第36話

 ――二九二五年四月十一日、紗白の妊娠が判明。無量寿が第二子を妊娠するのは、歴史上極めてまれ。二十三例目。


――二九二六年十二月六日、静海市立病院にて勘五郎と紗白に第二子となる女子が誕生。新開発の血液判定により無量寿と判明。二人によって梓紗あずさと命名される。


 ――二九二七年八月十日、月崩れ発生。イナゴに似た虫が大量発生。月の北端の無人地帯から群れがやってきた。そこは未調査の地域が多かったので、この時点で詳細は分からず。状況の把握に時間差ができてしまったことにより、犠牲者は増え続けた。植物、農作物はおろか、豚や牛馬、鶏などの家畜、さらにこれまでの建造物も木造のものは全て食い尽くされた。住民はコンクリート製の建物や、金属やコンクリートで隔てられた地下室に逃げられなかった者は、ことごとく食われた。

 こがいのひめみこで魚釣りをしていた四人は咄嗟に湖に潜ったが、虫の群れも水を飲むために留まった。それから別の群れもやってきて、この四人は結局息が続かず、頭を出したところを食い尽くされた。

 勘五郎と梓紗も犠牲となった。勘五郎は梓紗を抱えながら紗白とともに外で畑仕事をしていたのだが、そこを襲われた。虫は先に梓に取りつき、次に勘五郎に取りついた。ゲンザと竹子が駆けつけ、二人がかりで紗白を摑み、その場から屋内に逃れた。ゲンザと竹子と紗白も重傷を負ったが、命に別状はなかった。

 虫は最後に涙の谷の方へ去っていった。当日から三か月後、谷の調査がなされた。谷の上部で何匹かの虫の死骸が見つかった。状態からして最終的には共食いの末に餓死したものと見ている。


 ――最も若い無量寿の死は、地上の世論にも多くの波風を立てることとなった。戦争の終わりから十九年がたっていたとは言え、人間の無量寿への憎悪はいまだ激しく、


――梓紗の死を喜び、お祭り騒ぎに興じる者は珀花でも他国でも少なくなかった。


 ――赤ん坊の死を悼む者たちも多くあった。桂口のケーブルカーの地上駅前には、各地から花が供えられた。


 ――しかしながらこの後、人間の間で生まれた子供に梓紗という名前をつけることが流行した。このことは珀花の新聞でも取り上げられ、この命名のブームはさらに広がった。

 このことはやがて紗白の耳にも入った。

 当時の月の区長デイブからの相談を受けた骨翼燕巣の機長であるミュリエルは、紗白を骨翼の乗組員として迎えることにした。紗白も同意し、月から去った。


 ――二九二八年四月、ゲンザは月を出てオペラニアへ。鉄枝の護衛となる。


 ――二九二八年九月、竹子は月を出て静海の警察学校へ。帯刀警察を目指す。


 二九二八年より後に月刻録げっこくろくに紗白の名前は出てこない。これ以来ずっと燕巣にいるということなのだろう。

 ここへ来る時ケーブルカーの中での自分と竹子とのやり取りが思い出された。

(なーにが……、竹子さんの妹は私だけだよ……)

