられた一瞬の妙なやり取りに戸惑いながらも、オルゲルは紗白の横について歩いていった。一応その前に挨拶はしたのだが、紗白の方は「初対面でもないんだ。挨拶なんかよかったよ」と、言うだけだった。
かつらのことも礼を言いたかったのだが、そもそも紗白は自分が提供したことを公言するつもりはなく、ミヤコが独断でオルゲルに伝えてしまったのである。ここで紗白にお礼を言ってしまうと、ミヤコが秘密を破ったことをばらすことになってしまう。秘密の重さがどの程度のものなのか分からないし、ミヤコを悪者にしてしまいかねないことはしたくなかったので、お礼については言わないことに決めた。
「骨翼はとにかくでかい。働いている奴も多いから、積み荷以外にも物の流れがせわしない。だからいっそ月よりなんでも揃ってるな。本を読める所もあるぞ。月刻録もあるから、読みたければ読んだらいい。医者も一応いるから安心していい」
「はい」
「部屋だけど、うちは基本的にみんな一人部屋だ。まあ二人部屋もあるけどな。ただどちらにしても狭いから、そこは覚悟してくれ。機内に戻ったらお前には一人、帯刀屋をつけておく。ドリントまではとにかくそいつにくっついてろ。と言うか、お前が燕巣の中を一人で歩くのは禁止だ」
「あ、はい……」
「骨翼の中は滅多やたらに人や機械が動き回っているからな、危ないんだ。もちろん安全のために乗組員が使う通路とそれ以外は明確に区別されている。ただお前は素人だから、念には念だ」
「はい」
月の人々に比べると、紗白の話し方は荒っぽく感じた。しかし帯刀屋がついてくれると聞かされると、この人のもとなら大丈夫だとも思えた。
オルゲルは紗白の声や表情から感じ取れるものはなんであれ一つも取り逃すまいと気を張りつめていた。月刻録から彼女の過去を知った今となっては、もはや交流試合で再会した時のような気持ちで彼女に対することはできなかった。とにかく自分が彼女にいやな思いをさせることは、ほんのひとかけらでもあってはならないと心に決めていた。
空港の建物を出ると、目の前に燕巣の巨大な姿があった。空はまだ完全には明るくなっていなかったが、それでも燕巣の大きさは充分分かった。この薄紫色の空を覆い尽くさんばかりの巨大な城。昔、静海の地上十階建ての百貨店を初めて見た時その大きさに息を呑んだが、燕巣の威容はそれどころではなかった。
途中オペラニアの首都で、国名と同じのオペラニアに寄ってからドリントへ行く。予定では今から遅くとも一週間後にはドリントへ到着ということだった。
もうすぐみんなに会える。そしてこの中にあの倶李がいるかもしれない。オルゲルはためしにあの時のことを思い出しながら心の中で倶李に呼びかけてみた。しかしやはり反応はなかった。
建物を出た後は空港のカートで骨翼の入口に向かった。最初に見た時は位置の関係で分からなかったが、内部へ入るために回りこんだところ、空港に停まっている間の骨翼の姿というものを初めて見ることになった。燕巣のてっぺんから底まで丸見えになっている。ちょうどドールハウスを開いたようになっていた。
「すっごーい……」
「骨翼が開いているのを見るのは初めてか?」
「飛んでるところだって、まだ二、三回しかないです!」
「今日は離陸する日だから静かだが、地上に停まっている時はでかい荷物がひっきりなしに出たり入ったり、上がったり下がったりしているんだ。そういう時は下手に出ちゃだめだぞ。まあアナウンスは入るが」
「はい。あ、そうだ!」
「どうした?」
「ゲンザさんと雲雀さんに、できれば直接お礼を言いたいんです。お二人に助けていただいたので。会わせていただくことはできますか?」
忙しいならいいですとも言ったが、オルゲルとしては二人にどうしても会いたかった。お礼を直接言わなければ気が済まないというのもあったが、とにかく俱李の手がかりを得たい。
「もう一年近く前のことじゃないか。あいつらも半分忘れてるさ」
紗白は笑いながらそう言った。
「すみません。それでも……」
「分かった、分かった。離陸したら二人と引き合わせよう」
「すみません! ありがとうございます!」
カートを降り、ドールハウスの中に足を踏み入れた。上、また上と階層がある。下の方はほぼ貨物スペースのようで、上の方は居住スペースのように見えた。巨大なドラム缶のようなものも見える。
(石油や鉱石も運ぶって。それで空に浮かぶってどういうことなんだか)
内部は工場のようになっていて、あちこちに柵がたち、物や機械が通る所と人が通る所が厳密に仕切られているようだった。
内部は忙しく稼働していることもあって、どこもライトで明るく照らされている。オルゲルがもし普通の人間なら、月で何日もすごした後にこの明るさはとても耐えられなかっただろう。しかしオルゲルはなんの落差も感じていない。紗白がそのありさまを見てごく私的にオルゲルが無量寿であることを実感していた。
「忙しそうですね」
「本当に忙しい時はこんなもんじゃない。事故が起こらないよう、物と人の往来は常にしっかり制御している」
あれがエレベーターだと言って、紗白に促されてオルゲルもエレベーターに乗った。エレベーターは四方に大きな窓がついていて、外が見えるようになっていたのだが、オルゲルが思っていたより速く動いたので、中の風景はじっくり見られなかった。
ここでも倶李に心の中で何度か呼びかけてみたが、反応はなかった。
(どうしよう、もし倶李がここにいなくて、ゲンザさんたちも倶李のこと知らないって言ったら……。やっぱりミヤコ区長にも紗白さんにも倶李のことは最初から言った方がよかったのかな)
