第21話

 泣き声があちこちから聞こえてくる。しかし竹子は気持ちを警官のそれに切り替えていた。まず月内で使っている無線で宿舎に事の次第を伝えた。

「雲雀さんたちにお願いします。帯刀屋でないと無理です。それと地上の警察にもすぐに連絡を」

 一緒に来ていた珀花人の教師に指示し、その場にいた全学生をただちに集めるとバスに乗せ、宿舎へと戻る段取りを取った。記者たちについてはそのままとした。どうせ帰らせようとしても無理矢理にでも残ろうとするだろう。どのみち彼らの月での滞在許可は今日までである。

 参加者たちを差配しながら、竹子は視線を谷の方へ向けた。緊急事態が起こった時のために、この催しのために召集された無量寿たちには特殊な発煙筒の携帯が義務づけられていた。事態に応じて赤もしくは白の煙を発生させることができるものだ。煙が出ただけでもすぐその場に駆けつけなければならないのは前提として、白ならとにかくすぐに、赤なら何をおいてもすぐにという意味だ。竹子は頭の半分で狂おしいほどに二人の無事を祈り、もう半分で参加者たちをまとめることに尽力した。

 参加者たちをまとめるために声を張り上げながら谷の方を振り返ること数回、やがてちょうど彼らが落ちた辺りからもやもやとしたものが立ち上ってきた。その色は白かった。

 ゲンザは無事なのだ。

(オルゲル、そんな……!)

 白煙が見えたことを竹子はただちに他の無量寿たちに知らせた。

 ラウルは最初に確保された際の調査用スペースの上に座りこんでいた。まるで人形のようになっていたが、時折何かに憑かれたように小刻みに震えていた。バスが走り出してもラウルはそれを無表情で見送っていた。ラウルは谷の方を決して見ようとはしなかった。仮に見たとしても彼に白煙の意味は分からない。

 竹子はラウルの頬を軽くはたきながら言った。

「君はこれからみんなとは別行動だ。今はまだ何も喋らなくていい。私も聞きません」


 催し自体は最後の最後で打ち切りとなった。この日のケーブルカーはもとより学生たちの貸し切りであったので、定刻より早めて彼らを地上へ帰すことに支障はなかった。しかし船の時間は動かせないので、彼らは予定より長く静海で時間をすごすこととなるだろう。また、この日涙の谷へ行った学生たちは、いずれ聞き取りを受けることになる。

 竹子から知らせを受け、葉室はむろたち帯刀警察はただちに地上の警察署へ連絡した。

 ゲンザの救出について葉室に相談すると、葉室は言った。

宙鐙そらあぶみさえあればあいつは自力で戻ってくるさ。宙鐙は投げた奴の手に必ず戻るようになっているんだ。宙鐙さえあればあいつは踏燕とうえんでここまで来れる。オルゲルの捜索はゲンザが戻ってきてから計画をたてるべきだよ」

「いくらゲンザさんでもそこまでは」

 葉室はあくまでからっとした調子で言った。

「大丈夫。あいつは特別だよ。まあさすがに無傷じゃないだろうが、それでも心配はいらない。本当だよ。さあさあ、私は警察としてやることいっぱいあるから、あんたは戻ってきたゲンザの相手をしてくんな」

 葉室はそう言って竹子の肩を一度しっかりと摑んだ。

「あっ」

 葉室が声をあげて谷の方を見たので、竹子も思わず同じ方を見た。するとまさに谷の調査用に設置されている梯子からゲンザが崖をよじのぼってきたところだった。竹子は即座に駆けだした。


 ケーブルカーは今日から当面一般客の乗車を中止した。また、ミヤコは勤務先の静海第一病院へ電話をかけ、十六歳の女子学生を一名、救急搬送するかもしれない、緊急手術の可能性もある旨を伝えた。静海市長直通の電話でもこの件について伝えた。

 ドリントのヴァンダへの連絡は直接月からはできなかったので、地上の警察に任せることにした。


 オルゲルが落ちた場所ははっきりしているので、ゲンザたちがその直下へどれだけ降りられるかが肝心だった。月で所有しているクレーンを使えばひとまず六十メートルは降りられる。クレーンで降りられる所まで降りて、そこから先はゲンザや帯刀屋が宙鐙を使えば、その倍ぐらいはさらに降りられるだろう。

