第17話
駅から宿舎までの道のりは平坦なものだったが、宿舎から谷への道のりは、道も細く、あまり整備されていなかった。景色は相変わらず草と低木ばかりだったが、水たまりのような小さな池がたくさんあり、風もないのでそれらが黄色い空を鏡のようにくっきりと映していた。さらにその月面の鏡の中で、
「きれいでしょ。ちょっと前に雨が降ってくれたおかげで、あんな水たまりができているんです」
雨が降るんですかと誰かが訊ねた。
「降りますよ。光詰草の土の中の根や茎に何かの拍子に水が溜まるんです。すると根や茎は風船のように膨らみ続ける。それが周囲の土や他の根や茎を圧迫しながら、大きいものだと直径一メートルぐらいにまで膨らむんです。
「天井が崩れたりしないんですか」
オルゲルがそう聞くと、それは大丈夫と言った。
「月の天井は光詰草がびっしりはりめぐっていて、それが天然の天井板になってくれているんです。それに地面を崩すほどの量の水はまず溜まりません。しかしやはり例外はあります。二九一六年の月崩れでは、巨大な瘤がたくさんできて、天井が崩れてきました」
車内が静まり返った。過去千年近く、月崩れはほぼ十年周期で発生しており、最近の月崩れが二年前の三〇〇六年であることを思えば今ここで何かが起きることはまず有り得ないのだが、そう分かっていても恐いものは恐い。竹子は気まずそうな笑顔をしながら、
「まあ月崩れは十年ごとに必ず起こるので、過去の現象を検証して我々は常に対策をとっていますから、そこは大丈夫ですよ。ああ、そろそろ谷に着きます」
竹子は進行方向の斜め右前方を指さした。
水害の話が流れたのでオルゲルはほっとした。母のことを思い出すので、そういう話は聞きたくない。
「あっちに竹藪が見えると思います。崖に沿って生えてます」
途方もない深さであるという涙の谷だったが、柵はほとんどの箇所になく、調査用にごく一部の箇所に人工の柵と梯子が設けられているとのことだった。竹藪はオルゲルたちから見てかなり手前から生えている。柵を設けても一度の月崩れで全て壊れてしまう可能性が高いため、柵の代わりに竹をこのように植えたとのことだった。何かあっても竹ならすぐ生えてくるからということである。
ほどなくバスは竹藪へと続く谷の歩道のそばで停車し、全員バスから降りて歩道に入った。歩道はさっきの車道よりまたさらに細かったが、歩くのに不自由はしなかった。ここから崖に造られた調査用スペースに向かうという。
これから見る谷の風景も楽しみだったが、竹子のそばで歩けるのがオルゲルにはまたうれしい。とは言え、すでにいろんな子たちが竹子のもっと近くにいていろいろ話しかけているので、そこはちょっと惜しいところだった。月そのものが全体的に光が弱いせいもあって、竹藪の中は夜の手前のような暗さで、竹子の顔も見えづらい。
(でもまあそれならそれで……)
オルゲルは少し前の方を歩いているラウルたちの背中を見た。ラウルがロカスト・ブラザーズに関わっているということを知っているのは、この中で自分だけだ、とオルゲルは思っている。あいつは竹子さんに何かいやなことをするかもしれない、もしそうなったら自分が口でも手でも彼を叩きのめさなければ、とオルゲルはひたすら身構えていた。竹子が誰かに守られる必要がないことぐらい分かっている。しかしあの開会式での竹子のトランペットの音色を思い出すと、竹子がほんの少しでもいやな思いをするのは、オルゲル自身が我慢できなかった。
そんなことを考えていると、不意に隣に男があらわれ、声をかけてきた。
「やあ、どうしたんだい」
バスの運転手だった。いつからこの人が隣にいたのかオルゲルには分からなかった。オルゲルにとっては本当に不意だった。当の運転手は面食らうオルゲルにも構わぬ風でいた。
「昨日は優勝して、今日は楽しい自由行動だってのに、なんだか恐い顔してるように見えたんでね」
いきなり本当のことを言われてオルゲルは反応に窮したが、苦し紛れに言った。
「あー、ええっと、もうお昼すぎには帰らなきゃいけないのがさびしくって」
「そうか、楽しんでくれたかい」
「はい。もっといろいろ見てみたかったですけど」
オルゲルは竹子とラウルのことを気にしていたかったので、ゲンザが話しかけてきたことは煩わしかった。
「この先は地上じゃなかなかない風景だから、よく見てってくれ」
ゲンザはそれだけ言うと、さっさと前の方に行ってしまった。オルゲルは「運転手さん」がてっきり竹子に声をかけにいくのかと思ったのだが、そんなこともなく学生たちに紛れながら一人ただ前へ前へと歩いていた。
薄暗さと生い茂る竹のせいで谷の様子はまだほとんど見えない。が、歩道が途中で曲がり、まっすぐ突き当りに調査用スペースが見えてくると、スペースの広さの分だけ驚くほどはっきりと風景が見えた。みんな口々に歓声をあげた。
調査用スペースは崖に対して出窓のように造られていて、広さは今いる学生たち十三人と竹子が柵に沿って並べるぐらいのものだった。みんな柵から下を覗いていたが、五十メートルぐらい下まではなんとか見られるものの、そこから下はどこまでも闇で、おまけに時々ぞっとするような風が底の方から吹いてくる。
このスペースはもちろん、竹藪の下にも、眼下から十メートルほど下に、転落防止の網が広い範囲に張られている。万が一この場から落ちても底なしの崖に吸いこまれる心配はない。
