第29話
「私が生まれてまもないころに、月崩れの大地震が起きました。月崩れの中で最も多いのは地震なのですが、人が増えて家も急ごしらえが多かったので、潰れた家の下敷きになった人がたくさんいました。まあ、無量寿の体なので死者は少なかったですが。あの地震で涙の谷ができたわけですが、それは当時の私たちの家のすぐ近くでした。今回は凌いだけれど、次にどんな月崩れがくるか分かりません。両親は私を手離すべきではと考えるようになりました。まだ血液による判定ができる前だったので、私が人間なのか無量寿なのか、分かりませんでした。ひょっとしたらこの子は人間かもしれない。だとしたら空気も薄く日照も弱いここで育てるのはよくない。かと言って地上は無量寿の一家が暮らせるような状態ではない。だったら人間の誰かに託すべきではないかと。でもそれは、託した相手の人間を危険にさらす可能性がある。仮に私が人間だったら、人間の夫婦に託すことは単純に最善の選択です。でも無量寿だったら……。当時の両親がどれほど悩み苦しんだか、私には想像もつきません」
オルゲルの心臓がさっきからずっと激しく鳴っている。
「それでも結局両親は、私を知り合いの夫婦に預けることにしたのです。この子が人間だったらいっそこのままそちらの子供として育てて欲しい、無量寿だったら迎えにいく、などと言い残していったそうです。無量寿かどうかは、女の子だから生理の有無で案外早く分かるかもしれない、とも……。私の育ての親はよく引き受けてくれたと思います。友人同士ではありましたが、互いにそこまで深く親しかったわけではなかったそうですから。しかも人間の両親にはすでに三歳になる男の子がいました。戦争のせいで食べ物を手に入れるのも大変だった時代でした。なのにどうしてそこまでしてくれたのか、今でもよく分かりません」
オルゲルはふと気づいた。竹子を育てた人間の両親、共に育った兄、三人はもうこの世にはいない。オルゲルは思わず竹子に訊ねた。
「かわいがってもらえたんですか?」
竹子はオルゲルの目を見て「ええ、とても」と答えた。
「両親は私が養子であることを近しい人にも私自身にも早い段階から教えていました。もちろん実の親が無量寿であることは誰にも言いませんでしたが。顔が全く似ていなかったので、逆に私は両親が他人であることに自然に納得していました。むしろ親に対して、なんでも子供を信じて話してくれる、いい人たちなんだと思ったほどです。でも、友達のほとんどに生理がくるような年ごろになると、そうもいかなくなっていきました。私は身長こそ人並みでしたが、生理は始まりませんでした。母は私に、『生理がこなくてもそのことを友達や先生に言うもんじゃない』とよく言ってきたものです。私も自分だけがこないことは恥ずかしかったので、友達に対してはもうきているように振る舞っていました。十六になってもこなかった時、これは何か重大な欠陥なんじゃないのかと恐くなって、病院で調べてもらいたいと母に相談したんです。でも母はそんな必要はないと……。相変わらず気にするな、人には言うな、そればかり。体の毛のことも胸のことも母に言われましたね。母はとにかく人に見せるなと言うんです。何言ってるの女同士なのに、私はそんなの気にしないって笑いましたが、母は大真面目。それでプールもだめ、大浴場もだめ。母の真意など私は知る由もありません。反発するばかりでした。母とぎくしゃくするたびに私はもしかしたら自分は欠陥体なんだろうかとかと不安になりました。でもそれ以外では特に揉めることもなくて、平和なものでした。でもある日、新聞で一つの記事に目が留まりました。十七歳の女の子が、学校の帰りに同じ学校の男女からリンチに遭って大怪我をしたとありました。そこには彼女が無月経であるために無量寿だと疑われたとありました。そして、人間であるかいろいろと疑わしいので厳正な検査を予定している、とまで書かれてありました。その時初めて、これまでとは全く違う種類の疑いが頭をかすめました。本当に、小さな、小さな疑念でしたが……」
「竹子さんが月のケーブルカーに乗ったのは十八の時って……」
ええ、と竹子は素っ気なく言った。
「ちょうど十八になった時、育ての両親が全て話してくれました。そこからしばらくは……、もう混乱の極みでした。学校では無量寿は体の強さを武器に弱い人間を搾取してきた悪い存在で、それを地上から追い払った革命は正しい戦いだったんだとずっと教えられてきたんですから。でもそれより何よりつらかったのは、無量寿がどれほど長生きするかということ。自分は両親や兄が死んだ後も何百年も生きていくんだなんて、知りたくなかった。両親は私が大学へ行くことをすすめてくれていて、当時はその受験の時期でしたが、もうそれどころではありませんでした」