 しかしそこまで降りる必要は恐らくない。谷の表面は硬い土が大半だ。あとはところどころ岩が突き出ていたりする。運よく木の枝に引っかかって、というようなことを期待できる箇所はなく、柔らかい場所もない。少なくともあの竹藪の下から五十メートルあたりはそうなっていることは、これまでの調査ではっきりとしている。そして人間は五十メートルも落ちれば、まず即死だ。

「最後に辛うじて姿は見えたんだ。一度音が聞こえた。そこで落ちきったのか、それともそこから跳ねてまたさらに下へ落ちたのかは分からない」

 無量寿も聴力は人並みである。ただゲンザはかなり耳聡い方だ。

「ただ気になったのは、この下には木も何も生えてないはずなのに、無数の木の枝がちぎれるような音がしたんだ。何かあるんだ」

 とは言えその何かについての関心はゲンザにはない。どのみち助かるまい。最もましな結末として遺体が見つかることが今の彼の望みであった。

 車が近づいてきた。救急車ではないが怪我人を搬送するのに使う特殊車両、他に小さい車がもう一台だった。小さい方はこれからラウルを連れていくのに使う。

 特殊車両からは雲雀が出てきた。

「クレーンもじきにくる。あと、紗白さじろもそのうち来るそうだ」

 ラウルは相変わらず無言のまま、竹子につき添われながら車に乗せられていった。車のドアを閉める際に竹子はゲンザの方を見て軽く会釈をした。ゲンザはそれにこたえて軽く手を振った。

 ゲンザが大まかに事の次第を説明すると、雲雀は怒りと諦めの混じった表情で言った。

「その子、私たちのために怒ってそんな真似をしたのかな……」

「竹子にずいぶん懐いてたみたいだった」

「味方になってくれるかもしれなかった女の子を一人失って、この上我々のうちの誰かも殺されるのかな。あるいは住みかを追われるか」

 雲雀が言いたいことはゲンザには分かっていた。これだけ目撃者がいて、事実としてはラウルのせいだとはっきりしていても、いずれ無量寿が悪いということにされるのが彼らの常であった。

 今そのことばかり気にするのは、わずか十六歳のオルゲルの死という悲劇をないがしろにするに等しかったが、すでに死んでいるオルゲルよりも、延々この世界で生きていくしかない自分たちのことの方が、彼らにとっては切実であった。

「あのラウルってガキのせいなのは当然だが、あのガキが持ちこんでいた短刀については、我々の見落としとして突っつかれるだろうな。で、やっぱり無量寿が悪い、という話になる」

「あの短刀、カブトワリだった。何十年ぶりに見たぞ、あんなもの」

 短刀はラウルの父が彦郎剣の使い手として全盛期であったころに手に入れたものだった。

「私たちの時代の素晴らしい物質のおかげで、フェリーでもケーブルカーでも探知機に引っかからず、岳仁がくじんがせっせと張った網も切られ、さらにはこのざまか」

「彦郎剣の試合だからみんな軽刀けいとうを持ってきているしな。形状でも探知機に引っかからん」

 やがてクレーンがやってきて、オルゲルの捜索が開始された。


 ツチ、ツチ、ツチ……。

 途切れがちだが確かにそう聞こえる。聞こえるというより、頭の中に直接話しかけられているような感じだった。男の声とも女の声ともつかない。人の声のようだが、どこか動物の鳴き声にも似ていた。

(そんなことより、誰か……)

(誰か殺してくれ、もういっそ……)

 生きたまま体全体をねじってちぎられたような、そんな痛みだった。加えてひどく寒い。その痛みも寒さも途切れることがない。巨大な氷のハンマーで体中繰り返し殴られているようだった。

 辺りは真っ暗で何も見えない。ここが暗闇なのか、自分の目が見えないのかも分からない。

(ツチツチって声、ここに誰かいるの? いるなら私を殺して欲しい)

 心の中でこうやって言葉を出せるのも、今はたまたまだ。もうずっとオルゲルはただうめいている。これはもうとっくに死んでいるような苦痛ではないのか。私は落ちた。それだけは覚えている。

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