第34話

 ――二九〇七年、開戦から二年。一家三人が月へやってきた。勘五郎かんごろう。二五六二年生まれ。紗白さじろ。二五六二年生まれ。どちらも珀花の露入江ろにゅうこう市出身である。彼らの息子、時夫は二八九四年生まれで、まだ十三歳である。

 紗白は先に月で暮らしていた両親に時夫を預けると、勘五郎と共に桂口かつらのくち避難ライン防衛のため、地上へ向かった。無量寿の戦闘部隊はこの時点で兵器不足に陥っていたため、紗白などの彦郎剣の剣士たちはカブトワリの剣を用い、銃は他の戦闘員に持たせるなどした。踏燕とうえんを使う紗白と勘五郎が加勢したことで、この後の避難ラインは安定した。

 紗白、勘五郎はもともと露入江市で国内有数の規模の彦郎剣道場の師範であった。道場には本館と別館があり、別館は無量寿の年少者向けに運営されていたのだが、こちらは人間の生徒へも門戸を開いていた。年少者の場合は人間も無量寿も大きな体力差はない。

 珀花社会でも二八五〇年代から人間たちの抵抗運動が激しくなってきたが、この道場の人間の生徒数は特に減ることもなく、また生徒同士の関係も良好であった。人間の彦郎剣の愛好家は、もともと無量寿文化への憧れが強く、それは時代の変化の中でも特に影響されなかった。しかし国内の人間至上主義組織は確実に構成員を増やし続けており、これらは徐々にロカスト・ブラザーズの珀花支部として集約されていった。彼らの中にはわざわざ道場に入門し、彼らの思想を人間の生徒に吹聴していく者たちもいた。人間至上主義者になびく人間とそうでない人間との間で道場内ではトラブルが頻発するようになり、そこにさらに無量寿の生徒たちも加わって、次第に稽古が成り立たなくなっていった。時夫はこの道場の生徒の一人であったが、幼少であったために無量寿とも人間ともまだ分からない状態で、どちらの側からも大きく影響を受けることとなった。

 二九〇〇年七月、道場は本館も別館も無期限の休業に入った。無量寿の生徒たちは、無量寿だけが通う他の道場へ移っていき、勘五郎と紗白も別の道場の師範となった。時夫は夫妻の自宅で、両親の指導の下で稽古を続けた。


 オルゲルはここでページを戻って、開戦時の記述を、斜め読みではあるが読んでいった。


 ――二九〇五年に革命宣言が出て、各地の治安が悪化する。女王寧寧は議会での決定なしに最高権力を発動できる「一挙勅令いっきょちょくれい」を出し、国内外の無量寿の保護と無量寿に対する人間の加害行為に対する軍の発砲許可を出す。


――海外から珀花への移住者が相次ぐ。寧寧は他国から移住してきた無量寿たちはなるべく月へ行くようすすめていたが、月での居住を嫌った無量寿たちは珀花の地上での暮らしを強行。このために多くの人間たちが住まいを追われた。


 ――ドリントから静海までの定期船が、機雷により停止となる。そのため個人の船で珀花を目指す無量寿が続出したが、事故が多発した。爆発して海へ投げ出された後、泳いで渡ってきた者たちもいたが、大半は力尽きて溺れるか、サメに襲われた。


 ――珀花国内で人間側の暴動が多発。女王は女王護衛のゲンザに踏燕を用いて暴動者を粛正することを命じたが、ゲンザはこれを拒否。別の踏燕の使い手、紗白、勘五郎にも命じたが、二人とも拒否。しかし、他の彦郎剣の使い手はこれに従って特別部隊を結成し、暴動の鎮圧を行った。当初は鎮圧に成功するが、踏燕を使えない彼らは数で人間に及ばず、やがて全員人間側によって虐殺される。


――軍上層部と先王からなる反寧寧派が結託し、クーデターを起こす。女王寧寧は拘束される。


 ――二九〇八年、桂口かつらのくちを守っていた剣士たちが月へ転進。人間側の武装勢力がケーブルカーに乗って月へ侵入。月が戦場に。武装勢力は次々に増えていったが、無量寿側による細菌兵器によって壊滅状態となる。革命終結宣言後も武装勢力による月への侵入は続いたが、この年に月崩れが発生。その時月にいた人間は全滅。以後、侵攻はやんだが、この地震によって当時二三六人いた無量寿のうち、五人が死んだ。いずれも地震によってできた割れ目に落ちたせいだった。五人は最初は行方不明者として扱われたが、谷の深さが計測不能であることに加え、深度五十メートルまで調査しても何も見つからなかったため、死亡とされた。


――人々は農業を始めたが、地上の作物で育つのは芋類ぐらい。ミヤコら学識者らは芋を原料とする栄養のある保存食の開発にかかる。無量寿はカロリーだけでも生存は可能だが、まだ子供の時夫には厳しい環境であった。彼がそれでも病気にかからないところを見ると、やはり無量寿である可能性が高い。


