第9話
誰かの気配がしたので、ふと入口の方を見ると、見知った男の姿があった。ラフな黒のジャケットと灰青色の綿のシャツに黒いズボン。すっかり坊主にした頭には丸いレンガ色の帽子を被っている。
紗白がにやりとしながら話しかけた。
「ゲンザ、下では遊んできたのか?」
「行かないさ。この時期はどこも混んでるし、賑やかすぎだ。見た目おっさんの男が一人で黙々と飲んでたらかえって目立つ。電話してただけさ、
「おい、ここからオペラニアと電話?」
ゲンザは悪びれた風もなく「まあ三時間ばかし」と答えた。
「はあ?」
「待て待て、あっちからかけてきたんだ」
「ならいい。さすが金持ちだな。元気そうだったか?」
「うん。これから休暇でのんびりすごすとさ」
「ひょっとして島か? 去年どこぞの島の、海が見渡せる土地を相当に買ったとか言ってたが」
「そりゃ尾ひれがついてるな。そこまで大胆な真似はせんだろう。まあ、行って確かめてみたい気もするがな」
「へえ、期間限定であいつのボディガードに復帰するか? ゲンザ」
紗白は笑いながらそう言ったが、すぐに真顔に戻った。
「それだけ鉄枝と喋ってたんなら、月へ行くことも話したんだろ」
「ああ。
「なんだ、雲雀のことは私から鉄枝に言うつもりだったのに」
文句を言う紗白にゲンザは素っ気なく「そりゃ悪かった」と言った。紗白は神妙な顔をして「雲雀のこと、鉄枝はなんて言っていた?」とゲンザに訊ねた。
「交流試合で人間が大勢やってくるのを月のみんなは恐がっているから、雲雀としては帯刀屋である自分が顔を見せればみんなもそれだけで安心するだろうということで行ってくれるんだ、と伝えたら、それはいいことだねと言っていたよ。まあそれだけだ」
「なんだか含みがあるな。ま、誰も雲雀に強いたわけではないことだけは分かっていて欲しいもんだが」
「雲雀がどうこうよりむしろ、紗白が行くことの方に驚いていたぞ」
やや間があったが、紗白は「当たり前だろ、私が行くのは」と言った。
「
紗白の言葉を聞いているのかいないのか、ゲンザは食堂の給茶機からお茶を汲んで、一口二口飲んでいた。
「俺が行くのはただの好奇心だがな。でもまあ、この帽子は外していくさ。何が起こるか分からん場所で、特徴ある恰好はしたくない」
ゲンザの言葉に紗白はくすりと笑ったが、じきに険しい顔をしてこう言った。
「ミヤコがどういうつもりだろうと、
「まあ、言いたいことは分かる」
「招待したのが学生ばかりというのも、意図は分かるが、気に食わない」
そう言うと紗白は大きくため息をついた。
そんな紗白の顔を見ながらゲンザは「そう言えば、テントの連中はなんて言ってたんだ」と訊ねた。
「紗白は会ったんだろ?」
「いや、その話は。会ったのはル・クレだけで、それもちょっと顔を合わせて、切符を渡しただけだ。ゆっくりはしなかったよ。テントの方で社長さんやら部長さんやらと話しこんでた時間の方が長かったぐらいだ。ああ、ベンチを取ってた人数は去年と同じだったよ」
「そうか」
「まあ、久しぶりに会うばかりだから、逆に会っても話すことがなくて困る。それもあってさっさと別れた」
「そういうもんか。お互いネタには困らんと思うが。それこそ月へ行くことを……」
紗白は苦笑とともにため息を一つついた。
「その話が出るだろうと思ったから、いやだったんだ。ル・クレたちは面白くないだろう。まあ誰だって思うだろう。私だって思ってるさ、まるで全てが解決したかのような体裁にされるのはごめんだ」
「ミヤコだってそこまで能天気じゃねえだろうさ」
「それは分かっている」
「しかし毎回切符二枚無駄にするのはもったいない」
ゲンザが意地悪くそう言うと、紗白が「その辺の子にあげたよ」と言ったので、ゲンザの湯呑みの中身が激しく揺れた。
「人間に切符をやったって言うのか?」