「一応申し上げますと、仮にここから落ちても、あの網にすっぽり入ります。あの網は特殊な素材でできていますので、落ちても体が跳ねたりはしません。すっぽりと沈むような格好になります」
竹子はそう説明したが、それでも学生たちは一人また一人と柵から一歩ひいていった。
「なんか……、ぞーっとくるんだけど」
「うん、気持ち悪い風……」
「それにしても下の方はなんにも見えないなあ」
谷が底なしである一方で、向こう側の崖との距離はほとんど目と鼻の先だった。向こう側もこちらと同様、竹が生い茂っている。谷そのものは視界の右から左へ延々続いているが、こちら側と向こう側の崖の間隔は、場所によって異なるものの、おおむね二、三メートルしかない。中には一メートルちょっとしかないような所も見えた。
「皆さん、やはりここの風景はちょっと気が滅入りますね」
誰からとなくみんな苦笑いをした。ただ、ラウルは柵に腕を預けて谷底をじっと見ていた。
誰かが言った。
「これ、地震でできたんでしょう? てことはもしかして、下にいっぱい人が落ちたりしたんじゃないんです?」
「この谷ができたのは二九〇八年の月崩れの際の大地震のせいですが、その時この谷へ落ちたという人は二人だけでした。ちょうど六か国の戦争が終わった年で、世界で生き残った三百人ほどの無量寿のうち、半分以上が月に移ってきていました。そのことを思うと、むしろ少ない犠牲でした。問題はその次です」
竹子はそこで一度小さく息を吸った。どこかからゲンザが自分を睨んでいるような気配を感じたが、知らないことにした。
「二九一六年の月崩れでは、バスの中で申し上げたとおり、大洪水が起こりました。何もかもが押し流された挙句に、この谷へ吸いこまれてしまうことになったんです。今はそうでもありませんが、月崩れが終わった直後というのは移住してくる人が増えます。まあ、少なくとも数年はすごせると思うわけですね。それで、戦争からの混乱もあって二九〇八年の月崩れがすぎた後はかなり増えました。ただそのせいで、二九一六年の月崩れでの行方不明は非常に、」
その先の竹子の声はオルゲルの耳に入ってこなかった。オルゲルはもはや谷底を直視することができなくなった。水にのまれていく人々のありさまが頭の中で次々に浮かんでしまう。シュテフィが死んだ後、オルゲルは母の最期のありさまを自分なりに想像した。本当は考えたくなかったが、あの当時、想像上の母の最期はオルゲルの脳で際限なく繰り返され、そのたびに爪痕を残していった。
オルゲルはとにかくその場から目をそらすと、一旦黄色い空を見つめた。その上で、ゆっくりとその場から下がった。
誰かがまた竹子に質問をした。
「竹子さんはその時月にいたんですか?」
「いいえ。私は戦争が終わった二九〇八年に生まれたんですが、ずっと外で暮らしていましたから。その時の月崩れについては、人から聞いた形でしか知りません」
「戦争じゃない、革命だ。教科書にだって革命って書いてある」
ずっと谷底を見ていたラウルが、竹子の方を睨みながらそう言った。ここまでずっと和やかにやってきた中で、その時初めて空気が張りつめた。
オルゲルは虚を突かれた。竹子になんとか助け舟を出してやりたい気持ちは、確かにあった。が、革命を戦争と言う竹子にオルゲルが断絶を覚えたことも確かだった。
ラウルの声には明らかに敵意が滲んでいたが、それ自体をオルゲルがどうこう言えるものでもなかった。オルゲルがあれこれ迷っているうちに、竹子の方がさっと「確かにそうでしたね」と言った。オルゲルは思わず竹子の表情を見た。その顔に動揺の色は見当たらない。しかしそれでもなんでも、竹子がラウルに言われっぱなしになっている状況は、オルゲルには受け入れがたかった。
「竹子さん!」
とにかくこの場の空気を変えてやる。声を出せば何とかなる。オルゲルはそれだけの気持ちでいやにはきはきとした声で質問をした。
「月崩れって、毎回そんなひどいことになって、予知する方法とかってないんですか?」
「今のところないんですよ。本当に突如として起こるんです」
オルゲルの新しい質問は強引だったが、竹子も竹子でこれまでの流れなどなかったような口調でオルゲルの問いに答えた。
「でもまあ、今説明した洪水については、
不実李の伝説は珀花とボリーバンでは有名な話だったが、学生の中には他の国の子もいたので、竹子は説明した。
「日々の天候やこの先の天災について予知して人間に教えてくれる、そんなありがたい李の木が遥か大昔に世界中にたくさんあったんです。農業や漁業には欠かせない存在でした。それだけに、争いが起こると真っ先に標的にされました。いつしか世界で一本だけとなり、それが珀花にありました。でもそれをボリーバンの女王ディアーナが欲しがって、珀花を攻めた。ボリーバンの強さは圧倒的で、珀花の王族はみんな殺されてしまったんです。でも王家の血を引く者が一人だけ生きていた。それがのちに王となる
竹子はそこで話を止めた。その話をさらに細かく言えば、空名彦から将軍に任じられた彦郎は珀花軍を指揮してボリーバン軍を壊滅させるのだが、太古の昔のこととは言え、さっきボリーバン人であるラウルがやれ革命だ戦争だととげとげしいことを言いだしたことを踏まえ、続きについては適当に濁したのであった。
オルゲルの方は何を考えていたかと言えば、昔話を説明している竹子の顔がさっきより穏やかになっているのを見て、自分が彼女の役に立ったような気になって喜んでいた。
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