第20話

 ラウルが下に落ちたのは、竹子にもオルゲルにも見えていた。ゲンザも見ていた。竹子はその場にオルゲルを残し、ゲンザともども風のような速さでラウルがまさに落ちた場所へ駆けつけた。

 ラウルは何か策を弄しているのかもしれない。竹子はそれも頭の片隅におきながら、それでも叫んだ。

「ラウル君、大丈夫ですか!」

 安全ネットはしっかりラウルの体を支えていた。はざまの狭さもあって網は隙間もなく張られている。

「大丈夫ですよ、網はしっかりしてますから。でも念のため動かないでください! もう一人の人がすぐそちらに行きます」

 ゲンザはすでに崖伝いに降りかかっていた。そのまま跳び下りた方が早いのだが、その反動でラウルがうっかりどこかの隙間から落ちることを考えると慎重に降りるしかなかった。

「ゲンザさん、ちょっと待ってください。今縄を出しますから!」

「いや必要ない。俺がこのまま降りて、あいつを抱えていく」

 お前は他の子たちが動揺しないように動いてくれ。そう言われたのを感じて竹子は「はい」と答えた。

 オルゲルも含め、すでに状況を察した学生たちが、青い顔をしながらどんどん集まってきていた。記者も寄ってくる。写真は撮らないでと竹子は叫んだが、それが無駄なことは分かっていた。シャッター音はやまない。

 目の前の事態に動揺しつつも、オルゲルは腹が立って仕方がなかった。

(これは事故なんかじゃない。ラウルはわざと落ちたんだ。下が網になっているのをいいことに……! 騒ぎを起こして最後を台無しにするつもりだ。ここは大勢の人のお墓なのに。それを、それをこいつは……!)

 月穹の日の道場での一件、あの時どんなことでもいいからラウルを痛い目にあわせるべきだった。私もみんなもこいつをつけあがらせてきた。おかげでこんなことになっている。

 竹子は間近にいるオルゲルの肩に手を置き、声をかけた。

「大丈夫ですよ。ゲンザさんはすごい人ですから」

 その言葉に一旦は安堵して下を見守ったオルゲルだったが、ほどなく「ああっ」と叫んだ。ラウルは手持ちのショルダーバッグから何かを取り出した。短刀型の軽刀かと思ったが、鞘がついていて、そこから鈍い光が見えた。

 誰の目にもそれは模造品には見えなかった。他の学生たちも気づいておいラウルやめろよと口々に叫び出した。無論、ゲンザはすぐそのまま跳び下りてラウルから短刀を奪うつもりでいる。

(あいつ、あんなナイフで網を切るつもりか? 悪いが、その網はそんなもの使っても切れないぞ)

 少なくとも鉄のナイフごときでは切れない材料でできている網だ。しかしそのことは敢えて口にはしなかった。彼が気にしているのは、網のある場所までの中途半端な距離だ。

 記者たちがこの場にいることもゲンザを何かとためらわせていた。彼らに無量寿が人間の命を軽んじていると見なされてはいけない。そうなったら一連のセレモニーは全くの無駄になってしまう。一気に跳び下りた場合、後で記者たちから『反動で落ちたらどうするんだ?』と詰問されるであろうことが頭に浮かんだ。とは言え、今まさにそうしたためらいが事態の悪化を招きつつある。ゲンザが世を呪いたくなるのはこういう時だ。

 ゲンザはふと頭の上に何かを感じてさっと見上げた。オルゲルの体が跳び出したと思ったら、そのまま下に落ちていった。

 オルゲルが網に落ちた反動で、ラウルの体が大きく跳ねた。人一人分の重さで揺れた恐怖は、ラウルを束の間正気に返した。ラウルは思わず網を強く摑んだ。

「なんだお前! あっちへ行け!」

 うるさいっ、と怒鳴りながらオルゲルはラウルの手から短刀を落とそうとした。しかしラウルは網と一緒に短刀を強く摑んでいる。

 自分のやっていることはゲンザや竹子の邪魔にしかならないかもしれない、ということをオルゲルが考えていないわけではない。しかしオルゲルはラウルのような輩の不始末を彼らに全て任せたくはなかった。この事態に人間が一人も出てこないなどということは、オルゲルの中ではあってはならなかった。

「そんな物を出しやがって!」

 自分でも驚くぐらい荒々しい声だった。その自分の声に鼓舞されつつ、オルゲルはラウルの右手を摑もうとした。少なくとも切る手だけは止めなくてはならない。しかし年上でしかも男のラウルの動きはオルゲルの手ではどうにもならなかった。