「ああ。友達とせっかく切符を買ったのに、ダブルブッキングだかなんだか、反故にされてた子たちがいたんでね。別にいいだろう。真面目そうな女の子たち二人だった。中等か高等あたりの学生だろう。ま、女だけの場所ならそう面倒も起こらないだろ」
紗白はそう言ったが、ゲンザは眉をひそめた。
「無量寿の席を子供とは言え人間に渡したとなると、反発はあるぞ」
「ル・クレたちにはそのうち電話するよ」
「してくれよ、今夜にでも」
ああ、と紗白は面倒そうに言って、カップの中のすっかり冷めたお茶を飲み干した。
それからほどなくゲンザは「紗白」と唐突に呼びかけた。
ゲンザに呼ばれて紗白は顔を上げた。ゲンザの声で紗白は事態を察した。二人ともさっきまで軽口を叩いていた時とは顔が変わっている。ほどなく燕巣の内部に警報がけたたましく鳴り響いた。
「こんな消えかかったころにイナゴかよ」
ゲンザがそう言うと、紗白はけだるそうに立ち上がった。
「また会議のスケジュールが潰れる。少しでも早めに頼むぞ」
ゲンザは無言で自室に戻っていった。腰のものを置いてきてしまっていた。だがそれはそれとして、紗白のことを考えていた。
(会議、会議か。切符のことといい、何ごとにも投げやりなこった……)
自室に戻って刀を手にしたゲンザはいつでも跳べるよう、機体の外で待機していた。そこは燕巣の機体の最下部だったが、高空には変わりない。だが酸素の薄さもすさまじい風圧も、彼にとっては大した苦ではない。
燕巣の帯刀屋たちは緊急エレベーターや緊急通路を使うのでさすがに出動が早く、とうに待機していた。
しかし見づらい。かなり薄くなったが、今は月の風景が重なっている。この状態に目が慣れるのには少しかかる。
やがて明らかに月の風景とは異なる影がはっきりと見えた。影は動いている。骨翼ではない、人間たちのヘリコプターだ。高度は骨翼の遥か下である。しかしこの際、ヘリは問題ではない。
迷彩色の服に身を包んだ者たちが、ヘリの横っ腹からぽろぽろと落ちた、と思ったら、それらがどんどん骨翼に向かって上昇してくる。一人一人、翼のような大きなマントをはためかせている。彼らが身につけているのは
そんなものを身に着けているとは言え、雲より高い位置に飛んできてまで彼らが何をしようとしているのかと言えば、骨翼を襲撃して墜落させようとしているのだ。戦闘機からミサイルを発射するのならともかく、人間が羽衣をつけて突撃という攻撃はかなり無謀だが、それでも一人一人が小火器を手にしている。骨翼には攻撃機能が搭載されていないため、乗組員たちは気が気でない。
(十、十五、二十……。やはり数が多いな。まあ月穹の直後はイナゴにとってはチャンスだからな)
「ワアアアアアーッ!」
上空の風の音でゲンザたちには聞こえないが、燕巣に迫る二十あまりの影は、絶叫しながら迫ってきた。一人一人ゴーグルをつけているので顔は分からないが、口だけは見える。
相手の口の中の白い歯を見やりつつ、帯刀屋たちは一人、また一人と燕巣から跳びおりた。誰よりも早く出たのは雲雀だった。長い赤銅色の髪が駿馬の尾のようにあとをひいている。
器具によって飛んでいる人間たちとは違い、帯刀屋は羽衣などつけていない。その必要がない。
足を下にして落下しながらも彼らは微妙に体勢を整え、狙いをつけたイナゴをめがけ、勢いを殺すことなく落ちていく。イナゴもよけようとするが、その動きもすでに雲雀には読まれている。雲雀の足はあっという間に一人のイナゴの頭を踏み潰した。それと同時に専用の武器、
帯刀屋の全てが下に跳びおりるわけではない。待機したままの連中もいる。彼らには彼らで役割がある。
「雲雀め、早すぎて助かる」
ニコライは感嘆しながら手中の石を投じる機会を窺っている。ニコライたちが陣取っているのは、燕巣の外壁にメンテナンス用に取りつけられている作業用の足場だ。決して広くはないのだが、彼らはここに大人の手のひらぐらいの大きさの物体がごろごろと入った籠を持ちこんでいる。その物体、
