第15話

「あ」

 話の途中で突然止まった紗白さじろに、ゲンザは怪訝な顔をした。

「今の子、前に会ったことがあった」

「え? あのさっきの薄茶色の頭の女の子か? ええっとありゃあ確か」

「高等学校生の女の子で決勝に行く子だよ。まだ一年生なのに上級生を負かすなんて、やるねえ」

「紗白、そんな子といつ知り合ったんだ?」

「例のあれだよ、月穹の時に切符をあげた子。さっきは向こうから声をかけてきて、ちょっと何か言いたそうにしてた。多分あの時のことだったんだろうな。ぱっと思い出せなかった。ちょっと悪いことしたな」

「そういうことか。変だと思ったんだ。何か言いたそうにしてたから。友好のイベントに水を差したな」

 だけどまあ、とゲンザは一息ついた。

「ここにいるってことで、あんたが無量寿だってこと、ばれたなあ。何か言おうとして言えなかったのは、そのせいなんじゃないか」

「かもな。ふふ、かわいいもんだね、近ごろの子は。昔だったらこうはいかない」

 うっすら笑いながらそう言った後、紗白は真顔で言った。

「ああ話がそれた。それで、ロカスト・ブラザーズの一員だというラウルとかいう学生だが、今のところ変わったところは何もないな」

「うん。このままただの取り越し苦労であって欲しいな」

「ふん、こんな所でお茶なんか配ってないで、学生たちのまわりでもうろついててくれよ」

「今日みたいな試合の日はむしろ何も起こらないだろう。それより俺はこっちだね」

 ゲンザはそう言って紙コップのお茶をまたちびちびと飲んだ。

燕巣えんそうで出されるより断然質がいい。自分で買ったらクソ高くて買えたもんじゃないが、ここじゃ飲み放題」

「私だったらそんなお茶を紙コップで飲みたくないね。ふん、今回の臨時手当、お前の分はヒカリ茶の現物支給にしてやろうか」

「いっそ悪くないな」

 それから少し間をおいて、同じような調子でゲンザは言った。

「竹子は今日こそラウルが何かしでかすってえらく警戒してたがな。俺は仮に何かあるなら、明後日の自由行動の日だろって思ってる」

「だからわざわざ涙の谷へついて行くのか?」

「うん」

「紗白こそ、好きな所へ行ってこいよ。しばらく会ってない人たちに顔を出しにいくのもいいだろうし」

 それに対し紗白はふうんと曖昧な返事をしただけだった。


 予想外のことが起こったせいで、オルゲルはお茶の入った紙コップを一つしか取らなかった。ミッツィには「結局あっちで飲んできちゃったから」と言って、一つのだけのコップを渡した。そのまま我慢するつもりだったが声をあげて応援していたせいもあり、十分もたたないうちに喉が渇いてたまらなくなった。

 オルゲルは一人席を立ってまた給茶コーナーに向かった。その途中、いきなり声をかけられた。

「ちょっと、そこの女の子!」

 ちょうどその辺りには女子の学生はオルゲルぐらいしかいなかった。オルゲルの視線は給茶コーナーに集中していたので、馴染みのない声がどこからきたのか、一瞬きょろきょろとしてしまった。しかしすぐに長い銀髪が目に入った。

「こんにちは。さっきお茶の所にいた子でしょ? その前に月穹の時に会った。オルゲルさん、だったっけ」

 紗白から話しかけられている。オルゲルは信じられない気持ちだった。

「は、はい」

「私が切符をあげた子ね? 気がつかなくてごめんなさい。さっき声をかけてくれたのは、あの時のことなの?」

 あまりにどきどきしてオルゲルは喉の渇きも忘れた。

「はい。あの、紗白さん」

「あら、名前も覚えててくれたの」

「ええ、あらためてお礼が言いたくて。あの時は友達も私も本当にありがたかったです。貴重なものをいただいて、ありがとうございました」

「お礼ならあの時だって言われたし、そんなお気遣いなく。私は一度も利用したことないんだから。ほぼ毎年無駄にしてるんだよ。でも知らなかった。あなた彦郎剣の選手だったんだね。ドリントからご苦労様」