 壁に頭を打ちつけたいところだったが、そうもいかない。リリアンに話しかけずにはいられなかった。

「今日はイナゴのとこまで読んだんです」

 リリアンは普段と変わらない調子で「そう。で、感想は?」と訊いてきた。

「感想って言うか……。この後竹子さんにどんな顔していいかって……」

「もうすぎたことなのよ」

 もう少しいかにもためになりそうな言葉を期待していたオルゲルとしては、あまり聞きたくないタイプの答えだった。

「大人ってすぐそういう言い方する」

「現時点での私の正直な気持ちだから」

 しまったとオルゲルは思った。リリアンはこの災禍の只中にいただろうに、その彼女に自分は何を言ってしまったのか。

「竹子だってもう大人だから、あんたがどんな顔したって、対応できるって」

 オルゲルは自分でもどんな言葉が欲しいか分からなくなっていた。

「ねえリリアンさん、例えばですけど不実李がいたら、防げたかもしれないですよね?」

 リリアンは「うーん、その時なかったものの話をしてもねえ」とやや気のない風でいつつ、こう答えた。

「そもそも不実李が予知してくれたとして、地震や洪水のような災害とは全く異なるタイプの災害だから、どこまで有効だったか。何月何日に来るかまでは当てられないでしょ。いつ来るか分からないのに取り敢えず本当に来るまで家や地下室に閉じこもっているわけにもいかないし……。ああでも、月のどこかで虫があらわれた時点で不実李がみんなに知らせてくれたら、かなり助かったでしょうね。まあでも今言ったのもどこまでできたのか。何しろあの不実李の種はもうずっと種でしかなかった。木として天変地異を読む能力をもうずっと発揮していなかった。そんなのが月崩れなんか予知できたかどうか」

 ただ、とリリアンは言った。

「不思議な植物がどうこうより、あの時せめて冬だったらと、みんなよく話してた。ちょうどみんな畑仕事とか、外で仕事してるタイミングだったのよ。冬だったらみんなほとんど家の中にいて、窓も閉めきっていただろうから、もっと被害は少なくて済んだ。木造の家は多かったけど、ほとんどの家が頑丈な地下室を持っていたから。私はここじゃないけど、頑丈な書庫にいたから命拾いした。あれは予兆だったのかなあ。小さな虫がやたらと書庫の中に入ってきて、いやだったからドアや窓を慌てて閉めたの。書庫の中は私だけだったから、好きにできた。そうしたら、あれが……。私は書庫の窓から、ただ見てた。外を。誰かが食われるところは見ないで済んだけどね」

「……この図書館も丈夫そうですね。木造じゃない」

「ここは水害の後に建てられたのよ。その前にも図書館はあったけど、木造だったせいで全部流されちゃった。それからよ、今のここができて、また本をかき集めて、別に書庫も作って、ばらすようにしたの。でも虫が来た時はこの図書館も危なかった。紙なんてあいつらにとっては餌だから。あのころ夏だったから、ここも扉や窓を開けてたの。でも近くにいたグレアムって人が気づいてとんできたの。大声で扉も窓も全部閉めろって、すごい剣幕だったそうよ。彼がまずとびこんできて、入口を閉めて、みんなで窓を咄嗟に閉めた。でも、何匹か入ってきていて……、結局そのコーナーの本は大分食べられた。本を食べている間に何人かで虫を退治しようと襲いかかったんだけど、一人はそれで亡くなってしまった。あとの人たちは助かったけど、ひどいありさまだった。まあ、なんとか元の体に戻れたけどね」

 あー、喋りすぎて喉渇いちゃったと言って、リリアンはいついれたのか分からないカップのお茶をごくごくと飲んだ。

「まあオルゲル、あなたの気持ちは分かる。不実李さえあればっていうのは。私もそう思ったこと、何回もあるもの。私だけじゃない。でも、今は誰もそう思ってないだろうね」

「何か理由があるんですか?」

「十年に一度大きな災害が起こるとなると、俱李をどこに植えたものかと思うの。俱李を何がなんでも守ろうと思ったら、地面には植えられない。持ち運びできないから。となると大きな鉢にでも植えて育てるしかない。でもそんな育て方でいつまでもつか……。二九一六年の洪水の時、寧寧もろとも俱李も谷に吸いこまれてしまって、俱李の種が見つからないかと、何度か捜索が試されたけれど、手がかりはなかった。二九二七年の月崩れはひどかったけれど、一つの救いはイナゴの死骸が谷の上の方でしか見つからなかったことだね。眠っている私たちの仲間、は多分食べられずに済んだんだろうって」

