第26話

 静海せいかい市立病院の勤務医でもあるミヤコの院内にある個室の扉は常に半開きになっていて、入ってすぐの所にいつも護衛がいる。いち行政区の長である以上、そういう者をそばに置かなければいけない。おかげで命拾いをしたことは、これまで何度もあった。護衛は不定期に交代するのだが、今は竹子がつとめていた。役目についてもう半年ほどになる。引き受けたのはあの交流試合が無残な形で終わった直後のことであった。無量寿と人間との関係を少しでも友好にしたいというミヤコと信条を同じくする竹子としては、護衛役は光栄なことである。だがそれとは別に、オルゲルのそばにいる上でこれが手っ取り早いのだ。

 時間の経過はオルゲルの肉体を回復させていた。市立病院の外科医を総動員して破裂した内臓を縫合し、切れた血管を縫合し、全身の複雑骨折を継ぎ合わせた。最初にオルゲルの状態を見たある医師は、ここは手術室であって病理解剖室ではないはずだ、などと言ったが、オルゲルの心臓が動き、脳波もあることを確認すると、とにかく頭では目の前の現実を受け入れ、手術にかかってくれた。

それでもこの病院に無量寿用の麻酔が常備されていなければ、こういったこともできなかった。

 手術から半年がたったとは言っても、オルゲルはまだ人と会話できる状態ではなかった。体全体のうち両目の傷はまだ軽い方だったので、視力の回復は早かった。聴力も問題なかったが、頭痛がひどく、人の声が頭に響いてたまらない。意識が回復したころ、ヴァンダとフリューが面会に来たことがあったが、二人に間近で泣き喚かれてひどく苦しんだものだった。自分の声も同様につらい。顎の骨も痛くて動かせなかった。今はその時よりはましになっているが、それでも長い会話となると難しい。

 そんな中でも右手のリハビリを始めている段階であったが、こちらもまだ字を書ける状態にはなかった。

 そういったことに比べると些細なことではあったが、頭髪がはえてこないでいる。体が他の重要な部分の再生を優先しているためだった。

「ひどい損壊をたくさん扱ってきたけど、今さらまた新たな一例ができるとはねえ。十代の時点ですでにこれほどまで無量寿としての特性が出ているというのは。近いうちに長話もできるかな」

 長い会話ができる状態になるということは、オルゲルにとってつらい知らせをたくさん知り、なおかつそれについて自分でいろいろ決めなくてはならないということでもあった。

「私が説明するまでもなく、彼女は自分が無量寿であることに気づいているようだった。これまでそういうことを自覚して生活していたようには見えなかったけど。ま、なんにせよこちらとしては助かるよ。いろいろ話も早い。今はリハビリに注力してて、体の痛みや不自由さに消耗しているから、大まかなことしか教えられないし、彼女も込み入ったことは聞いてこないけど」

「ミヤコさん、それでもオルゲルは周囲をひどく警戒しています。人間の医療関係者に対しても、私たち無量寿に対しても。体があの状態なので表面上は頼ってきますが……」

「そこはまた変わってくるよ」

 竹子が沈痛な面持ちのまま黙っているので、ミヤコはふと椅子から立ってカーテンの隙間から窓の外を覗いた。病院の敷地の内にも外にもカメラを手にした輩がたむろしている。視界に入っているだけで五、六人はいただろう。これでもかなり減った方だ。

 ミヤコはオルゲルが無量寿であるという事実を、静海市長には直接伝えていた。もちろん極秘扱いである。しかしそれが先週、一部の媒体によって報じられた。市長とミヤコは記者会見を開いて、あの交流試合で負傷した女子高等学生が無量寿であったということを正式に公にする事態となった。それが今、病院の外で記者がうろついているというありさまに繋がっている。

 外見はなんら変わらない人間と無量寿を科学的検査によって区別する方法は、二九二〇年代に確立された。無量寿の血液に反応する薬品が開発されたのである。

 そして二九二六年、月で無量寿の両親のもとに一人の女の子が生まれ、この検査を受けた。結果は無量寿であると出た。

この検査はその後も世界中の新生児が受けることとなったが、先述の月生まれの女児以来、新たに生まれた無量寿は確認されていない。人間と人間、あるいは無量寿と人間という組み合わせで無量寿が誕生したという例は歴史上なかったので、この結果は科学者たちにとって予想の範囲内であった。その後この検査方法は、オペラニアを除いて二九六〇年代辺りから行われなくなっていった。

 そうした中で三〇〇九年の今、オルゲルの血液からこの検査が行われた。日を別にして採られた複数のサンプルの結果は、いずれもこの血液の主が無量寿であることを示していた。

