第32話
月の駅に到着すると、竹子の案内で別の通路へ案内された。そこを歩いていくと、作業員用と書かれたドアがあった。ドアの前には計器のようなあった。竹子がそこにてのひらをくっつけると、何か点滅した後、ドアが開いた。
「あ、オルゲルさん。あなたもこの場で登録しますから」
オルゲルは竹子に言われるまま、左右のてのひら、左右の耳を計器にくっつけた。それから竹子が何やら入力して、それからしばらくすると緑色の光が点灯し、またすぐ消えた。
「この先は住民専用の自動トロッコの線路になっています。駅と居住区を直接結んでいます。もちろん上から車で行ってもいいんですが、こちらの方が断然早いので。オルゲルさんの情報も今登録したので、さっきみたいに手をかざしてもらえれば、今後いつでもお使いいただけます」
「は、はい」
ドアの向こうには小さなホームと長いトンネルがあり、その中を線路が伸びていた。ホームには大人六人分の座席がついたトロッコ形式の車両が何台か連なっている。竹子は荷物を持ちながら先頭の一台に乗り、オルゲルも後へ続いた。さっきまで乗っていたケーブルカーもいやな感じがしたが、こっちは無蓋なのでよけいに恐かった。何より寒い。
「何か羽織りますか?」
「は、はい」
「初めてだとちょっと恐いでしょ? あと十分ぐらいで着きますから、もう少し我慢してくださいね」
オルゲルは荷物から薄手の上着を引っ張り出しながら、張りついた笑いを浮かべた。
ひたすらくだるばかりだったケーブルカーに比べ、トロッコはガタガタして落ち着かなかった。ここまでの緊張感もあっていやな疲労がオルゲルの中でどんどん増していったが、耐え難いというほどでもなかった。もし同じ境遇にエッカや妹のフリューがいたらとっくに酔って吐いていたところだっただろう。が、無量寿であるオルゲルはそうならない。それでも到着したころにはさすがに朦朧としていた。
夜、自宅でオルゲルが眠ったのを確認した後、竹子は懐中電灯を頼りに歩きながら、平屋建ての木造の家の戸を叩いた。彼女の両親が暮らしている家であった。竹子の家とは歩いて一分とかからない距離にある。
竹子の母アレクシーが顔を出した。
「ただいま」
「おかえり! 本当にご苦労様。あ、ほら入って。あ、お父さんは今お風呂。あら、あんた一人?」
「すぐに寝ちゃってね。ベッドにおいてきた」
「あら、じゃあ今あの子一人?」
「うん。だからすぐ失礼するよ」
ふとテーブルを見ると竹子も見たことがない缶詰が十個ばかり積んであった。明日、オルゲルがここで食事をするので、そのためのものに違いなかった。少なくとも、両親だけならこんなに食べないだろう。
「若い子はすぐ眠くなるのよねえ。ねえねえ、そっちに顔見にいっていい?」
「だーめ。明日まで待って」
「はいはい。あ、お茶いれるね」
「ありがと」
食卓に座って竹子がアレクシーからの茶を飲んでいると、アレクシーが書き物を持ってきた。
「はい、あんたの家のどこかに貼っておいてね。オルゲルの目につくように」
それは食事をする家の順番を書いた紙であった。月に暮らす二十戸あまりの家々の住民は、竹子は別として最も若い者でも百五十歳を上回っていた。そのぐらいの年齢になると、一日二食がせいぜいである。朝一食とってそれっきりという者も珍しくない。アレクシーと夫の茂一も一日一食である。誰からとなく、
「竹子一人に三度、三度、用意させるのも大変だろう。みんなで順番に受け持とうじゃないか。オルゲルもその方が我々と知り合える」
ということになったのである。
「どの家もこっちから図書館に迎えにいくって言ってたわよ。だからあんた、送らなくてもいいと思う」
「本当にみんな?」
「ええ、みんな。私は外してって言った人はいなかったわ。意外って言えば、意外」
「ふうん。まあ、歓迎してくれるんなら、いいけど……。でもみんながみんな、オペラニア語を喋れるわけじゃないでしょ? ボリーバン語しか話せない人とか、珀花語しか話せない人とか、どうするの? オルゲルはオペラニア語じゃないと分からない。いや、私が一緒についていってもいいけど」
「あら、ザンナなんてオルゲルが来るって分かった日から、まあどういう風の吹き回しか、オペラニア語を勉強してるのよ。オペラニア語なんか死んでも習わない、ボリーバン語一筋だって言い張ってたのに。まあ、食事や茶摘みの時に多少は話せるようにしておきたいみたい」
「知らなかった」
「黙っててって言われたけど、言っちゃった、あはは」
ちなみに今、竹子とアレクシーが使っているのは珀花語である。竹子の時代の珀花は、珀花語からオペラニア語に変わっていく過渡期であったため、竹子は両方を使いこなせる。竹子の父茂一は珀花語の、アレクシーは珀花語とボリーバン語の話者であったが、地上で帯刀警察となった竹子がオペラニア語に染まっていったことと、地上の業者とやり取りする機会が何かとあったために、オペラニア語も学ぶようになった。ただ、家族三人で話す時は、結局珀花語を使っている。
「まあ……、みんながそうやって頑張ってくれるのはいいことだね。毎朝は取り敢えず私の家の方で」
