第27話

 ミヤコの話はそれから始まった。

「新学期が始まる九月まであと三か月あります。オルゲルさんとしては、一日も早くドリントへ帰りたいと思いますが、あとしばらく、新学期までは待っていただきたいんです」

「その方が私もいいです。体がよくなったからってそのまま帰れないのは分かっています。なんか大騒ぎになりそうだし、向こうも困るだろうし。おばあちゃん、手紙ではそういうこと書いてないけど」

 すぐには帰れないということにオルゲルは同意するだろうとミヤコたちには分かっていたが、実際にそうなると悲しいものがあった。

「退院したらしばらくは月で暮らしていただきます。竹子の家に空いている部屋が一つあったので、そちらに住むことになります」

「はい」

 その時のオルゲルの表情に特段のものはなかった。憧れの竹子と一緒に暮らせると言われても、それがうれしいかと言えば、なんとも言えなかった。

「今学校は休学ということになっていますので、新学期になったら同じ学校の一年生として復学することになります。勉強がしたければ、いろんな通信教育をご案内します。ただ通信教育で休んでいた分の授業を取り戻せるものではないので、新学期からの復学は一年生からというのは変わりません」

「無量寿について勉強することの方にも興味があるので、学校を一年生の最初からやり直すことは別にどうでもいいです」

「ありがとう。こちらとしてもたくさん教えたいことがあります。もちろん、オルゲルさんについてもたくさん知りたいので、よろしくお願いします」

「……お願いします」

「あと、これまでの入院中の医療費については未成年被害者の救済ということで、珀花が国費で負担するので、そちらには一切請求はいきませんが、今後は個人負担になります。オルゲルさんはボリーバンの国民健康保険に入っているので、発生した医療費はそちらに請求すれば、保険負担分は戻ってきます。とにかく、何か不調があったら遠慮しないで言ってくださいね」

 それについてはよく分からないことだったので、オルゲルは曖昧にうなずいた。ミヤコとしては事件の当事者であるボリーバンではなく珀花の国費でオルゲルの莫大な医療費をまかなうことになったことに寒いものを感じないでもない。後からミヤコに、あるいは無量寿のコミュニティに何を押しつけられるかと危惧している。が、今はそれについていくら憶測を巡らせたとしても意味はない。

「一つ、いいですか」

「うん、なんです?」

「私を引き上げてくださったお二人の方に直接お礼が言いたいんですけど。名前もまだ聞いてなくて悪いなあって」

 オルゲルは自分を助けにきてくれたのが誰なのか知らない。覚えているのはあの時俱李ぐりが叫んでいたゲンザ、ベステミアという名前だけだ。

入院してある程度気持ちが落ち着てきたころから、オルゲルにとって気がかりの一つは俱李の居所であった。もうずっと倶李の声を聞いていない。オルゲルは周囲に対して自分からは絶対に俱李のことを言い出さなかった。その一方で、誰一人自分に不実李のことを聞いてこない。

(倶李、どこにいったんだろう。まさかもういないのかな……)

 そんな心配を抱えつつ、オルゲルは恩人二人の居所を尋ねた

「もっと早くに言い出せればよかったんですけど、ろくに動けないし、喋れないし。それに顔とかあんまり見られたくなかったし……」

「ああ、ゲンザと雲雀ひばりだね」

「あ、いえ、雲雀さんじゃなくて、ベステミアさんでは?」

「ベステミア?」

 ミヤコも竹子もひどく驚いた顔をした。

 ベステミアなんて誰がそれを? とミヤコがオルゲルに訊ねると、オルゲルは一瞬返答に詰まった。

(私、何かまずいこと言っちゃったの……? どうしよう!)

 倶李は種に戻ってあの二人の手で谷を出ていなければならない。それが倶李の望みだったのだから。

(あの二人が倶李を持っていったとして、もしかしてそのことをミヤコさんたちには伝えていない?)

