第22話
『あいにくだが、まだまだ死にそうにはないよ』
『って、声を使うの、久しぶりすぎる。ちゃんと通じてるのか? おい』
反応を求められていたのかと分かって、オルゲルはなんとも言えない気持ちだった。何を言われても今のオルゲルは言葉を返せる状態ではない。
『苦痛がひどすぎて会話が成り立たないのなら、もう少し、変えよう』
痛みとは別に何かに引きずりこまれたような感覚があった。気がつくと体から痛みは消えていた。しかし何かがおかしい。さっきまでは一応外気を感じられていたのに、今はその感覚がない。空気や温度といったものが感じられない。見えず聞こえず、触れられず、それどころか己の手足の存在を感じない。自分がどこかで倒れている感覚もなく、かと言って浮いている感じもしない。
唐突に目の前に何かがあらわれた。それはオルゲルの背より少し高い木だった。葉っぱも花もついていない、一見枯れ木のような木だったが、オルゲルはその木がさっきの声の主なのだと感じた。自分の姿さえ見えないのにこの木だけ見ることができるのは不可解だったが、今はこんな枯れ木にもなんだかすがりたくなる。
木には大きなうろが二つあった。その二つが動いた。ただの真っ黒な穴だったそこに、やがて金色の瞳が浮き出た。この植物には顔があるんだろうかとぼんやり考えた。仮に顔だとするなら爬虫類に似ている。
『おお、できた。この形で最後に会話をしたのは、いつだったか。長かったぞ』
空間にいるオルゲル自身には姿がなかった。木が目の前にいるようでもあり、自分が木の中にいるようでもあった。爬虫類のような顔はどこか気味が悪かったが、今のオルゲルにとって意志の疎通ができるのはこの相手だけなので、そこは気にならなかった。
『詳しい説明は省くがお前が正気でいられるようにしてやった。死んだわけじゃないから安心しろ』
「楽になった……。ありがとう。私は今どうなってるの?」
『お前は上から落ちてきて、私がいる場所で止まったんだ。私はこの谷で根を張っている木だ』
「木? どういうこと? あんた誰?」
自分が何なのか、名乗ることをこの生き物は一瞬迷った。しかしこの少女はもう助かるまい、となれば無用な心配だと思った。
『私は……、
意を決してそう告げたが、なんとも言えない虚しさを覚えた。。
不実李の思惑とは裏腹に、オルゲルの方は、そんなばかな、私は騙されている、などと考えていた。
『騙してはいないぞ』
「えっ、何? 私の心を読んだ?」
『そんなところだ。しかし、不実李がなんなのか知っているんだな。知識としてはまだ残っているということか』
「そりゃあ有名だし。でも珀花の不実李って、もう
『ほお、その話。その話もか!』
オルゲルはこの声の主はとにかく喋りたいのだな、と思った。だがそれはそれとして、滅びたはずの不実李がここにいる理由は知りたかった。何しろ今は苦痛から解放されている。
『お前、寧寧が私を切って城で自害したと思っているのか。それはよかった。寧寧はまだ
「種? 不実李は、大昔に
『ボリーバンとの戦が終わってから確かに一度はその庭で木の姿に戻ったが、しばらくしてに種に戻った。珀花の宝物殿でずっと眠ったように歳月をすごして、それから寧寧のポケットに入れられた』
自分のことをそっちのけでオルゲルは寧寧の末路が気になった。寧寧が月へ逃げたというのなら、
『私たちは共に逃げたが、月で暮らし始めてから何年かして、寧寧はここで死んだ。月崩れだ。お前らの数え方で言う二九一六年の月崩れの大水。あの時寧寧も私もここへ落ちた。ま、私だけなんとか生きている』
「待って。あんたが不実李なら、なんで月崩れは予知できなかったの?」
『ずっと種の姿だったんだ。種の状態の私には天の気を読む力はない』
「そんな……」
『どうして木の姿になって月崩れを予知してやらなかったのかと言いたそうだな』
「当たり前だよ!」
オルゲルの剣幕に不実李は不可解なものを覚えた。この少女からは月の匂いがしない。住人でもない者がなぜこうも月の者たちに肩入れするのだろうかと思った。
「私が最も安全でいられるのは、種の姿で保管されることだ。それでいて、姿を変えるのはとてつもなく生気を消耗する。月に逃げられたからといって安直に根を張る気にはなれなかった」
「でも、そのせいで大勢の人が月崩れで死んでしまった! やっと生き延びた人たちが。あんたは不実李なのに、なんで大勢の人を見殺しにするようなことを!」
『知ったことか!』
突然の激しい声はオルゲルには全く予想外だった。
『私を巡って人はいつも争う。私が本領を発揮しようとしまいと死人が出るのなら、私が私の身を守ることを第一にして何がいけない』
