第33話
午前中は茶の収穫を手伝い、午後は夕方四時まで書庫で読書をするというのがオルゲルの日課とされていた。ただ今日は初日ということで、地図を見ながら車で方々を回るだけであった。食料品を売っている店、衣料品を売っている店を回った。どちらもここの住人が経営している。地上の
竹子が一緒だったこともあってか、どこへ行ってもオルゲルはにこにこと迎えてもらえた。
お昼はアレクシーと茂一の家で食べた。缶詰のツナや漬物をパンに挟んで食べるばかりの簡単なものだったが、オルゲルはそれで構わなかった。それより量がかなりあって、食べきれるか心配になった。アレクシーも茂一もサンドイッチを一つか二つ取ったらもう全く食べていないのである。コンロの方から卵が焼ける匂いがしてきた。月のエネルギー資源の乏しさを思うと、オルゲルは申し訳なく思った。
「待ってね。茂一が今、オムレツ作ってるから。まあ、オムレツって言っても何もはいっていないんだけど、まだ十六だもんね、一つくらい火を使ったものがないと、物足りないでしょ?」
そう言ったそばから茂一が皿に大きなオムレツを焼いてテーブルに持ってきた。卵を三個は使っていただろう。こんなもんで足りるか? と茂一に訊ねられて、オルゲルの腹はすでに膨れていたのだが、はいと答えた。
「オルゲルさん、食べきれなかったら持って帰って、また明日の朝にでも食べればいいですよ」
竹子がそう助け舟を出してくれて、オルゲルとしてはありがたかった。
(竹子さんて、実の親とも仲よさそうだけど、一緒に暮らしてはいないんだな。まあでも、竹子さんはああ見えて百歳近いんだよなあ。そりゃ親とはもう暮らさないよね)
翌日からオルゲルはヒカリ茶の収穫の手伝いをするべく、竹子に案内されて
天井の光詰草の葉はリモコンで円盤のような形をした機械をとばせば、どんどん摘みとってくれる。円盤には葉を入れる籠がついていて、人間が操作して軽トラックの荷台に落とす。これを繰り返す。
月の明るさは、地上の桂口の天候によって左右される。
葉を積んだトラックは茶を製造する工場へ運ばれ、
「あの、私もこの機械の操作を?」
怯えた顔をしてアレクシーに訊ねると、
「ははは、初心者をそんな恐がらせるようなことさせないよ。実際、あの円盤、カッターがぶんぶん回ってて危ないからね。それと、言っちゃなんだけど貴重で大事な機械だからね。あなたはこっち」
と言って、安価に作られているという練習用の円盤とリモコンを渡されてた。
「はー、これで人に教えるのなんか、いつ以来かしら」
アレクシーはうきうきしながら、操作を手取り足取り教えてくれた。オルゲルが初歩の操作に悪戦苦闘してふらふらと飛ばしていると、茶摘みをするはずの大人たちが一人また一人とやってきて、遠巻きに眺めていた。
「ちょっとー、私も見たいから、後でここ代わってよー」
「はいはい、ちょっと待ってっ」
みんなにこにこして、口々にいろいろアドバイスをしてくれるのだが、これはこれで集中しづらかった。
(これから毎日この調子だとつらい……)
「おいおい、お前ら仕事さぼるなよー」
茂一をはじめ、ひとまず自分の手元に集中している人たちは、アレクシーたちの様子に苦笑いしていた。
オルゲルも操作に苦労しながらも、これはこれで面白かったので、顔がひとりでに笑っていた。
しかしふと竹子の話を思い出した。
『結局月まで行くことができたのは、母一人でした』
オルゲルを見るアレクシーの表情にこれといった屈託はない。他の人たちもみんな穏やかなものだ。
しかし彼らをまた遠巻きに眺めている人たちもいる。
「新しいおもちゃに夢中みたいね、みんな」
古オペラニア語だったので、仮にオルゲルたちのそばでそう言ったとしても、意味が伝わることはなかっただろう。
――私はまだ今ここへ来たばかりだ。分かることは何もない。
でもそのうち、どんな顔をしたらいいのか分からなくなるかもしれない。
オルゲルは円盤を高く、高く飛ばした。
昨日とは別の家で昼食をごちそうになった後、オルゲルと竹子は月にある図書館まで徒歩で向かった。二十分ほど先だということだった。今日も苦しくなるほど食べたので、歩くのも食後の運動と思えばちょうどよい。竹子もオルゲルに合わせてゆっくり歩いてくれる。そのような歩調だと、どこまでも薄暗く、白くて黄色い月の空が世界全体のように感じられた。オルゲルはもうなんとなく慣れてきたが、普通の人間にはこんな空間は陰鬱すぎて、いずれ心身ともに不調に陥るというのも分かる気がした。
図書館で読む本はあらかじめ決められていた。
ここは光が弱いので本の保存には向いている、と竹子は言った。館長はリリアンという女性で、彼女がほとんど一人でここを管理しているとのことだった。掃除をしたり、本の貸し出しを受けつけたり、傷んだ本を修復し、空いた時間で好きな本を読む。それだけで彼女の一日は終わる。
中は真っ暗だった。月は基本的にどこも静かだが、ここは一層音のない世界だった。奥の方から光が見える。竹子が「リリアン、明かりつけるよ!」と言うと、ややあってから「はーい」と女性の声が聞こえた。竹子が入口近くのスイッチを入れると、館内の様子がぱっと目に入ってきた。
奥のカウンターへ向かう途中、オルゲルは左右の棚をかわるがわる眺めた。それが古い本なのか最近の本なのか、あまり本を読まないオルゲルには分からなかったが、日々きちんと管理されているのはなんとなく伝わってきた。少なくともただ闇雲に数だけ揃えて並べているようには見えない。