ミヤコが倶李のありかを知りながら隠している。ゲンザとベステミアは揉め事の種になりそうな不実李の種を破壊した。そのような不安が次々に浮かんだが、迂闊に聞き出すこともできない。

「ベステミアねえ、いやあ、ひっさびさに聞いたなあ。ああ、ごめんごめん、オルゲルさん。それは雲雀の昔の名前だよ。いや昔どころか大昔だな。だけどそんなの誰が言ってたの?」

 ミヤコの声に屈託はない。

「いえ誰がって……、覚えていないんですけど、まあ誰かです」

「へーえ、誰だろうねえ。まさかゲンザかなあ。あの人、ついうっかり前の名前で呼んじゃったのかな」

「ゲンザさんに限って有り得ませんよ、ミヤコ区長」

「そりゃそうだ。よりによってゲンザにそんな呼ばれ方されたら、その場で雲雀にお手打ちだね、ははは」

 ミヤコはついオルゲルそっちのけでそんなことを話していたのだが、すぐ我に返って「ごめんごめん、ついこっちの話しちゃって」と詫びた。

「オルゲルさん、交流試合の時、無量寿の席に赤毛の女性がいたと思うんですけど、覚えていますか? 試合に出たわけじゃないから、覚えてないかな」

「覚えてます」

 席で竹子と親しげに話していたので、その赤毛の女性のことは印象に残っている。

「その人は雲雀というんです。ベステミアというのは、彼女の昔の名前だね。彼女は昔、世界的に有名な無量寿のダンサーだったんだ。双人そうじんって知ってる?」

「知りません」

「無量寿独自の舞踏なんだが、湖の上で二人一組になってやる、アクロバットなダンスなんだよ。ちょっとしたサーカスだな、あれは。まあ彦郎剣なんかと違ってすでに絶えてしまった芸だけどね。そう言えばオルゲルは鉄枝かなえのファンだったよね。双人には一人でやるひとえというのがあるんだけど、鉄枝の舞はそれをベースにしたものなんだよ」

 鉄枝の名前を耳にして、オルゲルの目は否応なしに光が入ってしまった。

「もしかして雲雀さんは鉄枝さんの知り合いなんですか?」

「そりゃあもう」

(私は鉄枝の知り合いに助けてもらったんだ!)

 急にうきうきしだしたオルゲルを見て、ミヤコと竹子の顔も思わずほころんだ。竹子は思わず重ねて言った。

「ゲンザさんも昔、鉄枝のボディガードをやっていたころがあったんですよ」

「わあ……」

「お二人とも彦郎剣の剣士です。ゲンザさんは元から彦郎剣の使い手ですが、雲雀さんは戦争が終わってから剣を取られました。私も近いころに本格的な稽古を積み始めましたが、彼女と私とは比較になりません。雲雀さんは踏燕とうえんができるんです。ゲンザさんはもちろん。ゲンザさんは私と雲雀さんに彦郎剣を教えてくれた師匠でもあります。あ、踏燕ってオルゲルさんは選手だから聞いたことあるかもしれませんが」

「師匠から聞いたことがあります。空を飛ぶ燕を踏むぐらいの身のこなしで敵を薙ぎ払うっていう」

「それです。涙の谷は途中まではクレーンで行けますが、そこから下へ一刻も早く動けるのはあの場であの人たちだけでした。あなたを抱えて帰るのも、あの二人でなければまず無理でした。もともと、何かトラブルが起こった時のためにというミヤコ区長の願いでお二人に来てもらったのですが、結果的に正解でした。お二人のおかげです」

 そう説明した後、竹子は微笑みながらこう言った。

「でも一番頑張ったのはオルゲルさんですから」

 オルゲルは曖昧な笑顔で「はい」と言った。そうして、ミヤコが話を戻した。

「あの二人は骨翼こつよくの乗組員なんだ。燕巣えんそうというね。世界中を飛び回っている。今ごろはまたどっかの空の上でしょう。ああそれでね、オルゲルさんが月からドリントへ戻る時は、静海から燕巣に乗ってもらうことになっています。一番安全ですから。まあ、ゲンザと雲雀にはその時に会えるだろうから、お礼ならその時でいいと思いますよ。まあ、早く二人に伝えたい気持ちは分かるけど」

「はい」

 ミヤコはまた名前について念を押してきた。

「それとあの、ここだけの話、この先会うことがあったら、雲雀のことは雲雀って呼んであげてくださいね。昔の名前では呼ばないであげて。まあ、彼女に限らないけど、私たちは長生きするせいもあって、途中で改名する人は珍しくないです。名前はその人なりに繊細な理由があって変える場合もあるから、そこんとこはお察し願いますね」

