第35話
――二九一二年九月、月穹の中、時夫が失踪。当時時夫は両親とは別居しており、月穹の最中で住民の大半が屋内にいたため目撃情報もない。桂口の警察に捜索願いを出したが、年内に情報はなし。時夫は生活のことを巡って紗白や勘五郎と言い争いになることも多かった。が、深刻なものではなかったと人々は証言している。戦争で学業に注力する機会を失い、終戦後も混乱の中でそうした機会を失ったことに焦燥を覚えていたという話もある。十八歳という最も若い住人の失踪に、残された住民は落胆した。
紗白と勘五郎は時夫を探しにいきたかったが、まだ無量寿にとって地上は治安が悪すぎ、諦めるしかなかった。
――二九一六年、月崩れ発生。複数個所の天井が崩落し、そこから水流が発生。月崩れ最初の水害。月の土地の大半が水没。さらに前回の月崩れによってできた渓谷に、多数の住民が濁流に押し流されて落ちる。落ちた人々の中には寧寧もいた。さらに紗白と勘五郎、それぞれの両親もそうした犠牲者の一人である。同時に不実李の種も失われた。谷底に流された
――生存者の一人、マグダレーナの言葉。家も畑も家畜も全てが流れてきました。谷は排水口のようだった。水の流れは谷のせいで流れが分かれたんです。谷を挟んで水の流れの下手にいた私たちは、そのために助かった。女王の姿がちらっと見えました。着ているものも何もかも泥で茶色くなっていましたが、一瞬上半身が濁流から出て、それで分かったんです。その時意識はあったようで、腕を上げて必死でどこかを見ていました。でもすぐに沈んで、谷に落ちていきました。落ちていく濁流の中から一瞬、背中が見えて、それが最後でした。
――寧寧の護衛をしていたゲンザはこう語る。流れの上流からばらばらになった家の材木が押し寄せてきて、俺と女王は引き離された。俺は材木の一つに摑まっていたが、それがたまたま谷の狭い所に落ちたおかげで引っかかって、落ちずに済んだ。腕の力でそのままずっと持ちこたえた。そのうち水が止まって、人が近づいてきて、俺にロープを渡してくれた。それで助かってしまった。
――二九一六年、月崩れが起こる直前は二五六人だった月の人口は、一気に半減し、一四五人となる。その時からこの谷は「涙の谷」と呼ばれるようになった。この時の水害によって、新しい湖ができた。寧寧ならびに不実李への弔意もこめて「こがいのひめみこ」と名づけられた。
――二九二六年、新たな無量寿として竹子が見つかる。
その日オルゲルの読書はそこまでだった。竹子が迎えにきて図書館を出るころには辺りはもう真っ暗であった。
「夕方が真っ暗っていうのが、なんだか変です。夏だから日が長いはずなのに、真冬みたい」
「そうですね。私も最初のころはいやでした。地上に比べると、薄暗いか暗いかのどちらかという感じですから」
「黄色い空もきれいだなとは思うんです。ああ、月刻録で読んだんですけど、初期に移住してきた人の誰かが『空に花が咲いている』っていうの、言われてみればそうだから素敵だなって思いました」
「私もそこは好きです」
「……竹子さんが見つかったっていうところまで読みました。大分、ざーっとした読み方ですけど」
「いいんですよ、ご自身の読みたいように読んでくだされば。いやになったらいつやめてもいいんですよ?」
「ありがとうございます。今んところ大丈夫です。あのリリアンさんって人もいい人でほっとしました」
「まあちょっと変わったところもあるけど、いい人ですよ」
「オペラニア語がとっても上手なんでびっくりしました。竹子さんが喋ってるのと変わらないぐらい」
「ああ。リリアンはもともとサルザン人だったんですよ。若いころにオペラニアに留学していたので、それで喋れるんです。図書館は地上の人が研究のために利用することがあるので、リリアンがいるのはとてもありがたいんですよ」
リリアンが若いころ、よりによってあのオペラニアに留学していた。今のオルゲルにとってそれは悲劇的な匂いを感じさせるものだった。悲劇があったかどうかは分からないが、きっと苦労したことだろう。とにかくどんな人にも何かがある。そう思うとオルゲルの足取りは重くなった。
「聞いちゃいけないかもですけど、あの人、家族はいないんですか」
「リリアンはご両親と一緒にここへ来ました。ただご両親はここでの暮らしが辛かったようで、まあ、月崩れとかもありましたしね。私が月に来たころには、もういらっしゃいませんでした。サルザンに帰られたとかで」
「そうですか……」
「しばらく手紙のやり取りはしていたみたいですね。ただ今は全く疎遠だとか。まあでも、よくあることです。無量寿は殺されたりしなければ、何百年でも生きますから、親子の仲もだんだん遠くなってしまうのが当たり前なんですよ。私は今のところ近い所で暮らしていますけど。……ああ、すみません自分のことばかりべらべらと」
「いえ、気にしないでください。他の人が家族との繋がりをどうしているのか、聞いて参考にしたいですし。あ、でも話したくないことはいいです」
家族というものに、オルゲルはどうしても今日読んで知った紗白の息子、時夫のことを思わずにはいられなかった。そしてまた、リリアンが言っていたことが急にオルゲルの頭の中で時夫と結びついた。月穹の時に見える月の風景は、必ずしもその時間帯の月の風景とは限らない。
(あの月穹の時私が見た男の子は、もしかして時夫?)