 月でさえ不実李の居場所ではない。リリアンの発言はそういうことでもあった。

「オルゲル、あなた本読むの好きじゃないでしょ?」

「……すみません」

「あんたは気の毒だと思うよ。こんな勉強しなきゃいけなくて。でもね、今のうちに詰めこんでおいた方がいいと思う」

「だけどいやな話ばかりで……」

「別にあんたのせいで起こったわけじゃなし」

「おまけに多いし、長い……」

「生きている間には読めるんじゃない? まあ、ちょっとでも多くね」

 思うところはいろいろあったが、オルゲルはリリアンに訊ねた。

「明日からは、何かあったらそちらに聞きにいってもいいですか?」

 どうぞどうぞ、私はその辺にいるから、とリリアンは言った。


 図書館から出た後も、オルゲルの頭の中は二九二七年であった。オルゲルは頭と口とを別々に操るしかなかった。竹子が迎えにきてから、夕飯担当の家に向かうまで、ひたすら食べ物の話と、響平の作ったオルゴールの話ばかりしていた。オルゴールや響平にちなんだ話はなかなか他にはない話が多かったので、そこそこの話の種になると思ったのである。実際、竹子は興味深そうに聞いてくれた。オルゲルにとって父が初めて役に立ったと感じられた時だった。

 夕飯に向かった家は、とてもお喋りな人たちの家だったので、オルゲルはただ聞いて相槌をうっていればよかった。とても気楽な夕飯だった。しかし賑やかな家を出てしまうと外は音一つない闇であった。朝からずっと暗かったはずが、それでもなお夜ともなれば漆黒はまたさらに深くなる。

 視界がそんなありさまではどうしても心は二九二七年の影に乗っ取られる。オルゲルは我慢できずに竹子の手を取った。

「すみません、なんか転びそうな気がして……」

「構いませんよ。見てのとおり、夜になるとさらに暗いんですよ。さっき家の明かりのなかにいたから、落差がつらいですね。まあ慣れましょう」

「はい」

「ところで今日はどこまで読めましたか? ……もう、私は月を出ましたかね?」

「ええ……」

「そうでしたか。知っている人の名前があると、つらい時期ですね、あそこは。本当に……、紗白さんは強い人です」

 オルゲルは去年の月穹の際、切符のお礼をエッカと二人で言った時の紗白に感じたうっすらとした冷たさを思い出していた。今のオルゲルにとって、夫を失い、我が子を二人とも失った過去のある女と、あの冷たさは結びつかないものである。

「そんなことがあった上で、何十年も生きるなんて、なんかつらすぎるなあ……」

「そうですね……」

 その日の晩はとても眠れたものではなかった。

 勘五郎と梓紗の最期の光景が、あの一文からオルゲルの想像上の映像となって何度も再生される。いやだと思っても勝手に浮かんでしまう。梓紗に覆いかぶさる勘五郎、二人を助けようとする紗白、もう諦めろと紗白の両腕を抱えて引っ張っていくゲンザと竹子。その時梓紗はどんな声で泣いたのだろうか。

 恐ろしい虫、恐ろしい最期。だがそれにしてもオルゲルは腹が立って仕方がなかった。赤ん坊があれほどむごい死に方をしたというのにそれを喜ぶ連中が大勢いたとは一体どういうことなのか。

 さらに「しかしながら奇妙なことに、この後、人間の間で生まれた子供に梓紗という名前をつけることが流行した」ということに、言葉にできない気持ちの悪さを覚えていた。似たようなことはきっと今でも起こり得るとオルゲルは思った。そして自分はそういう世界で生きていかなければならない。

 ひどい、ひどいと思いながらも、少なくとも、そういう怒りだけでは自分の命は続かないということも理解できる。

 咄嗟に俱李のことをオルゲルは考えた。これまでのさまざまな思いが混ざり合って、全て倶李に向かって落下していく。

(俱李、あんたがここにいて月崩れがくるってみんなに教えていたら、少なくともこんなことには!)

(今どこにいるか知らないけど、ばか! ばか!)

 心の中でそう叫んだ直後に、オルゲルはその思いを取り消した。

(やめよう、俱李はその場にいられなかったんだもの)

 そしてまたリリアンが言ったことも思い出した。俱李がいても劇的な効果は望めなかっただろうというリリアンの見立ては、あの時も今思い出しても、オルゲルを安堵させるものであった。

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