第7話

 映画館を出た後も、オルゲルはしばらく映画の余韻に浸っていた。頭上に広がる月世界も、こうなってくると地味に思えた。

「この話、毎回突っこみたくなるんだよねえ。なんで不実李ならずのすももはこうなる未来を寧寧ねねや無量寿に教えてあげなかったんだろうって」

「エッカ、それちょっと違うよ」

「不実李って未来を人間に教えてくれるんでしょ?」

「まあそうだけど、そんなに都合のいい存在じゃない。例えば大雨とか日照りとか、虫の害とか、あと漁師には海の荒れ具合とか、不実李が教えてくれるのは自然現象についてだけだよ。個人の未来や運命については何も教えてくれないんだよ。教えてくれないっていうより、分からない」

「へー、そういうものなんだ」

「古代の世界にはどこの町や村でも不実李が必ずあったんだけど、争いごとが起こると真っ先に標的にされちゃうんだ。あるとないとじゃ大違いだから。木がなくなるとそれを頼りにしている場所の農業はだめになっちゃうもん」

「そうかあ。でも今なら誰でも天気予報聞けるし、あってもあんまり意味ないねえ。大きな天災を予知してくれるなら、あった方がいいと思うけど。でも寧寧もあそこで切っちゃわないで、最後の一本ぐらい残してくれればよかったのにね」

「うーん、どのみち人間からも大事にされなかったんじゃないかな。だから最後に寧寧は自分からあれを切ったんだって、何かの本に書いてあった」

「戦争はやだねー」

 エッカはあくびをしながらそう言った。オルゲルが映画の余韻で軽く興奮しているのとは逆に、彼女の方は体力が限界に来ていた。

 欲を言えばもっと遊び回りたかったエッカだったが、今は満足していた。なんと言ってもオルゲルが楽しんでくれていた。

 オルゲルがボリーバンへ来てから五年、それはエッカとオルゲルが友達になってからの年月と同じであったが、エッカの中では今でもオルゲルは元は珀花人であり、珀花はっかでの全ての思い出を振り払ってここにいるのだという認識が強くあった。オルゲルにはボリーバンでの楽しい思い出を一つでも多く作って欲しい。特に、人生で最初に家族抜きですごす月穹げっきゅうは、オルゲルにとって最高にいい思い出であって欲しい。エッカはそう願っていた。それはほぼ果たされたと自負している。席が消えたと分かった時は本当に絶望したが、あのまま帰る羽目にならなくて、本当によかったと思った。

 しかし今エッカの口から出る言葉は「もう無理……。寝たい」だった。


 椅子に戻ると、就寝用のゆったりとした恰好に着替えた。ここは女性しかいないので、みんなその場で着替えてしまう。安全の点は心配ない。それから備えつけのシーツを被り、背もたれをぐっと倒した。夜も深まってくると、誰もがこんな風に椅子を倒して、月世界を腹の上にして朝まですごす。あるいはそのまま寝てしまう。

 鉄枝の姿を思い浮かべながら仰向けに見る月穹はオルゲルには格別であった。エッカはもう寝ている。

 ふと、オルゲルはさっきとは周囲の雰囲気が変わっていることに気づいた。

(あれ? さっきまでの間になんかあったのかな)

 よく見ると、オルゲルとエッカのまわりが、みんな椅子をくっつけてかたまっている。親しい者たち同士で複数の席を取った場合、三席、四席と動かしてくっつけることはどのエリアでもよくあることだ。ただそれにしても、オルゲルとエッカの周囲だけ、不自然にたくさんの椅子が寄り添い、その結果としてオルゲルとエッカのいる場所だけが遠巻きにされているようだった。たくさん席をくっつけている人たちは、このテント内の大勢の人と同様、普通に楽しくすごしているように見える。

(まあ、なんでもないよね。気にしない、気にしない)

 周囲は賑やかなのに、自分たち二人の席だけ静まり返っている。月穹特有のぼんやりとした明るさも相まって、よけい異様な感じがした。

(私たち、なんかした……?)

 もう寝てしまおうかと思ったが、月の風景は中途半端に明るくて、オルゲルに安らかな眠りを与えなかった。疲れているのに、目だけ覚めているといういやな状態だった。

 じりじりとしながら空を眺めていると、誰かがこちらに近づいてくるのを感じ、オルゲルは顔を向けた。相手は二人、さっき話しかけてきた人とは別の人たちである。最初からオルゲルが起きていることを知っていてか、オルゲルが体を起こすと、にっこりとしてくれたので、オルゲルも思わず笑顔を返した。相手は外見からして四十手前といったところだ。オルゲルは自分からこんばんはと言った。すると相手はちょっと意外そうな顔をしたものの、ごく当たり前に「こんばんは」と返してくれた。

「ごめんなさいね、お嬢さん。寝てた?」

 ここであんまり喋っていると、寝ているエッカを起こしてしまうと思ったオルゲルは、椅子から立って、彼女たちの方に近寄っていった。「

「いえ、うとうとしていただけです。いろいろ行ってもう疲れちゃって」

「そう」

 あの、私たちに何か? といつ言おうかと思いながらもオルゲルは言葉をつぎかねた。向こうも何やら言いたげなくせに、どこかおずおずとしている。とにかく何か適当に言ってうまいこと切り上げようとオルゲルは思った。