だがそう考えた直後、オルゲルは気づいてしまった。あの時の切符は紗白からもらった、もともとは彼女の席だったのだ。あの晩もし紗白があの場で月穹をすごしていたら、彼女は時空を越えて動いている息子の姿を目にすることができたのだ。
紗白がテントを利用することなどまずない。それは分かっている。それでも。
例えそんな形の再会の機会でも、紗白は欲しかっただろうか。
「オルゲルさんはいろんなことをきちんと考えてらっしゃるんですね」
「うーん、別に……。その時その時、適当です」
オルゲルがそう言ったのを見て少し笑った竹子の顔がオルゲルの目にあまりにもかわいらしく映った。遠い将来か近い将来か、いずれヴァンダもフリューもエッカもオルゲルのそばからいなくなる。それでも、この人がいるならそこそこ悪くないか、などとオルゲルには思えた。
「まあ私の場合は育ての両親もいましたからね。ちょっと特殊です。あと、帯刀警察になったので、長いこと珀花のあちこちにいて、ろくに帰れませんでしたから、今はまあ、そのころの埋め合わせですね」
「帯刀警察って、そんなに忙しいんですか」
「無量寿は人間ほど頻繁な休息を必要とはしないということで、休みは月二回かそこらでした。でも帯刀警察の赴任先は大抵が町から離れた人口の少ない集落なので、人材の替えも滅多とこなくて、結局年中無休みたいなもんでしたね」
「そんなあ……」
地上で仕事を得たのなら、竹子は地上の両親ともそれなりの時をすごせたはずだと思っていたオルゲルは、竹子が気の毒でならなかった。
「まあ、戦争で人材が枯渇していたこともあるので、仕方のないところもありましたが……。今は大分ましになりましたよ」
漠然と、無量寿で彦郎剣ができるのなら自分の将来は帯刀警察かとも考えていたオルゲルだったが、早々になりたくない職業の一つとなった。
「でも珀花の帯刀警察を参考にして、他の国も無量寿に刀を持たせて警察組織に入れるということをしたおかげで、無量寿の地上での職業の選択肢が増えましたし、警察にいることで無量寿全体に貢献できることも増えましたから。特に戦争に絡んだ行方不明者の発見のためには、警察の情報網に触れられることは重要でした」
オルゲルは思い切って竹子に訊ねてみた。
「ねえ竹子さん、時夫っていう人は今でも見つかっていないんですか?」
「ええ……。帯刀警察ができて、無量寿が警察の一員となってから珀花以外の国へも情報提供を呼びかけたりしてきましたが、いまだに大きな手がかりは何も」
「写真とかあるんですか?」
「ええ。紗白さんが何枚か持っていましたから。と言っても、もし彼が人間だったのならとうに亡くなっているでしょうし、無量寿だったらだったで、多分二十代後半ぐらいの外見……。そのあたりが難しいです」
オルゲルは道場の師匠が言っていたことを思い出した。
『実は無量寿だがそれを隠して、名前も変えて生きている人は珍しくない』
これはゲンザについての会話でだったが、時夫もそうしている可能性はあるとオルゲルは思った。
「無量寿ならまだ生きている可能性が高いので、紗白さんは探し続けています。もちろん私たちも。もっとも、行方を追っているのは彼だけではありません。あの時代の混乱の中で身近な人と離散した人は大勢います。誰もがまだ探し続けています」
百年をすぎても探し続ける。その途方もなさを思うだけで、オルゲルの目に涙が浮かんできた。三年前の三月、母が乗った船が遭難したという知らせを受けてから、実際に遺体が見つかるまでの日々のことが思い出された。ああした時が百年以上続くなど、考えただけで気が狂いそうだった。同時に、自分も谷に落ちた時、倶李がいなかったら、ただの行方不明者になっていたのだと思った。
オルゲルさん、と竹子が言った。
「明日の桂口は雨だそうです。ほぼ一日暗いと思いますから、外での葉を摘むのはやれません。午前中はお茶の工場に行きます」
「はい。あそこ、いい匂いがするから好きです」
「そうですねえ」
はたして次の日、時計で朝の時間になっても外は真っ暗だった。こんな天気の中で、お昼ごはんの後はずっとあの図書館で読書というのは気が進まなかった。
その日は真っ先に「図版月刻録」をめくった。
その中に時夫の写真を見つけた途端、オルゲルは思わず「あっ」と声をあげてしまった。
オルゲルがあの月穹の日に見た男の子は、やはり間違いなく時夫だった。
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