「それでも将来について決断すべきことがたくさんありました。まずは月にいる実の両親に連絡をとりました。そして、無量寿であることを役所に申告しました。無量寿が人間と偽って暮らしていると、
「……十八になるまで人間として暮らしていたことは、罪になったんですか?」
「いえ、それはなかったです。あの混乱期、そうとは知らず引き取ったという風に受け取ってもらえたようです。そのころは養子縁組は盛んでしたから、まだ誤魔化せたんです。でもこの無量寿であることの申告っておかしいんですよ。証明するものは不要なんです。ただ専用の用紙を書いて出すだけ。血液から分かるようになってからは、さすがに結果を添付するのが必須になりましたが、私のころはずいぶん出鱈目でした」
無量寿としての申告は、オルゲルもすでに完了している。ヴァンダはこれまで二度静海の病院にオルゲルの見舞いにやってきたが、そのうちの一度はこの申告のためだった。オルゲルの手続きはヴァンダに委任して、静海市役所、およびボリーバンの大使館で受理されている。
「竹子さんが月へ行ったのは、実の親御さんからお迎えが来たからですか?」
「いえ、自分からです。自分が無量寿だと知った時から、今いる所から逃げたくて仕方がなかった。無量寿だったことは誰にも言いませんでしたが、役所へは届け出たわけですし、書類を見た人が第三者にばらすことは有り得ることです。ただ、私が月へ行ったタイミングはよいとは言えませんでした。何しろ、前回の月崩れからちょうど十年たっていて、新たな月崩れがいつ起こってもおかしくない時期でした。どちらの両親も私が月へ行くことには反対していました。それでも私は地上から出たかった……」
「行って……、月は、無量寿の人たちはどうでしたか?」
「そうですね、まあ……」
ここへきて竹子は急に言い淀んだ。オルゲルは踏みこみを誤ったかと、背中に冷たいものを覚えた。
「私自身の進路が決まるまでは……、帯刀警察になるまでは、なかなか難しかったです。もちろん、月の人たちはみんなとてもいい人たちでした。でも私はその時点で、最も若い無量寿でした。その時点でというのは、あくまで判明している範囲の話ですけどね。私より年下で、でも無量寿であることを隠して世間の片隅で生きている無量寿だってどこかにいたことでしょう。でも、とにかく私が最年少の無量寿でした」
「今は私がそうですよね、多分」
「はい」
「竹子さんと私の間には誰もいないんでしょうか」
「……いません。今のところは」
そっかあ、と言いながらオルゲルの表情はひとりでに緩んでしまった。竹子もそれにつられて思わず笑ってしまった。
「どうしたんです?」
「あー、すいません。すごくばかなこと思っちゃった」
「まあ、なんでしょうね、オルゲルさん。どんな楽しいことですか?」
「あ、あの、その……、竹子さんの妹分は私だけなんだな、って思ったら、その、それだけはうれしいなって……、。すみません、すごく真面目な話をしてくださってたのに、もう、本当に!」
あまりに恥ずかしくて思わず目を伏せていたオルゲルが再び顔を上げると、そこには目に涙をためている竹子の顔があった。申し訳なさからオルゲルは何も言えなくなってしまった。
しかし竹子の方が「ごめんなさい」と言って手の甲で顔を拭った。
「気にしないでくださいオルゲルさん、これは別にあなたに対してどうこうというものではありません。気を使わせてしまって申し訳ないです」
竹子はそう言ってくれたが、オルゲルはもはや居たたまれず、小さな声で「すみません、もう寝ます」と言って、少し離れた所にある広い座席に行って横になるしかなかった。
二九二六年、月で生まれた女の子の無量寿のことを、竹子はこの時オルゲルに話さなかった。
前の月崩れから十年後に自ら初めて月へ行った竹子は、その翌年に月崩れに遭遇した。そのこともオルゲルには言わずにいた。それについてはいずれ知ることになるので、今のこの移動中の会話からは意図的に外した。
それからケーブルカーが月に着くまで、竹子はずっとオルゲルを見守り続けた。寝ますと言ったが、すぐにごそごそと動く彼女が眠っていないのは明らかだった。それでももう声をかけたりはしなかった。
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