(ドリントの市立図書館ほどじゃないけど、たくさんあるなあ)
オルゲルを館長のリリアンと引き合わせると、竹子はまた迎えにきますからと言って、帰っていった。
「ようこそ。本はこっちです。机と椅子は、その辺の好きなのを使ってね。飲み物が欲しければ言って。お茶ならありますから。ああ、あとトイレはそこ」
リリアンの早口での説明に、オルゲルはただきょろきょろとするばかりだった。
「月刻録は月崩れの記録といっていいと思います。何しろ十年おきなので。ここでの記録が後の備えとして役立つこともあるので、この本は特に大切にされているんです。月崩れに備えて書庫がこことは別に二か所あって、そこにも月刻録はあります。オペラニア語、古オペラニア語、珀花語、ボリーバン語、サルザン語、ラトゥーヤ語それぞれで全巻があります。別巻として人々の提供した写真で構成された『図版月刻録』というのも一巻あります。個人的に持っている人もいますね。竹子は持ってませんけど。あとは静海の印刷会社にもあります。原版もその会社に」
オルゲルはハードカバー四六判サイズのうち一巻をひとまず持ってきてぱらぱらとめくってみた。上下二段のレイアウトで、文字がびっしりと入っている。巻末のページ数を見ていると、八七六などとあった。これで現時点で全七巻ある。鉄枝や好きな芸能人やスポーツ選手に関するものならどれだけ読んでも苦にならないが、オルゲルはすでに挫折しそうな予感でいっぱいだった。
まず一巻の最初の数ページだけでも目を通してみた。二八〇〇年代までの記述は流刑地としての運用のされ方が主な内容となっていた。人間の犯罪者を食料以外は身一つで月へ置き去りにする。すると月崩れで大体死んでしまうというものだった。
『珀花には死刑こそなかったが、これは実質死刑であり』
などという記述は、ただそれだけで感覚の違う世界へ連れていかれるものがあった。二百年前の珀花はそのような国であったというのは、オルゲルも学校で習ってはいたが。
いろいろなるほどと思いながら、六か国同時革命勃発の少し前の時代に入っていくと、当人の体験談などがそのまま書かれてある箇所が多く、平易な言い回しが多いせいもあって意外にもすらすらと読み進めることができた。
しかしやはり長い。そして竹子の経験談がそうであったように、内容は重かった。ひとまず途中に紐を挟んで本を閉じた。
後ろの方のページをぱらぱらとめくっていると、索引という箇所が目についた。
(知ってる名前がある!)
寧寧はもちろんある。だがそれだけではない。紗白、ゲンザ、
それにしても、百年前の記録に今まさに普通に歩いて喋っている人の名前が登場するということは、オルゲルにとって相変わらず奇妙なことだった。
(嘘でしょ、竹子さんも索引の中にあるよ!
取り敢えず知っている人の箇所だけ先に読んでしまおうかとオルゲルは思った。
(誰のところから読もうかなあ……。ガース先生は、ゲンザの剣の師匠は紗白さんだと言っていたけど)
オルゲル自身は紗白への個人的興味はあまりない。しかし今オルゲルが知っている無量寿の中では彼女が一番の年長者である。彼女を辿っていけば、大抵の人のことが分かりそうだ。
紗白について記述のある最初のページを開けた時、オルゲルの指が急に重くなった。(あれ?)と思ったが、気のせいではなく本当に重い。
(どうしちゃったんだろう。疲れてるのかな……)
そう思いつつも自分でも分かっていた。これから先目を通す中に、竹子のこれまでの話と同様のことが、知っている人の数だけあるのだ。自分は今から融けない重りを飲みこもうとしている。
竹子は図書館の方向を一度振り返った。そして、今年の春ごろにミヤコと話し合った時のことを思い出した。岳仁も同席していた。
オルゲルに月の図書館で月刻録を読ませるというミヤコのプランに、竹子と岳仁は反対した。
「考えとしては分かりますが、あれを一気に読むとなると、恐怖と不安ばかりになってしまうんじゃないですか」
同席していた岳仁も、
「近ごろでは人間の子供向けに無量寿と人間の共著による歴史の参考書も出ています。まずはそれを読んでもらったら」
と、言った。
しかしミヤコは「ああいうのはだめだ」としか言わなかった。
「彼女はもう十代の後半だ。ま、本人は勉強は苦手みたいだが、それならなおのこと、今のうちにありとあらゆる危険のパターンを知っておく必要がある。これは急務だ」
竹子と岳仁が納得しかねている表情でいると、ミヤコは真顔でこう言った。
「書物や人から聞いた話でショックを受けて、それが唯一のトラウマとして一生を終えるのなら、それはいい人生じゃないか」
それからすぐに表情を崩し「もちろん、あの子が悪い考えに囚われないように、いろいろとよく話し合っておくよ」と言ってくれたが、あの時のミヤコの薄青い眼鏡の奥の、どこまでも醒めきった目が、竹子には深く印象に残っていた。。
(ああいう時のミヤコ区長は譲らない)
だがとにかく竹子にとってはオルゲルの気持ちが全てであった。彼女が抱くどんな感情も、自分はただ黙ってうなずけるようでありたいと。
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