第13話
静海港一帯の海岸線が街明かりに沿ってもう見えている。彼女にとって今や故郷はボリーバンであるが、それでも懐かしさで胸が一杯になった。あの向こうに父が眠っている。
みな日ごろから鍛えているとは言え、約半日の船旅はなかなかに辛く、船から降りた直後は誰もがげっそりとしていた。オルゲルも多少は疲れていたものの、けろっとした顔をしていた。昔からそうだったが、オルゲルは長時間何かに従事することが苦にならないたちである。
その日は静海で一泊し、ここで交流試合に参加する他国の選手たちとも合流する。他国と言っても彦郎剣は珀花とボリーバン以外ではスポーツとしてはマイナーなので、参加者の大半はボリーバンと珀花の人間だ。
翌朝はバスに乗って三時間かけて
ケーブルカーはトンネルの中を走るので景色らしい景色もない。月の空間は大雑把に言って、ボウルを伏せた形をしている。桂口のゴールは、ボウルの端の部分にあたる。だから、到着までの約二時間はひたすらトンネルの中だけを行くことになる。オルゲルも含めて一行の大半はこの間に眠ってしまっていた。
「ただいま、先頭の車両が月の天井の最も高い部分と同じ高さの位置を通過しました」
アナウンスに周囲がざわつき始めたので、オルゲルは目を覚ました。このころになると先頭車両の窓から終点のホームが白い点となって見える。
「なんか見えるー?」
「いや、あれはただの駅だから」
あたふたと起き出して、オルゲルは隣の席の子と一緒に窓へ駆け寄った。もうすでに大勢が張りついていたので、後ろの方からなんとか見るばかりである。一人、カメラを構えている子がいた。まわりの子たちからしきりに「上手く撮れよ」とせっつかれている。
(すごいなあ。親から持たせてもらったのかな)
実のところオルゲルもヴァンダからカメラを持っていけとすすめられてはいた。しかしカメラは高いものだし、使い慣れてもいないし、万が一壊したり失くしたりしたらいやだと言って断ったのだ。カメラを構えている子は他にも三人ばかりいたが、そのせいでまわりからひどく注目されていて、オルゲルはやっぱり持っていかなくて正解だったな、などと思った。
駅の外へ出ると、景色を眺めるより先にオルゲルはこわごわと息を吸った。ここの大気に有毒なガスは含まれていない、必要な酸素濃度は十分にあるという知識はある。吸いこんだ最初の月の空気は、独特な土と草の匂いがした。喉も肺もなんともない。
駅を振り返ると、今は開け放たれているが、この建物の門が非常に分厚い造りであることが分かり、やはりここは一応、大昔は刑務所がわりだったのだな、とオルゲルは思った。
それにしても薄暗い。
(あれっ、今、夕方?)
駅の建物を出てすぐそう思った。桂口でお昼を食べてからケーブルに乗って、それから二時間ぐらい乗っていたから、本当ならもっと明るいはずである。
(これで昼間の普通の明るさなんだ)
当たり前だが、顔を上げてもそこに太陽はない。しかし上空、正確に言えば天井は、霞のような薄い雲に覆われ、その雲を通して、淡い黄色の空が見えた。
光が差さないはずの地下世界がそれでもなんとなく明るいのは、天井の全面にびっしりと繁茂している
地上の三つ葉は空間の光を吸収し、根を通して月に向かう。そして月の天井から出ている茎や葉や花から光が発生する。この光詰草の特殊な活動は、
バスに乗りこむまでにほとんどの参加者が上着を羽織っていた。光を運ぶ光詰草は、光と同じだけの熱は届けてくれないので、ここは地上より寒い。移動続きでろくに体を動かしていないせいもあって、よけいに冷えがこたえた。
座席につくと、周囲の大人より一回り体格のいい男性が後から乗りこんできた。
「皆さん、本当に長いことお疲れ様です。あと少しバスに揺られれば、宿舎ですので。こちらのバスの皆さんは高等学生なので、ほとんどの方は初めましてですね。皆さんのご案内役の無量寿であります、
快活そのものといった声から聞かされる無量寿という言葉に、車内の者たちは一瞬「えっ」という顔になり、さらに「ああこれが本物の無量寿か」という顔になった。岳仁はそれを知ってか知らずか屈託のない調子で、
「今回はこの中のどなたかと私が対戦することもあるでしょう。共に大いに楽しみましょう」
と言った。オルゲルはふと月穹で見た小さな人の姿を思い出し、少なくともこの人じゃなかったな、などと思った。
「私、無量寿の選手って初めて見たよ」
バスでオルゲルの隣に座っている子が小声で話しかけてきた。無量寿が彦郎剣の試合に出るのは、ほぼ毎年珀花で開催される世界選手権の「無量寿の部」というカテゴリのみであったため、珀花人ではない年少の選手たちは無量寿の選手と接点がなかった。
「無量寿っていったら、近所の喫茶店のおばさんぐらいしか知らないんだよね」
「へえ、オルゲル、近所にそういう人いるんだ。私はお医者さんかなあ」
「ああ。お医者さんは結構そういう人多いって言うよね。あの人は違うだろうけど。いくつぐらいなんだろうね」
「二十代後半か、三十代前半……、かなあ。でも実際には百歳とかだったりするのかな」