「えっと……、最後に行ったのは映画館で……。私、オペラニアの月穹の映画、大好きなんです。特に鉄枝かなえのファンで」

「あなたの切符……」

 こっちが喋ろうとしているのに、なんで遮るんだろうと、オルゲルは気分を害した。

(今からどうしてもすぐ言いたいことがあるっていうより、私の言葉を聞きたくないって感じだ)

さっきも説明したなあと思いつつ、紗白という人にもらって、とオルゲルは答えた。

「あの、もしかして皆さんは紗白さじろさんとここでご一緒する予定だったんですか?」

「いえ、そういうわけじゃないんだけど……。ここ一帯の切符はね、いつも彼女からもらっているの」

「えっ、ここの人たちみんな?」

「そう、みんな」

 この辺りのオルゲルを遠巻きにしている人たちは、ざっと二、三十人はいる。これだけの数の切符を手に入れられる紗白とは、よほどの金持ちか、テント運営の関係者なんだろうかと思った。

「彼女からもらって、欲しい人に配っているの。でも毎年二枚は紗白用にってその場で返してるの。だけど彼女は忙しいから席はいつも空」

「月穹の日も働いてらっしゃる人なんですね」

「……まあね」

 その時、空の光の加減が変わった。

「あっ、景色が変わる」

 オルゲルは思わず声に出して言った。ここへ来てから初めての景色の変化だ。テント中の人たちがみんなざわついて、その声が波のように響いていた。それまでの頭上の景色が霞んだり現れたりした後、ふっと全く別の風景に変わった。

 オルゲルがたまたままっすぐ見た先に、小さな影が見えた。人だったらいいなあとうっすら期待してじっと見ると、もう明らかにそれは人影であった。すぐには信じられなかった。

 小さな人影は時折ぼやけることもあったが、逆にひどく鮮明になることもあった。髪型まではっきりと分かる。少しのびた坊主頭だった。骨ばっているがまだどこか子供っぽい顔をしている。ひとまずそれだけは分かった。

 上を向いているので、まるでこちらと見つめ合っているように感じる。またいっそう鮮明になった瞬間には、喉仏まで見えた。

「男の子だあ。ああ、すごい。景色だってこんなに綺麗に見えること滅多にないのに」

 それからすぐオルゲルは気づいた。無量寿は若く見えても年齢は百歳ということが普通にある。

 オルゲルは今から一瞬たりともこの光景から目をそらすまいとばかりにまじまじと上空を見ていた。生まれてこの方、月穹で人の姿など見たことがない。このテントにいるほとんどの人がそうだろう。

 誰もがびっくりしているのだろう、全く別方向の席から「あっ」「見て見て」「あれ無量寿?」などと声がしている。カメラで撮ろうとしている人もいる。

 まわりの様子にあてられてオルゲルも興奮してきた。今話している女性に「すごいですね!」と言ったのだが、返事はなかった。彼女はひたすら悲痛な面持ちで空を見ている。その口からため息に近いかすかな声が漏れた。間近にいたオルゲルにもほとんど聞こえなかったが、誰かの名前に違いない、そんな響きを感じた。

 オルゲルは虚を突かれ、思わず辺りを見回した。オルゲルたちを遠巻きにしている一帯では、誰もが顔を覆わんばかりでいる。

 そうした一部を離れて、このテント全体を眺めていると、珍しいものを見たという興奮であり、オルゲルの周囲のごく小さなひとかたまりにいる人たちの反応など、それに比べれば誰の眼中にも入らなさそうであった。

 耳をすませば近くの人たちの言っていることが聞こえる。

「違う、あれは今の月の様子じゃない。あれ、――よ」

「そんな」

 どこにいるのか分からなかったが、聞き覚えのある声も混じっていた。間違いなくル・クレの声だ。オルゲルは理解した。オルゲルたちから距離をとって椅子をかためているこの人たちは。

(みんな無量寿なんだ)

 きっと紗白もそうなのだろう、とも思った。

 この場で自分とエッカと二人、何を喋っていたのかが一瞬でまとめて思い出され、オルゲルはもうこの人たちのうち誰かの顔を見ることができなかった。今これから何を言ったらいいのか、どう振る舞ったらいいのか、分からない。少なくとも、この近くのどこかにいるであろうル・クレとは顔を合わせたくない。

 無量寿らしき人々は誰もが食い入るように空を見るか、逆に見ないようにするかに必死で、オルゲルの方など誰も気にかけていないように見えた。オルゲルはそっと自分の椅子に戻った。ふと見上げると、彼の姿はもうすっかりぼやけていた。

 戻る途中、遠くの空から雷のような音がしだした。ゴロゴロ、ゴロゴロ、という音が何度もするのだが、どこか人工的な響きがある。

 ほどなくその形が空の端に見えてきた。地上から見ると、巨大な壺が浮遊しているように見える。骨翼こつよくだった。

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