「はい、気をつけます」

 雲雀の昔の名前をオルゲルがどこで聞いたのか、ミヤコも竹子も気にしていなさそうだと分かって、オルゲルは内心安堵した。

「あと、もう一人のゲンザさん、バスの運転をしていた人は今どちらなんですか? あの人にもひとこと言いたいです。あの時、ラウルを助けようと降りてきた人……」

 ミヤコも竹子もきょとんとした顔をした。が、オルゲルの勘違いをすぐに理解した。

「いや、あのおんなじ人だよ、崖をおりて雲雀と一緒に助けにきてくれた人と」

「えっ……」

 竹子が苦笑しながら言った。

「オルゲルさん、バスの運転をしていたゲンザさんが、雲雀さんと一緒に行ってくれそのゲンザさんです……。あの、オルゲルさんも直接お話されてましたよね? もう覚えてないですかね」

 オルゲルはまだぼんやりとした顔をしていた。ミヤコが口を挟んだ。

「大会の時、給茶やってたおじさんでもあるよ。忘れちゃったかな」

「給茶のおじさん……、すみません、どんな顔だったか思い出せないです」

 事故のせいで自分の記憶力がだめになってしまったのかとオルゲルは思った。

「まあ、ぱっと見た限りただのおじさんだよね……。でもそうなんだ。まあ、そのうち分かることだから言っちゃうけど、伝説の彦郎剣の使い手、寧寧の護衛をしていたゲンザはあのゲンザだよ」

「えっ、あのおじさんが!」

「そうだよ」

 目の前にいたおじさんが本当にただのおじさんにしか見えなかったせいもあるし、これまで無量寿社会とはほぼ無縁だったオルゲルにとって、百年前の人間がごく当たり前に現在も存命でいるということが、なかなか理解できなかったのである。

「雲雀さんは名前を変えていますけど、そんな有名な人が名前も変えないで……。あ、骨翼にいるからいいのか」

「まあゲンザはね、ちょっと特殊な人だから……」

 そう言うミヤコの目が笑っている。何がおかしいのかはオルゲルには分からない。

「いや、あのね、ゲンザは人に顔を覚えてもらえないんだよ、昔から。本当、不思議なんだけど誰であろうとある程度親しくなって何度も会ってからじゃないと彼の顔を覚えられないんだ」

 そう言いながらミヤコはくすくすと笑った。オルゲルもつられて笑ったが、ひとまず自分の記憶力が衰えたわけではないことが分かって安堵した。

「まあその辺のことはおいといて。雲雀もゲンザも骨翼の乗組員だけど、ただの乗組員じゃない。あの二人は帯刀屋なんだ。帯刀屋っていうのは……、骨翼とその乗組員を守る剣士たちのことです。無量寿は銃火器を使用することができないから、その代わりに彦郎剣の使い手の中でも特に選りすぐりの者たちに骨翼を守らせているんですよ。骨翼はいまだに過激な連中の……、まあ言っちゃった方がいいな、ロカスト・ブラザーズの連中から攻撃の標的にされているので。まあ、毎回あっという間に帯刀屋にやっつけられてるけどね」

 ロカストという名を耳にして、オルゲルの思考は現実の暗い部分へと引っ張られた。いずれ八月のどこかで骨翼に乗って自分はドリントに帰るのだ、フェリーでは危険だからということだ。それについて考えると、オルゲルはおいしかった羊羹の味も久しぶりに口にしたコーヒーのことも忘れてしまいそうだった。

 竹子が一度ミヤコの顔を見てからオルゲルに言った。

「オルゲルさん、それからラウルのことですけど……」

「はい……」

「あれから教護施設へ送られたと以前お話ししましたが、先週彼は予定より早く帰宅を許されて、自宅へ戻ったそうです。ただ、今日入った情報によると、家出したそうです。今は行方不明と」

「ラウルのことは特に知りたいとは思いません。それよりエッカのことが気になって。一か月前に手紙の中で転校したってあったんですけど、それから何もなくて。前はもっとすぐ返事くれたのに」

「残念ながら彼女については、ご健在であるということ以外、今の状況は分かりません。ラウルの両親は一応これまでどおりお暮らしのようですが……。こちらからもう少し聞いてみます」

 その場ではそう言った竹子だったが、なんとなく察しはついていた。恐らくエッカは両親からオルゲルとはもう関わるなと告げられているのだ。

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