「その辺は全然分かんないね。て言うかあの人、選手として出るのに、こんな世話係みたいなこともしてるんだね。まあお祭り大会だから、本気出さなくてもいいんだろうけど」
バスでの移動の間、岳仁は窓の外をガイドのように説明していた。
「見てのとおり、植物は少ないです。草ばかりだし、木も地上にあるような大きな木は生えていません。草もね、地上に生えているのと似ているけど、よく見ると違っていますよ。みなそれぞれ、名前もついています。自由行動の日はその辺、気をつけて見てみるのもいいですね」
「お気づきかもしれませんが、月には池や川などがほとんどありません。自由行動の行き先の一つに湖がありますが、あれぐらいです。ただし、地下深くに水源があって、この辺の平地の水は湖とそこから調達しています。宿舎で使える水もそうです。もちろんパンフレットにもあるとおり、浄水場を経ていますのでご安心ください」
「駅から宿舎までは平坦な地形をしています。しかし所によっては深い崖があったり、高く切り立った山もあります。人家はやはり平坦な場所に集まっています。ただし、月崩れの規模によっては地形の変動も起きたりするので、何十年も定住できるものではありません」
月崩れというのは、月で不定期に起こる巨大災害のことである。災害の種類はその時によって様々で、過去には大地震や雷による大火などがある。大体十年に一度の割合で発生し、月全体に巨大な爪痕を残していく。
月でイベントをというのは、月と地上どちらにも心を寄せているような人たちにとって悲願であった。だがそれには月崩れだけは絶対に避けなければならない。戦争が終結してから百年という今年が、最後の月崩れから二年後というタイミングであった。彼らとしては何がなんでも今年のうちに開催したかったのである。
「時期にもよりますが、月は大体、午後四時ぐらいから暗くなり始めます。光詰草の光落がやんでしまうからです。光落は翌朝からまた始まります。ゆっくり、ゆっくりと光が増えていく様子、この月における日の出のようなものです。貴重な機会ですから明日か明後日の朝、是非肉眼で体験してみてください」
光詰草の現象自体は、これまで学校での説明の中で聞いて知っていたことなので、誰にとっても今さらだったが、この大柄な無量寿が、明日はどんなありさまで戦うのか、それを肉眼で見ることの方が、オルゲルにとってはより大きな関心事だった。
鉄筋コンクリートでできた二階建ての宿舎が、オルゲルたちの滞在先だった。入浴の施設も広い食堂もある。月の外から来た人間は、例外なくここに滞在することになっている。月は今でも観光目的で行くことは認められていない。無量寿以外で月へやってくるのは、商売目的か、行政的なことか、学術的なことのどれかだ。あるいはごみ処理業者である。
選手たちは四人部屋をあてがわれている。全世界からかき集めてたったの三十二選手なのは、教師などの帯同者も合わせると、宿舎の収容人数がそのぐらいが限界という事情のせいである。
部屋に入ったら夕食までは宿舎とその敷地限定で自由行動を許されていた。行動はとにかく厳しく制限されている。宿舎の敷地は全体で百メートル四方ほどで、なかなかの広さである。地上からの滞在者への気遣いからか、公園のようにあちこちに木や花が植えられていた。バスでここへ来るまでに見た荒野とは違い、ここは色彩豊かであった。オルゲルは同部屋の子たちと一緒にその辺りをぶらぶらと歩き回った。どのみち時間を潰す方法が限られているせいか、庭は人でいっぱいだった。
庭の池を見た時は感動した。ここへ来るまでには水のある風景を一つも見なかったせいもある。直径十メートル弱ぐらいの人口池だったが、小さな橋が渡してあったり、水際に笹が植えてあったりしていかにも珀花らしかった。
別の場所には小さいながらも噴水もあった。まるく囲った石垣の中央に細長い壺が置かれてあって、その壺から水が流れ出ている。流しっぱなしではなく、循環させているのだろうと思った。水の調達も大変そうなこの地で、それでも何か目を楽しませるものをという心意気を感じて、オルゲルは感動した。
池の水も噴水の水も透きとおっていて、一見すると綺麗である。オルゲルは思わず手ですくいそうになった。すると一緒に庭を回っている子から止められた。
「学校からもらったパンフにも書いてあったでしょ。月の水は、宿舎の水道水以外、触っちゃだめだって」
「あ、忘れてた……」
無量寿ならば人体に有害な水を触ったり飲んだりしてもなんともない。しかし人間はそうはいかないのだ。しかし飲んではだめ、触ってもだめと言われ続けると、かえって喉が渇いてくる。私サイダー飲みたくなっちゃった、とオルゲルが言うと他の子たちも口々に私もーと言った。
一応ながら、月の住人もこの宿舎を使うのが人間であることぐらい分かっているので、宿舎の飲料水はもとより、この池の水も噴水の水も、昔から一ヶ月に一度は水質検査をしている。さすがに飲むのは念のためやめた方がいいだろうが、触るのもいけないなどと子供に教えるのは、人間側の用心がすぎるというものであった。
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