「はいはい。たまにはうちにも朝を食べにきてちょうだいよ」
「うん、ありがとう」
ふと見れば、食事をする家の順番を書いた紙は、同じ物がもう家の壁に貼ってあった。
「あの……、水を差すようなこと言いたくないけど、あんまりオルゲルに注目しすぎないであげてね。まだ十六なんだから。それにあの子なりに気の毒な経緯でここへ来たってことは、心の片隅においておいてよ。それとあの子の前で
「もう何度も聞いてますっ」
新しい子の出現に「年寄り」たちがはしゃぐのも無理はないことだと竹子も分かっていた。いずれまた来る月崩れまでのせめてもの楽しみができたのだ。その辺りは痛いほど分かる。しかしオルゲルだって、彼らが気持ちよく年配者をやるためのお人形ではない。竹子としては完全に親たちに同調することはできなかった。
六月も終わりがけの今、オルゲルの月での滞在期間を長くても八月上旬までと区切ってくれたのはミヤコだったが、今となってはそうなってよかったと竹子は思った。年長者たちは時に残酷なタイミングでこらえ性を切らすものだということを竹子もミヤコも分かっていた。
「それにしても、茶摘みの手伝いはともかく、書庫にこもらせて
「それは私だって読んだんだよ。彼女だって読んだ方がいい。確かに、いろいろときつい内容だけど。無量寿ならあれは最初から最後まで読まないと。うっかり軽い気持ちで月で暮らすなんて考えて欲しくないし」
「区長は変なところで厳しいんだから」
「優先順位がはっきりしているんだよ」
母の文句を適当に流しつつ、竹子は両親の家をあとにした。
鈍い光と、何かが繰り返し空を切る音でオルゲルは目を覚ました。もう一度目を閉じたり開けたりしながら、病室でもなくドリントでもなく、当分ここで寝起きするのだと思い出した。
靴を履いて家の外に出てみると、深い霧が立ちこめていて、一メートル先も見えなかった。そのうちどこからか風がやってきて、竹子の姿が見えた。
「おはようございまーす、竹子さん」
「あら……。起こしてしまいましたかね。おはようございます」
「いえ、もう普通に目が覚めただけなので」
「ちょっと待ってくださいね。もうちょっとやってからごはんにしますから。あ、お手洗い、分かります?」
「ええ。さっきもう。ドアで分かりました」
「汲み取り式なんて、大丈夫でした?」
「いえ、うちもドリントの家は二つあるトイレのうち一つは汲み取り式なんで」
「そうでしたか。いやあ、水洗はあの宿舎ぐらいしかないんですよ」
「朝からなんですけど、あの宿舎の下水って、どうなってるんです?」
「ああ……。涙の谷の一廓まで下水管が走ってますね。で、まあ、そこからただ流すだけです」
「……やっぱり」
竹子は慌てて言った。
「オルゲルさんが落ちた所じゃないですよ!」
「そんならよかったです」
そう言いながらオルゲルは、俱李がもうここらの土には養分がないと言っていたことを思い出した。下水の近くだったら、俱李も養分には困らなかったかもしれないなどとも思った。
(いや、汚物はそのままじゃ肥料にはならないか……。でも死体に取りついたりしてたわけだし、うーん……)
「あ、竹子さん、私も着替えます」
「どうぞ、どうぞ」
着替える前にオルゲルは洗面台で顔を洗った。蛇口から出る水は地下水をそのまま引いたものだという。家の中をぶらぶらしていると、シャワールームもあったが、浴室はそれだけのようだった。
オルゲルは試合のために泊まった宿舎で使った大きな浴槽を思い出した。
(あんなにジャブジャブ使っててよかったんだろうか……。風力発電使ってるとか言ってたけど)
しばらくして朝食になった。食器類の場所などについて竹子から説明されながらだったので、少し遅くなったが。冷蔵庫があることにオルゲルは驚いた。
「あの竹子さん、発電所ってどこにあるんですか」
「ああ。涙の谷あるでしょう? 前に行った所はそうでもないですけど、もっと強い風が谷底からひっきりなしに吹いてくる場所があるんです。そこに風力発電所があるんですよ。まあ、ここらじゃそうそう電気を使うような生活はしていませんから、それで足りるんです」
今朝は肌寒いんで牛乳を少しあたためますねと言って、竹子はミルクパンに瓶に入った牛乳をそそぎ、かまどに火をかけた。
「見てのとおり、部分的には一昔前みたいなとこがあります。でも冷蔵庫が使えるだけありがたいもんです。お風呂が好きな人は、わざわざ風呂釜を作って入っていますけど、私はそこまでは面倒なんで、シャワーだけです。シャワーのお湯ぐらいなら電気温水器を使っても、そんなに食いませんから」
かまどが珍しくてぼうっと見ていたオルゲルだったが、すぐにはっとなった。
「あ、私あとで食器は洗いますね!」
竹子はにっこり笑ってじゃあお願いしますと言った。
霧が晴れてから外に出ると、距離をおいて民家が並んでいる様を見渡せた。
去年自分が
(そんなこと思い出してどうするの。私はこれからは見られる立場なんだ)
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