宙鐙はある程度落ちると、次第に落下速度を落とし、空中で止まる。ニコライが先に落とした方がより下に、後から落とした方がその上で浮いている。ニコライ以外の待機組はさらに数個を落とした。宙鐙はただ落とせばいいというものではない。眼下でイナゴを仕留めている帯刀屋たちに当たらないよう、また彼らの動きを邪魔したりしないよう、繊細な加減が肝心である。
月穹の中ではそれが実に難しくなる。黒い戦闘服に身を包んだ姿は、普段の青空のもとであったらかえってよく見えるぐらいなのだが、風景が混在した中でいつもと同じようにやるのは難しい。雲雀は不慣れな連中を相手に叫んだ。
「どこへでも投げてみな! 私たちはどこだって踏み台にできるから!」
右腕に人間が刺さったままの六叉鉾の柄を握りしめ、雲雀は上と下を交互に眺めて、身をよじらせて一番近い宙鐙に落ちていく。はたして右足の裏がぴったりと一つの宙鐙に当たる。雲雀は宙鐙を踏み台にして一気に百メートル近く跳び上がる。跳び上がりながらも雲雀の目は冷静に次の宙鐙を射程に入れ、またぴったりの位置につけて再び跳び上がる。
これらを繰り返しながら雲雀はまたたく間に燕巣に戻っていった。六叉鉾に貫かれた死骸は、宙鐙を投げる連中とはまた別の帯刀屋たちが引き受け、雲雀は雲雀で一息おいてからこの死体を引き受ける列に加わる。
彼女が最初に跳びおりてからここまで、時間は五分とすぎていない。
イナゴの狩り、死体の引き受け、宙鐙の投下。帯刀屋たちはこれらを順番に受け持ちながら、襲撃がやむまで続ける。
無量寿たちがイナゴと呼ぶ人間たちをここまで運んできたヘリコプターはと言えば、このどさくさの間に姿を消している。いつものことだ。
「出番はなかったな」
つとめを終えた雲雀がゲンザとすれ違った。
「お疲れ。月穹の間のイナゴはまた別だからな。万が一と思って」
「それはどうも。そちらこそ、あとを頼む。ちょっと多いがな」
「ああ」
ゲンザは機内の一室に向かった。その中で帯刀屋によって始末されたロカスト・ブラザーズたちの遺体がシートを敷いた床に寝かされている。皆、鉾が刺さったままだ。
ゲンザは一人一人の骸から突き出た鉾を斧で切り、さらに遺体保全のための薬液を注射し、それから一体ずつ遺体袋に入れていく。折った鉾は、室内にある専用の大きな箱の中に放っていく。全て彼一人だけの手作業だ。
ゲンザは上着のポケットから祈祷の本を取り出し、読み上げた。死者への祈りの文句はもうとっくに暗記しているので本は不要なのだが、この本のページをこの部屋の空気に触れさせることも彼にとっては儀式の一部であった。
「悔やむことなく生を終えし者よ、せめてこののちは、常世の国にて、己が罪を知り、とこしえに悔やむべし。願わくは汝のもとに李の恵みがすみやかにあらんことを」
騒動がおさまってから数時間後、機長の秘書である
「今機長も含めて動力部の会議中。切るわよ」
『どうしてもってしつこいんですよ。そっちでお願いします』
滝鶴が怒る間もなく、それから別の声で受話器の向こうからほとんど泣きそうな声での訴えがきた。
「お願いです、機長との配置換え希望の面談を今日のうちになんとかお願いします」
「今日はロカスト・ブラザーズからの襲撃があってスケジュールを変更せざるを得なくなったのよ。理解しなさい」
『もう三週間も待っているんです』
「みんな順番を守っているの。新しい日時はまた伝えるわ」
『それさえいつもちっとも来ないじゃないですか。お願いです、今日……』
滝鶴はそこで受話器を置いた。
会議中とは言え、紗白は隣にいたのでそのやりとりが耳に入っていたに違いなかった。しかし彼女はそれをまるで感知していないかのように会議を続けた。
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