第31話

 持ち場に戻る途中、雲雀は倶李の葉の感触を思い起こしていた。無量寿である以上、この世の生き物の大半は、自分より先に死んでいく。その中で樹木は最も無量寿に近い存在であった。雲雀は俱李とはそれほど深く関わってきたわけではなかったが、俱李の葉の中にはこれまで雲雀が置き去りにしてきた者たちの欠片が詰まっているのを感じずにはいられなかった。もっと昔にそういうものに触れたら、その場で泣き崩れるほど感情的になっただろうと思った。そういう存在がまだ命を保っていたということは素直にうれしい。彼女としてはそれを再び失いたくはなかったのだが、倶李は俱李で長年求めてきたものがあるのだ、というのも分かる。とは言え、雲雀はそれを倶李の言葉どおりには受け取っていなかった。

(だが大地に根を張りたいというのが一番の望みとも思えない)

 雲雀はオルゲルのことを考えていた。

(倶李の望みはむしろあの子か)

 オルゲル。体は無量寿でも地上で生まれ育った彼女は中身は結局人間だ。

(竹子もそうだった……)

 月で暮らすにしろ、近日中にこの燕巣ですごすにしろ、いろいろあるだろう。

 十六まで人間として人間の社会と家庭で育った者が、月でどうなるのか、そこは雲雀には直接関係のない話だ。

 しかしオルゲルがこの燕巣でどうなるのかということについては、考えただけで気が重かった。オルゲルを守れるかと問われれば、あの紗白は間違いなく「守ってみせる」と言うだろう。しかし今の紗白に実際それを抱えこめるだけの器量があるかと言われれば、雲雀は疑わざるをえなかった。今の紗白は末端の声に耳を傾けていない。

 それから数時間後、休憩の合間に雲雀はゲンザに会いにいき、オルゲルと倶李のことを話した。

「昼間、公園で燕巣にオルゲルが来ることを倶李に話してしまった。もうとっくにお前が話しているかと勘違いしていてな。まずかったかな」

「ああ、構わんさ」

 素っ気なくそう言うゲンザに雲雀は拍子抜けした。

「いいのか?」

「もちろんこのまま黙りとおしてオルゲルも倶李もお互い知らないままドリントに行ってくれたら、ある意味それが一番無難だ。だがオルゲルが燕巣で帰る以上、そこで間違いなく鉢合うだろう。倶李の方からオルゲルを呼ぶだろうさ」

「なんだ、そういうつもりだったのか。だったら早めにこっちにもそう言って欲しかったぞ」

「悪かった」

 それからゲンザは雲雀に訊ねた。

「お前、オルゲルが燕巣になじめると思うか? もしくは、あの子が家族の所に戻って、うまくやっていけると思うか?」

 雲雀は咄嗟に答えられなかった。少し間をおいてからこう言った。

「みんなの理性が試されるだろうな」

 そう言ってから雲雀は、そんな懸念今さらしてどうなるんだとゲンザに言った。

「そのとおりだな。今のはむしろ俺が意地悪だった。ただちょっとボリーバンのニュースを漁ってたら、やなことを知っちまってな」

「なんだ?」

「オルゲルが通っていたドリントの道場が潰れてしまったんだ」

 雲雀が驚いていると、ゲンザが続けて言った。

「もともとラウルのしでかしで評判が落ちてたところへもってきて、彦郎剣を習っていると無量寿になっちまうとかいうデマが出やがった。もちろんそんなばかげたことを信じる奴はいない。だが、とにかく変な目で見られるってんで、生徒がどんどん減っていって、やっていけなくなったらしい」

「なんてことだ。オルゲルが知ったらさぞかし嘆くだろうな。国の代表の一人に選ばれるぐらいだったのに、習う場所がもうないとは」

「まあいずれ知るだろう」

「しかしあの道場で師範をしているガースという者は、津軽の弟子だと聞いていたが、それで彼は今どうしているんだ」

「別の道場で教えているみたいだ。その辺はラウルの親父のトードルが便宜をはかってやったらしい」

「ふん、ラウルの親父め。多少は役に立ったのか」

 トードルのことが出て、雲雀はカブトワリのことをふと思い出した。

「あれは……。本当にお前が持っていていいのか?」

「なんだよ、欲しいのか」

 冗談とも本気ともつかない顔でゲンザがそう言うので、雲雀は呆れた。

「お前がカブトワリの短刀を持っているとなると、頭が百年前に逆戻りする奴が山といる。トラブルはごめんだぞ。私が持っていた方が無難なんじゃないのか?」

「いいさ。人気者のお前と違って、俺にはこの中に話し相手もろくにいないからな。そういう奴が持っている方が安心だろ」

 雲雀がどう言ったところでゲンザは自分が持つと言い張るだろうと最初から思っていたので、雲雀としては「なら好きにしてくれ」としか言えなかった。


 今日のように不意にゲンザがやってきたり雲雀に話しかけられたりすることを別とすれば、ここにいる倶李の日々と言えば、暗闇で九十二年すごした体をこの公園にどうにかなじませることであった。水も養分も油断すると際限なく吸いたくなってしまう。もともと栄養不足だった体はそうすることでどんどん大きくなってしまう。それではいけない。今ぐらいの大きさがちょうどいいのだ。とにかく栄養を吸いすぎないようにする。

(そうでないと、ここをオルゲルと出ていくことが簡単にできなくなる)

 九十二年間、倶李は言葉を使うことがなかった。人の共同体ともちつもたれつでやってきた不実李の歴史は、すべての不実李の体にしみこんでいる。話したい。伝えたい。そうして人を求める。それが不実李の本能である。それは倶李にどうにかできるものではない。不実李を神聖視する者たちは、意外と不実李のそうした特性には気づいていない。

 この九十二年、倶李は谷の中で身を守るために月の天気や自分で天災の予知はしたが、言葉を使うことはなかった。

 物言わぬ死体だらけの谷でそこに根を張って生き延びてきた。歳月と共に屍さえ跡形もなくなり、それでもなお生き抜き、ある日上から生きた人間が降ってきた。

 俱李にとって人間が降ってきたのは、それが初めてのことではない。己の生に絶望してあそこに身を投げた無量寿たちはそれなりにいた。ただ彼らはみんな、倶李に当たることもなく、ただ谷底に吸われていった。しかしいつしかそんなことも起きなくなった。倶李には分からないことだが、そのころから谷に網が張り巡らされたのだ。

 何はともあれ、オルゲルだけが倶李の所にやってきた。

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