 明らかに人間同士の夫婦の間に無量寿が生まれていたという事実は、世界にとって衝撃であった。衝撃とは言っても、無量寿が敵であり抑圧者であったという記憶を持つ人間がすでにどこにもいない以上、人々にとって実態を伴わない衝撃である。そのおかげか、今のところオルゲルを取り巻く狂騒は積極的攻撃性を帯びてはいない。もちろん、そんなものは時間の問題だと多くの者が思っている。

「こうやってなんでもばれるんだから、真っ先に市長に話しておいたのは不幸中の幸いさ」

 オルゲルが無量寿だということを、月と病院のみに留めておくということもできなくはなかった。実際、世間から完全に隠し通すことでしかオルゲルは守れないという意見は多かった。だがミヤコは少なくとも市長、さらに珀花とボリーバンの政府には伝えなければと主張した。

「ことが大きければ大きいほど、あちらには全て伝えなくては。隠していたと後から知られた時、もうどんな言い訳も通じない。オルゲルのことは今隠せたとしても、いつか必ず判明することだ。職場によっては毎年の健康診断で血液検査を実施している所もある。そこで判明するのも充分に悲劇です」

 他にも様々な言で反対者たちを説得したが、

「とにかく、オルゲルは女性なんですよ」

 その結論の前に、誰もがミヤコの論に賛成するしかなかった。

 無量寿の女性はおおむね二十歳で初経を迎える。オルゲルが無量寿であると断定した要素の一つが、彼女の初経遅延であった。

 血液による判定が一般化する以前、月経が遅いということから無量寿であると決めつけられた女性が暴力の対象となる事例があとをたたなかった。またそういった事件が起こらないとも限らない。

「今この段階から、我々の手でオルゲルを最大限守りながら彼女に現実を学んでもらう。その方が彼女のこの先何百年の人生にとって有益だと思います」


 窓際から部屋のソファに腰をおろすとミヤコは一つため息をついた。

「なーんて、また理詰めでかっこつけちゃったよなあ、あの時は。またみんなの顔ときたら」

 言われた竹子は取り敢えず笑った。

「お互い泣かないようにしないとね、竹子。彼女の前では」

「はい」

「百年たっても我々は、新しい命がその生まれのままに生きられる世界を用意できなかった。恥ずかしい限りだ」


 それからまたしばらく後、オルゲルが自力歩行で病院のトイレまで行けるようになったこともあり、今後のことについてミヤコからオルゲルに対し、今までより具体的に説明することとなった。すでに新たな年も半分がすぎ、静海も徐々に夏が来ようとしていた。

 ちょうどオルゲルへの贈り物、まだ頭髪がはえてくる気配のないオルゲルのために、かつらが作られたので、それの試着も兼ねていた。

 場所は病院のミヤコの個室で、ソファに座って行われた。当然竹子も同席した。

 テーブルの上にはミヤコがいれたコーヒーと、蓬色の小皿に竹の楊枝を添えた黒い羊羹があった。

「餡子、平気でした? 一応他のお菓子もあります」

 ミヤコはそうオルゲルに訊ねた。

「いえ好きです。珀花にいたころは普通に食べてましたから」

「そりゃよかった。あ、コーヒー、冷たいのじゃなくてごめんね」

「いえ、冷たいものは歯に沁みるので。お菓子もこういうのなら食べやすくてありがたいです」

 オルゲルはそう言って笑顔で羊羹を一口食べた。肩の損傷がひどかったせいで、これだけのことでもまだぎこちなかったが。

 それからミヤコはかつらをオルゲルに見せた。髪色がオルゲルの亜麻色とは違っているのが難点だったが、評判の職人の手によるものとかで形はとてもよくできていて、つけていてもほとんどかつらと分からなかった。長さはオルゲルの希望で、前の髪型と同じ長さにしてある。

「同じ無量寿の髪から作られたかつらなんですよ。色が揃っていなくてごめんなさいね。あなたと近い色で髪の長い無量寿がいなかったものですから。無量寿の髪は強いので、このかつらも市販の毛染め薬で染めても問題ありませんから、よかったらいつかご自分で調整してみてください」

「いいです、このままで。綺麗な銀髪ですね」

「いえ、それ確かにとても艶やかですけど、本当は白髪なんです」

「えー、ちっともそんな風に感じない。白髪ってもっとごわごわしてるのに」

「実はその、提供者からは口止めされていたんですけど、紗白さじろさんの髪なんですよ。あの人が自分のでよければと」

 紗白さんの、と叫んでオルゲルは顔を輝かせた。紗白がオルゲルを病院に運ぶまで尽力してくれたことはミヤコからすでに聞いていたが、髪までくれるのは予想外だった。彼女にどこか冷たいものを感じていたので、よけいうれしかった。

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