「分かったよ。何言っても無駄みたいだね」
『お前が理解する必要もあるまいよ』
何百年、もしかしたら何千年も生きてきた植物というのは、それこそお伽噺の仙人のような動じない気性なのだろうとオルゲルは想像していたが、少なくともこの不実李はそうではないのだな、と思った。
『月が洪水に襲われた時、私は寧寧の懐に入っていた。一緒に流されて落ちたのがこの谷だ。その時やむなく姿を変えた。種のままで水に浸かり続けていたら死ぬからな。枝と根を伸ばして、なんとか水面にまで出た。一旦はそうやって命拾いしたが、崖のてっぺんは遥か上。私は人や動物のように這ったりすることができるわけじゃない。とにかくこの近辺に根を張って、できる限り生き続けることにした。幸い、水はあったし光も一日のうちわずかに当たる。溺れ死んだ奴らの体に根を張ることで養分も得た。水は引いていったが、その分土壁に根を張ればまだなんとか吸えた。だが最近はもう、何も残っていない。いずれ枯れ果てるかと思っていた。そうしたらお前が落ちてきた。お前は私の、貴重な土だ』
「私はあなたの体に落ちたということ?」
『そうだ。枝も根も衝撃でずいぶん折れてしまったが、お前の体は辛うじて私の中にある』
痛みは感じないと言われたオルゲルだったが、不実李のその言葉を聞き、つまり自分の体に今やこの木の根が刺さっているのだと分かって、忘れていた痛みが甦るようだった。
『まあ今お前が思っているとおりだ。いやでも私はまだそんなにたくさん刺していないぞ。それに私がどうこうするまでもなく、今のお前はひどいありさまだ』
「落ちたのは覚えてるから言われなくてもそれぐらい、なんとなく分かってるよ。……ここの深さはどれぐらいなの?」
『さあな。まあでも、百メートルまではいかないだろう。お前のその壊れ方からして』
特に根拠もなく、オルゲルは今自分がいるのはせいぜい二、三十メートル下ぐらいだろうと思っていたので、言われたことに混乱した。
『死んでるよな、お前が庶なら』
不実李が口にした庶という言い草はいかにもこともなげという感じで、まるで鉄枝が出てくる時代劇のようにオルゲルは感じた。しかし今の問題はそこではない。
「どういう意味?」
『これで生きてるなら、庶じゃないだろう』
「有り得ない! 私はお父さんもお母さんもおばあちゃんも、みんな普通の人間だよ!」
『じゃあお前の今の状態を、お前自身に見せてやるよ』
不実李がそう言うと、オルゲルの目の前に人の姿が見えた。あちこちが折れ、ほとんど潰れた彼女自身の体だった。
「もういい、やだ!」
『これでもまだ確かに生きているんだ、お前は。庶がこのありさまで生きてるのは無理だろ。お前はれっきとした人間だよ。……ああ、今の世の中じゃ庶の方が人間っていうのかな』
オルゲルは何も考えられなかった。
『でもまあ、どっちでもどうでもい。お前はどうせここで私の栄養になってもらうだけだ。生きている間も死んでからも。お前にはつらいことだろうが、この先誰も助けにこられるわけじゃないからな』
オルゲルは言葉が出てこなかった。落ちたことは誰でも分かっているはずだ。しかし実際、こんな真っ暗な崖下まで誰がどうやって降りてこられるのか。
『降りられるかな、こんなとこまで。暗いし。探してる奴が落ちてまた死人が増えたら元も子もないから、捜索はしないということも有り得るだろ。あまり期待するな』
不実李はただの事実を淡々と述べているにすぎないとは分かっていたが、オルゲルにはただの意地悪にしか聞こえなかった。不実李の感覚の中にいるオルゲルには相変わらず実体の感覚がなかったので力が入らなかったが、それでもオルゲルが腹を立てるのには十分だった。
「あんた、何が言いたいの?」
『今までも何度か調査のために人が降りてきたことがあった……』
不実李の口調はさっきとは少し変わっていた。
『でもいつもこことは全く別の所で、私の呼びかけも届かず、発見してもらえなかった。この谷は広い。たまたまこの近くまで人が降りてくる可能性はほとんどないんだ。お前が落ちた地点から探すとなると、見つけてもらえる可能性もあるだろうが、やはりここは深すぎる。今までの調査でも六十メートルより下に来たことはなかった』
「調査じゃない! 私を探している! だったらもっと頑張って探してくれるはず!」
『分かったよ。ふん、お前よりずっと長くここにいる私が言ってるのにね』
そう言われるとまたオルゲルは黙るしかなかった。
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