第37話

 地上の雨天はそれから二日続いた。翌日の地上は曇りだったので、月にも多少は光があった。そして上で雨が続いた影響か、水を溜めこんだ光詰草ひかりつめくさが地中ではじけて、空から水の塊が降ってくる瞬間を何度も眺めることとなった。

 暗い日々が何日も続くと、本来なら大して明るくもない黄色い空ですら、むしろこれこそが光なのだと思えてくる。こんなことを繰り返していくうちに、自分もここに適応していくのだろうか、とオルゲルは思った。

 竹子とオルゲルが茶の工場に行くと、竹子が声をかけられた。

「ああ竹子。今日十時に区長がここに電話をくれるそうだから、いてくれって」

 その時間になると、はたして工場の電話室のベルが鳴った。

「竹子です。どうされましたか」

「突然なんだが、紗白から連絡があって、三日後に静海に到着するから、オルゲルさえ望むんなら、このままドリントへ乗せていってもいいというんだ」

「ええ……、予定より早すぎますよ。そもそもオルゲルが月へ来て今日でまだ七日ですよ」

「早すぎるのは紗白も承知している。だからオルゲルが望むのなら、ということだ。まあ、おばあさんや妹さんに会えるんなら、少しでも早い方がいいというのも確かではある……」

「お返事はいつまでにすればいいですか」

「燕巣の静海での滞在時間は二十四時間だそうだ。なるべく今日のうちに返事が欲しいと」

「いきなりそんな。こっちはまだしも、向こうはちゃんと準備してくれているのかな……」

「オペラニアを経由してドリントへ行くルートらしい。まあせいぜい五日だろう。オペラニアに何日滞在することになるかによるけど」

 竹子はなんとなくいぶかしいものを感じていた。しかしこの三日でオルゲルが月に疲れているのもなんとなく分かった。

「実はね竹子。私はいっそもう行かせた方がいいかもしれないと思っているんだ。もちろん不本意だけどね」

「何かあったんですか」

「まだ公にはできないんだが、私はもうすぐ区長じゃなくなる」

「そんな!」

 竹子は底なしの暗闇に放りこまれたような気分になった。

「交流試合がだめになったこともだが、月脱出カプセルの存在を黙っていたこととか、まあ他いろいろ」

 ミヤコも竹子もそれが静海市側の方便にすぎないことは分かっている。彼らはあくまで無量寿の弱みを最大限生かして無量寿への権限を主張したいだけだ。

「新しい区長はどうも人間になりそうだよ」

「そこまでしますか」

 ミヤコがわざわざ口にするからには、もうあらかた決まっていることなのだろう。ミヤコは「別にこれが初めてじゃないし、またそのうち元に戻るさ」などと言ったが、竹子はますます自分の心が深い穴に落ちていくように感じた。

「いつクビになるかはまだ分からない。ただ私が行政の長でなくなると、オルゲルの扱いがどうなるか分からない。だから紗白の申し出にものっておくべきかとは思う。もちろんオルゲル次第だけど」

「ミヤコさんの事情はオルゲルには伝えるんですか」

「迷うところだが、そこは伏せておいてくれないか」

「分かりました。とにかくオルゲルにはすぐ聞いてみますね」

そう言って竹子は電話を切った。

 竹子から事の次第を教えてもらったオルゲルは、その場では今日の読書が終わったら返事をしますとだけと言った。もうすぐ紗白に関する箇所を読み終わる。返事はそれからにしたかった。


 紗白の部分も最後の方となるとあまり月には関係しなくなっていく。読む所は少なかった。


 ――二九四三年、燕巣の機長ミュリエルは、骨翼プリマベラの機長になるべく燕巣を降りる。代わりに紗白が燕巣の機長に。しかしオペラニアのロカスト・ブラザーズによる襲撃によりプリマベラは墜落した。墜落場所がオペラニア国内であったため、市民に多数の死者が発生した。


 それからしばらく、月刻録には墜落した一帯の惨状の描写が続いた。それは猖獗を極めていた。

 事故をきっかけに地上で生活していた無量寿の間に再び戦時の恐怖がよみがえり、それによってまた月に移住者が増えた、ともあった。一方で、帯刀屋になるための訓練を始める無量寿が急増した、などともあった。

 戦争が終わってもなお新たに起こる凶事に、もうすでに何度目かの鉛のかたまりを食らわされたような気分を味わっていた。少なくとも、明日か明後日にでも骨翼に乗るかもしれない身の上の時に読むのには向いていない内容だ。しかし、ロカスト・ブラザーズがこれをきっかけに人々からの支持を失ってパトロンも激減したという点には救いを覚えた。

(この件をきっかけに帯刀屋が増えていって、踏燕とうえんを使える剣士も増えていったっていうから、守りの手厚い骨翼に乗れる今の私はある意味ラッキー……、なのかな)

(ううん、もうこの際そういうのも関係ない……。おばあちゃん、フリュー、エッカに会いたい……!)

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