「いえ、そんな。それにしてもまたお会いできるなんて。ええっと、あの、紗白さんも彦郎剣やられてたんですよね? だから見にこられてるんですか?」

「いや、まあ、私はミヤコ区長から招待されてね」

 曖昧に答える紗白の態度に、オルゲルの頭の中でガースの言葉が甦った。

 歩きながらいつの間にか給茶コーナーの前まで来ていたオルゲルは興奮する気持ちをなだめるようにコップ一杯分を一気に飲み干した。

「あの紗白さん、津軽って人知っています?」

 ガースの言ったことの答え合わせをしたくてうずうずしているオルゲルは、この時の紗白の表情の変化に気づけなかった。まして、テーブルの向こうで聞き耳をたてているゲンザのことなど眼中にない。

「知ってるよ。古い古い、私の弟子だ」

「月穹で無量寿の紗白さんという人に会ったと私の道場の師匠に話したら、師匠の師匠にあたる方が津軽という方で、紗白さんと知り合いなんだと教えてくれたんです。そう聞いたので、いつかまた紗白さんに会いたいと思っていました」

 ゲンザはなんとも言えない気持ちで紗白に紙コップのヒカリ茶を渡した。

「懐かしい名前だね。言ってくれてありがとう、オルゲル」

 紗白はそれだけ言うと、次には「初めての月は人間のあなたにはどうかしら?」などと言ってきた。津軽の話題はそこで終わってしまった。彼女から津軽の話を聞きたい気持ちもオルゲルにはあったが、それはもう引っこめた。

「どんな所か想像もつかなかったけど、今のところ何を見ても面白いです。あ、昨夜は天井が暗くなっていくのを眺めました。今朝は今朝で光がちょっとずつ増えていくのを見ました。なんかもうずっと、わーって感じです」

「それはそれは。自由行動も楽しんでね」

「ええ。今度……、いえもう一生来られないかもしれないですし」

「そうねえ……。仮にいつか来ることがあったとしても、もう同じものは見られないと思うよ。月は月崩れのたびに景色が変わってしまうから」

「そうなんですか……」

「私もね、昔はここで暮らしていたの。でももう、今そのころの面影はほとんどない。あなたたちが泊まった施設だって、昔はなかった。どうせ月崩れでもっていかれてしまうから、ああいう大きな建物は建てないのが普通だったんだが。それでも建てた。おかげでまとまった人数を招くことができた」

 昔は月で暮らしていた。オルゲルはその声から伝わってくる何かに、漠然とした恐怖を覚えた。けれども、ガースから何も聞かされなかったら、今のこんな感覚すら自分は持てなかっただろうとも思った。それもまた恐かった。

 そんなことを思いながらも一応オルゲルは「自由行動が楽しみです」と言った。

「うん、じっくり見ていきなさい。あ、そうだ……」

 紗白はふと本来の目的を思い出して話題を変えた。オルゲルはオルゲルで話題が変わる気配にほっとした。

「同じドリントから、もう一人学生が参加していなかった? ええっと……」

「ラウルです! あ、私とラウルは同じ道場なんです。まだ分かりませんけど、まず決勝まで行くと思います」

 よりによってラウルの話題など、オルゲルにとってはなんともがっかりする話だった。ただ紗白の前でそんな悪感情は出すまい、とは思った。

「同じ道場から二人も有望な子がいるなんて、結構なことだね。二人とも明日はよく見させてもらうよ」

「はい、明日も、これからも、頑張ります!」

 不意にテーブルの向こうからオルゲルは声をかけられた。声の主はゲンザである。

「ちょっと学生さん。さっきからずいぶん熱心に応援してたようだから、もっとお茶飲んでいきなよ」

 全く見知らぬ相手から声をかけられることを想定していなかったオルゲルは、一瞬きょとんとした。

「すまないな、いきなり話しかけて。あ、邪魔だったかな」

 紗白がそれに対し「そうでもないよ、でもお構いなく」と、皮肉を込めて返した。

 ゲンザはめげずにオルゲルに話しかけた。

「明日も頑張ってね」

 オルゲルはちょっと戸惑いながらも「あ、はい」とにこやかに答え、そして紗白に向かって

「じゃあまた」

 と言ってその場を去った。

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