第12話

 ヴァンダにとってオルゲルとフリューは、たまにしか会えない遠くの孫娘たちだった。一人娘のシュテフィは珀花はっか人の響平と出会い、結婚して海の向こうに渡ってしまった。ドリントと静海せいかいは定期便で繋がっており、フェリーで片道十時間から十二時間の距離だ。地の果てとまではいかないが、かと言ってふと思い立って会いに行けるほどでもない。響平たちにしても忙しさを理由に彼らからボリーバンへ来たことは、ほとんどなかった。プレゼントのやり取りは欠かさなかったが、直接の対面は年に一度でも叶えばいい方で、それができるようになったのもフリューが五歳になってからだ。

 そのころのヴァンダのオルゲルの印象は、パチンコや刀のおもちゃなどを欲しがる子供で、しかも大抵そういうおもちゃで妹のフリューをいじめる悪童女といったところであった。

 シュテフィが静海を引き払い、オルゲルたちを連れてドリントで共に暮らしたいと持ちかけられた時、ヴァンダの方に拒む理由は何もなかったが、あのオルゲルがうちの子になるからには、さぞかし「にぎやか」になるだろう、ということは頭の片隅にあった。

 しかしドリントにやってきたオルゲルは、ヴァンダの記憶の中の当人より一回り小さくなっていた。それはシュテフィやフリューにも言えることだったが、元々がやかましかっただけに目についた。

 フリューはドリントに来る前から「そっちでもピアノは続けたい」ということを自分からヴァンダに伝えた。一方でオルゲルからはそういった個人的要求はなかった。シュテフィに頼まれてヴァンダの方でオルゲルが通える道場の目星をつけておいたにもかかわらずである。ヴァンダの方から彦郎剣の道場を見学に行こうと言っても、オルゲルがはっきりと返事をすることはなかった。国を渡ってきた以上、学校以外に通う場所を作るということは、それだけその地に根を張っていくということでもある。だからヴァンダとしてはオルゲルにも早く習い事を再開させて欲しかった。

 フリューが最寄りのピアノ教室へ通うようになると、家にいる時もほとんどピアノに向かうようになってしまった。そのためまだ友人のいなかったオルゲルは、取り残される形となった。オルゲルが彦郎剣の道場へ自ら通うようになったのは、それからである。孫娘二人は、それぞれの習いごとに取り組みながら、ボリーバン共和国ドリント市の子供になっていった。

 ドリントでの新生活からいくらもたたないころにシュテフィまで死んでしまったが、オルゲルもフリューも好きなものを手放さなかった。できすぎた孫たちだとヴァンダは常に思っている。


 ヴァンダが軽トラックの運転席に乗りこむと、彼女が大柄であるせいもあって、オルゲルの体はぐっと端に寄せられてしまった。

「私の横じゃあ狭いね。本当だったらあっちの車で行きたかったけど」

 ヴァンダは玄関先に停まっている軽自動車に目をやった。ヴァンダには家具を届けたついでにその家の古い家具を引き取って欲しいという客との約束があり、オルゲルを港へ送っていった後はそちらに向かわなければならないのだ。

「バッグを足元に置いちゃえば余裕だよ」

「悪いね」

 ヴァンダがエンジンをかけると、うるさい音と共に車体がガンガンと揺れた。

「もうちょっとつめればフリューだって乗れるよ。そうすりゃ手伝えるじゃない」

「今日のはそうでかくない靴箱一つなんだから、私一人で十分。第一、あの子の手はピアノ弾くためにあるんだから」

 甘やかしちゃってえ、と言いながらオルゲルは家のドアを気にした。

「あいつ、鍵ちゃんとかけたかな」

「さっきも言っておいたから、忘れないだろ。まあどうせまた寝てるんだろうけど」

 ここから車で二十分も走れば、ドリント港である。

 車内で二人は、最近のラジオドラマや芸能人のことなど、とりとめもない会話を続けた。

 自分が彦郎剣の試合で選ばれて珀花へ行くことについて、ヴァンダはとても喜んでくれたが、これからフェリーに乗る孫を見送る祖母の気持ちは歓喜一辺倒ではないだろうとオルゲルは思っている。

(きっと思い出しちゃうよね、おばあちゃん、お母さんのこと。私だってちょっと思い出すぐらいなんだもん)