 ラウルのプランとしてはこのようなものだ。

 網を切って身を投げようとする。しかし無量寿の剣士たちの身体能力をもってすれば、それは阻まれる。捕まえられた後は、記者たちにも聞こえるように聞いた風なロカストのスローガンを、例えば「不朽くちずはいるぞ、まだいるぞ、我らの隣にまだいるぞ」「人には人の」などを適当にわめいてやればいい。そのぐらいで十分この催しは台無しになり、なおかつ自分は死なないで済む。

 しかし全く想定外のオルゲルの闖入によってそれは大いに乱されている。

 オルゲルの怒号が響く。

「こんなことして! 謝れ! あの人たちに謝れ! この下にいる人たちに謝れよ!」

「はなせ、このっ」

 オルゲルとラウルが揉めている間にゲンザは彼らのそばになんとか降りた。

「二人ともいいか、じっとしてくれよ」

 状況のわりにゲンザの声はあくまで穏やかだった。しかしオルゲルはすっかり視野が狭まっていて、ゲンザの声をもってしても落ち着くことができないでいた。

 ゲンザの腕はまずオルゲルの方を摑んだ。自分は悪くないのに先に抑えられたのがオルゲルは不服だったのかもしれない。

 オルゲルの手から解放されたのを幸いと、ラウルは短刀を鞘から完全に抜き、軽く振った。ゲンザの視界はラウルの行動を完全に捉えていたが、今の彼にとってはラウルからオルゲルを剥がすことの方が優先事項だった。

(この小僧危ない真似しやがって)

 そう内心で口にしながらも、その刃の光沢を目の当たりにした時、ゲンザの心は一瞬で凍りついた。

(カブトワリだと?)

 ゲンザは咄嗟にオルゲルの体を庇った。

 ラウルとしては短刀を軽く振り回してオルゲルとゲンザを払いつつ、ついで網を切るつもりでいたのである。本当に軽く振り回しただけだった。だが目の前のゲンザの上着の背中が音もなくぱっくりと裂け、ほどなく赤い血がはっきりと見えた。ラウルにとっては全くの予想外の光景だった。

 一応家でこっそり試し切りはしたのだ。ただそれはいらない物に刃を当てて切れ味を試しただけだった。素晴らしい切れ味であった。が、カブトワリの本領は、刃を対象に当てた時ではなく、今のように空を切った時にこそあらわれる。戦前から生きている無量寿なら大抵知っていることだ。逆にそれ以外の者でその知識を持つ者は稀だ。

「ラウル、それを使ってはいけない! 手を止めてゆっくり鞘におさめるんだ、静かに、そっとだ。俺の方は大したことない、気にするな。オルゲルも大丈夫だ」

 ラウルの脳裏にこのカブトワリと一緒にあった書きつけの言葉が今さらながら甦る。ゆめゆめ、みだりに振り回すことなかれ。

 幸い、鞘は左手が握りしめていた。この短刀は何事もなかったかのように元の場所へ戻す、そこまでがラウルの計画である。しかし両手が震えてままならない。そんなわずかな震えすらカブトワリは反応し、ラウルの足やバッグに傷を作った。

(さっきから何が起こってるの?)

 ゲンザがオルゲルの体に覆いかぶさるようにしていたので、オルゲルには今のこの事態が見えていない。肩の辺りに網が食いこんで痛かった。ただ少なくともゲンザの体を払いのけるようなことをしてはいけないのは分かる。分かるのはラウルの恐怖に満ちた声と息遣い、ゲンザの緊迫した様子だけだ。オルゲルこそ恐くて叫び出したいほどだったが、口が接着剤をつけられたように動かせなかった。

「オルゲル、どこでもいいから網をしっかり持ってろ」

「は、はい」

 ラウルが叫び声をあげた。

 その時、体に食いこんでいた網の感触がオルゲルからふわりと失せた。オルゲルは両手で近くの網をつかんだが、その網がオルゲルの指に食いこむことはなかった。

(ここ、切れちゃってる?)

 一瞬無の状態がおとずれた後、体の内部がとてつもない早さで引っくり返る感覚に襲われた。

 オルゲルの体は瞬く間に闇の底へと消えていった。


 ラウルが制御不能に陥っているのを目の当たりにし、ゲンザはラウルの代わりに短刀を鞘に収めようとした。しかしそうやってゲンザがオルゲルの体を離したタイミングで、カブトワリが起こしたかまいたちが網を切り裂いてしまったのだ。ラウルは短刀を鞘もろとも捨て、手近な網を摑んだ。そこの網は幸い切れていなかった。

 ゲンザは懐から宙鐙そらあぶみを取り出した。

(間に合え、くそっ!)

 一つしか持ってこなかったことを悔やんだが、なんでもいい、やるしかないと渾身の力で下へ向かって投げ、同時にその場から跳びおりた。学生たちの悲鳴を背中で聞きながら、ゲンザは闇の中で崖を強く蹴り、捨てた宙鐙を追った。

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