 ――次の月崩れに備えるためもあって、不実李の倶李をこの地に植えることを住民たちは望んだが、倶李は拒み、寧寧も倶李の意志を尊重した。かつて緊急勅令を出して多くの無量寿を救い、人々から敬われていた寧寧だったが、この時倶李をかばったことで孤立していった。自宅が投石にあったのをきっかけに、ゲンザ、勘五郎、紗白らが寧寧の近くで暮らすようになった。


 読み進んでいくと、鉄枝の記述が目に入ってきた。鉄枝の部分は読むのが恐かったので、後で読もうと思っていたのだが、この部分は読んでしまった。


――二九一〇年、ベステミア、ナディア、マカール等オペラニアに戻っていた双人そうじんのダンサーたちが、協力者の手引きにより脱出。ただし鉄枝は脱出の待ち合わせにあらわれなかった。脱出に成功した者たちは月まで辿り着いた。その年の九月の月穹で鉄枝を主役とした寧寧の舞台がオペラニアで上演された。鉄枝は無量寿の芸術家組合から除名された。


 鉄枝の記述にオルゲルは呆然とした。オペラニアに戻っていたという記述がよく分からなかったので、索引をもとにさかのぼって読んでみると、オペラニアの芸術家やスポーツ選手、科学者の多くが寧寧の一挙勅令後、珀花に移住してきて、その中に鉄枝やベステミア(雲雀)もいたということであった。

(それがなんでわざわざオペラニアに戻ったんだろう?)

 それにしても除名とはずいぶんだとオルゲルは思った。他にどのような事情があって鉄枝は嫌われたのか。ぐるぐると考えを巡らせている中、リリアンから「ねえ」と声をかけられた。集中していたオルゲルは思わず跳び上がった。

「そんなにびっくりした? あの、お茶どうかなって……」

「すみません。ありがとうございます」

 人の分までお茶いれるのって久しぶり、とリリアンは顔をほころばせた。

「いやな話ばかりでしょ」

「は、はあ……」

 リリアンはオルゲルのページをじっと眺めた。

「あら、鉄枝のところを読んでるのね」

「ええ、まあ」

「そこじゃあそんなこと書かれてるけど、鉄枝も昔ほど嫌われちゃいないわ。そもそも最初の除名だって、雲雀たちは反対していたんだから」

 ひとまずその点を聞いてオルゲルはほっとした。ほっとしたらまた喉が渇いたので、リリアンからもらったお茶を飲んだ。

「あんた、鉄枝のファンなんだってね」

「ええ、まあ……」

 どうしてそんなことまで知ってるのかと思ったが、すぐに月の世間の狭さに思い至り、ここで秘密を持つのは無理そうだと思った。

「月には鉄枝のファンって人はいないんでしょうか?」

「うーん、舞台とか映画が好きな人は月にはいられないよ、なんにもないから」

「そうなんですか……。月穹の時、鉄枝のお芝居が映画のスクリーンで見られるんですよ。私はそれが楽しみで」

「ああ、聞いたことあるわ。見たことはないけど。なるほど本当にファンなのね」

 その時オルゲルは唐突にあの月穹で見た月の人影のことを思い出し、去年の月穹の時誰か外に出ていたんですか、とリリアンに聞いてみた。

「ええっ、まさかあ。月穹の時はもうみんな一日中絶対外に出ないよ。もうこれは間違いない」

「うーん、確かに見たんだけどなあ……」

 そうは言っても一人ぐらいはふらふらしていてもおかしくないのでは、とオルゲルは言ったが、リリアンは「私たちが仮にちょっと外に出たいと思ったとしても、体が家から出ることを拒む」と断言した。

「家畜の世話には出るけど、それだって一生懸命体を隠しながら小屋に行くわ。あ、でも……。月穹ってねえ、今その時の月が地上に映るとも限らないのよ。オルゲルみたいに地上から月穹で人の姿を見たっていう記録、私も見たことあったわ。忘れてたけど。ここへの移住が始まってから、月穹中にふらふら外へ出た人はいないはずなんだけど、地上から空に人の姿を見たっていう証言はある。だから、全く別の日の月が映ったという説が唱えられていたわ」

「じゃあ私が見たのも、過去のどこかの、普段の月のたまたまの風景だったのかもしれませんね」

「そうねえ、まあ断言はできないけど。ほんとここは不思議な所。人間の学者も無量寿の学者もずっと研究しているけど、ここの構造も月崩れが起こる原因も、いまだに分からない……」

「戦争が終わって百年もたっているのに、何もですか?」

「何も、とは言わない。ただ研究には一にも二にも継続が不可欠。それなのに約十年に一度、大災害が発生するとなると、なかなかねえ。前の月崩れから七年たつと、むしろ私らの方から人間の学者さんたちには来ないでって言ってるの。月崩れで人間が死んだとなると、あとあと本当に大変だから。無量寿の学者もいろんな分野でいるけど、そういう人たちだって弟子はみんな人間だから、そうそう無理はさせられない」

 そう言い終えると、邪魔してごめんねとだけ言って、リリアンは自分の持ち場へ戻っていった。

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