「月に行ったら家に絵葉書送るね。月には土産物なんてほとんど売ってないらしいんだけど、絵葉書ぐらいならあるって書いてあった」

「いらないよお。何週間も行ってくるわけじゃなし」

「えー、でも月でしか売っていない絵葉書とかあったら欲しいし、使いたいよ!」

「いいけど、月からの郵便なんてえらく時間がかかりそうじゃないか。それこそ、あんたがうちに帰ってきてから一ヶ月ぐらいして、ぺらっと届くんじゃないかい?」

「あはは、それすごくまぬけー」

「ま、絵葉書なんかより土産話の方を楽しみにしてるよ。無量寿の剣がどんなもんだったかとかさ」

「うん」

 その時のオルゲルの無邪気な顔を見て、ヴァンダは長い間しまっていたささやかな計画をオルゲルに打ち明けた。

「まあしかし、土産話っていっても、どうせ月しか行かないわけだろ。この際だから、そのうち三人でゆっくり珀花に行こうじゃないか。」

「えっ、いいのっ?」

「あんたとフリューさえよけりゃね」

「フリューはどうかなあ。でも、私は行きたいな! でも、うーん……」

「ああ、あんたとフリュー二人で行くのも手じゃないか? あちらのおじいさんとおばあさんに顔見せてやったら」

「やだ」

 オルゲルの即答にヴァンダは「あれまあ」としか言えなかった。

「私もフリューもあっちのおじいちゃんとおばあちゃん、嫌い。今まで言わなかったけど」

「あれまあ。そりゃ、聞いて悪かったね」

「昔はそうでもなかったんだけどさ。お父さんが死んでから、すっごく意地が悪くなったんだ。……あー、この話は終わり。以上! 珀花へは三人で行こうよね!」

「ああ。フリューにも言ってみるよ」

「うん!」

 港にはターミナルビルがあり、ビルの前はロータリーになっていて、車の流れが途絶えることはない。ロータリー内に入ると、ヴァンダは手ごろな位置で素早くトラックを止め、お互い手を振るのもそこそこに別れた。


 混み合うロータリーを出て静かな通りに出ると、ちょうど信号が赤に変わった。ブレーキを踏むと、ヴァンダは深いため息をついた。胸がどきどきといっている。仕事でこの辺りへ行ってもこうはならない。

 それでも『そのうち三人でゆっくり珀花に』行かなければいけない。そのうちではなく、なるべく近いうちに。何しろもう自分は年寄りなのだ。


 ターミナルビルに入ってすぐにモザイクの大きな壁画がある。待ち合わせ場所として最も一般的な場所だった。今回の交流試合でドリント市及びその近郊に住まう選手や関係者たちは、まずはここで集合する。

 ヴァンダと別れたオルゲルは、その壁画の前に一人でいた。壁画の内容は抽象的で、じっと見ていても何がテーマか分からない。一応、海がテーマらしいのだが、茶系の色ばかりで構成されているので、全くそう見えない。

(やっぱりここのモザイク画は好きじゃないな。静海のターミナルビルのモザイク画に比べると……)

 あれはドリントの壁画とは正反対の、鮮やかな色彩でいっぱいの代物だった。花が満開になった李の木、珀花に伝わる伝説の木、不実李ならずのすももを描いたもので、花の箇所にはさまざまな色合いのピンク色のモザイクが使われており、旅行者はもちろん、地元民も何かとそこで写真を撮りたがる。

 オルゲルが珀花で暮らしていたころは、静海港のターミナルビルへは家族で何度か出かけていったものだった。海とそこに浮かぶ船、建物内のレストラン。どれも子供にとって楽しい場所だ。オルゲルは美術作品に特に心惹かれる性分ではないのだが、不実李のモザイク画はそんな楽しい場所のシンボルとして彼女の心の中にあった。

 珀花に四人で暮らしていたころのオルゲルにとって、ドリントの茶色い壁画は「ヴァンダおばあちゃんの国」に着いた目印であって、むしろ楽しい印象だった。だが父の死によって母や妹と共にこの場所でヴァンダの迎えを待っていた時のことは、今でも思い出すとつらい。あの時はこの茶色いモザイクの海がいやで仕方がなかった。もう二度とあの綺麗なピンクの絵は見られないのだと言われているような気がしたのだ。

 もう遠い昔のような、つい昨日のことのような、そのポイントだけが周囲からくり抜かれていつまでもぽつんと残っている。

 壁画の前にはすでにちらほらと見知った顔が集まっていたが、オルゲルはその誰にも声をかけず、ただドリントの茶色い壁画だけを眺めていた。

(大人になったら働いて、いつか自分のお金で珀花に行きたいなあ)

(おばあちゃんやフリューを連れて、珀花の温泉にも行けたらいいな)

(もっとお金を稼いだら、三人でオペラニアに行って、そこで鉄枝の舞台を見たい)

 壁画の海を眺めた後、ビルの大きな窓から見える海原に視線を移した。オルゲルは一瞬目を伏せた。

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