エレベーターを降りると、二人の女性が通路で待っていた。外見からして、一人は珀花人、もう一人はボリーバン人のようだった。ボリーバン人の方は黒っぽい作業服姿で服もあちこち擦り切れていたが、珀花人の方の作業服はもう少し明るい色で、しかもほとんど新品のように綺麗だった。
「待っててくれてありがとう。オルゲル、紹介しよう。こっちがバルバラ。ボリーバン人で帯刀屋だ。ドリントまでお前の供をしてくれる。こっちが滝鶴。私の秘書だ。何かあったら私に直接言ってくれていいが、私が手がはなせない時は滝鶴に言ってくれ。月でもそうだったろうが、ここも全員にオペラニア語が通じるわけじゃない。ただこの二人はオペラニア語は話せるから、その点は安心していい」
紗白とはそこで別れた。互いによろしくお願いしますと言って、三人はオルゲルにあてがわれた部屋に向かった。部屋には壁にくっついた小さなベッドと、そのベッド二つ分ほどの空きがあった。机と椅子もある。トイレは共用とのことだった。紗白から狭いと言われていたものの、昔見聞きした海軍の一兵卒や大型客船の従業員の住環境に比べれば、一部屋与えられるだけありがたいなどと思っていた。またオルゲルの部屋には小さいながらも窓があった。
「恩着せがましく言わせてもらうが、ここの部屋の中には窓のない部屋だっていっぱいある。機長が気を使ってくださったんだ」
「えっ、誰かの部屋だったってことですか、もしかして」
まあ私の部屋だな、とバルバラは言った。
「……なんかすみません」
「いや、新人が入ったら窓のある部屋はそっちに優先されるのが普通なんだ。入っていきなり窓のない部屋で長期間すごすのはよくないからな。まあそういうことだ。お前がドリントで降りたら、私はまたここに戻る」
横から滝鶴が言った。
「他の骨翼でも大体そうですけど、何年かに一回は機長やごく一部の乗組員を除いて、総員部屋を変えるんです。一応、公平を期すためにね」
それじゃ荷物置いたら他を案内しましょう、と滝鶴に言われて、三人は居住スペースの他の場所を順番に回った。最初は今のバルバラの部屋だった。オルゲルの部屋からまっすぐ十メートルばかり歩いた所にある。出かける時は必ずバルバラの部屋へ寄って、彼女を伴って出かけるようにとのことだった。
食堂と入浴スペースが素晴らしく広かったので、オルゲルはそれらを出て通路を歩いている時も「楽しみーっ」などと口走った。するとバルバラが「おいっ」と言った。オルゲルがきょとんとしているとバルバラは言った。
「ここでそんなでかい声でオペラニア語を喋るな」
いきなり命令口調で言われてオルゲルは気分を害したが、取り敢えず「はい」と言った。
「なんだその顔は。こっちは親切で言ってるんだぞ」
またも横柄な言い方をされ、オルゲルはただただむっとした。
「そんな言い方! 理由を言ってください!」
オルゲルはつい大きな声で口答えしてしまった。すると通路をすれ違った二人の乗組員がオルゲルの顔をじろじろと見て、さらににやりと笑った上に何やら言いながら行ってしまった。言葉がオペラニア語ではなかったために意味は分からなかったが、少なくとも好意は感じなかった。オルゲルは思わず「なんだあの人……」とこぼした。すると「まあ待って」と滝鶴が口を挟んできた。
「バルバラ、いきなりそんなこと言われたって、オルゲルが分かるわけないでしょ。この子はずっと
「ふん」
「ああ、ごめんなさいね。あのね、ここの人たちは基本的に人間に恨みを持ってるの。それぐらいのことは知ってるよね?」
「はい」
「オペラニア語を聞いただけで今でも頭に血がのぼる人がいっぱいいるの。骨翼ってのはね、とにかく大変な思いをしてきた人たちが大勢います。もともとオペラニア人だった人がそのままオペラニア語を喋ってる分にはまだ大目にみてもらえるけど、あなたみたいなボリーバン訛りと珀花訛りの入ったオペラニア語なんか、揉め事の種にしかならないわよ。だから喋る時はなるべく小さな声でね」
月では大声で話すななんて言われなかったのに、と思いつつ、それでもオルゲルは黙って聞いた。
「ここの人たちはね、地上で悲惨な暮らしをしてきたところを紗白さんや他の乗組員に拾われたとか、まあとにかくみんなかなりのわけありよ。ちょっとドリンドまで行くだけのあなたにそこを掻き回して欲しくないわけ。分かった?」
オルゲルは「はい」と答えるしかなかった。腹の中に釈然としないものがどっさりとたまった。別れたばかりの竹子がもう恋しかった。
月の人たちと骨翼の人たちとで過去の悲惨さにそれほどの差があるとも思えなかったが、それはオルゲルの知らない部分である。今のオルゲルになんとなく分かることは、ミヤコや竹子はとにかく優しかったということだけだった。
「ま、いいわ。取り敢えず面倒起こしてくれなきゃいいの。そうそう、公園行きましょ。いい所よ」
そう言って滝鶴は急ににこにこしだしたが、つられて笑えるオルゲルではなかった。
(こいつ、なに一人で機嫌直してるんだよ。こっちはわけわかんないことで責められて、最悪の気分だってのにさ……。何歳だか知らないけど……)
だがすぐに心の中で(いや我慢、我慢……)と自分に言い聞かせて滝鶴の後に従った。
バルバラにはオルゲルが内心不満をためていることが手に取るように分かった。そして今さらながら、オルゲルが涙の谷に落ちた経緯について思い出した。
(かっとしやすい奴だ。でも……、他の奴らに絡まれたら、それはそれで気の毒だ。滝鶴はあてにならない)
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