第6話
「無量寿の剣を目の前で見られて、手合わせまでさせてもらえる。おまけに月にも行ける。ラウルは何が不満なんだろ」
エッカはため息をついた。
「ラウルもオルゲルみたいに考えてりゃいいんだけどねえ」
「あ、でも私だって無様な負けはしたくないから、全力は尽くすぞーとは思ってるけど。だって相手に悪いし」
「お父さんやお母さんも悪いのよ。さすがに勝ってこいなんて言わないけど、一矢報いるぐらいは当然、みたいなこと言ってるし。こないだなんて、死ぬ気でやれなんて言ってたんだよ」
「死なない奴らに死ぬ気で挑めって、変なのー」
「だよねえ」
「なんか恨みでもあるのかなあ」
「それはないよお。だってうちのおじいちゃんとおばあちゃんだって、革命のころは生まれてないんだから」
「そうだよね。意味分かんない」
二人がそんな会話をしていると、隣の人が声をかけてきた。
「あの、あなたたち」
隣と言っても、椅子と椅子の間はもともと一メートル余りの間隔をとって並べられている。オルゲルはエッカと椅子をくっつけ合っていたので、なおさら隣の席とは距離があった。
相手は見た目三十代ぐらいの女性だった。
幽玄たる空模様と友人とのお喋りに夢中になっていたオルゲルは、突然現実に引き戻された格好になり、ひどくぼんやりとした顔で「はい?」と言った。
「ここの席、どうしたの?」
友好的ではあったが底に用心深さを感じさせる声だった。そしてわずかながらオルゲルたちを咎めるようなものを含んでいた。紗白の知り合いなのかな、今日会う予定だったんだろうかとオルゲルは思いながら、人からもらったんです、と答えた。
「誰からもらったの?」
オルゲルは正直に
オルゲルは切符の裏まで見せた。
「本当だ。紗白ね」
オルゲルは「
「大丈夫? どうしたの?」
「紗白は来ないわ。この子たち、紗白から切符をもらったんだって」
「そう」
いきなり来ていきなり二人だけの会話を始めた彼女たちにオルゲルが面食らっていると、最初に声をかけてきた女性がオルゲルたちの方を向いて、
「なんでもないわ。ごめんなさいね」
と言って、そそくさと去っていった。
どうしたの、とエッカが小声で聞いてきた。オルゲルも小声で答えた。
「よく分かんない。これ誰からもらったのって聞かれた。紗白さんの知り合いなのかも。まあ、なんでもないみたい」
「ねえオルゲル、お日様が完全に沈んだら、またぶらぶらしない? で、ついでに大浴場行かない?」
「えー、出かけるのはいいけどさ、エッカお風呂入れないじゃない」
「足だけでも軽くジャブジャブしたいなあ。あ、オルゲルはゆっくり入ってていいよ。私適当に待ってるから」
エッカはお風呂のことで私に気を使ってくれているんだな、とオルゲルはうれしいやら申し訳ないやらであった。
不可解な闖入もあったが、オルゲルとエッカは今の空の変化を見届けようとした。
暮れゆくにつれて東の空の端からあらわれだした月の風景は、今やずいぶん色鮮やかになり、まもなく天球全体を覆いそうだ。月の風景は昼の空よりは暗いが、夜空よりは明るい。その微妙さを楽しんでもらうため、運営も照明の配置には気を使っている。
椅子にごろりと仰向けになっていると、まるで自分が月の大地の上をふわふわと飛んでいるような心地になれる。
今では家が何軒か見える。思わず「すごい」とオルゲルは呟いた。
「私、月で家を見るの初めて」
「オルゲルそうなんだ。私は何回かあるよ」
「
「その辺はタイミングによりけりだからねえ」
「誰か出てこないかなあ」
「見たことないよ、月穹で無量寿が映ってるとこなんて」
「エッカ、何度も家を見たことあったのに、それでもそうなんだ。無量寿は月穹の間は室内にこもってるって聞いたけど、本当にそうなのかなあ。長いのに」
「そうじゃない? ま、こんなとこで大写しになりたくないよね」
「それはそうだよね」
空のあちこちをきょろきょろと眺める間に、オルゲルはさっき席について訊ねてきた女性と目が合った。オルゲルはその視線を即座に外し、両目をひたすら真上に集中させた。
(今あの人泣いてた。私を見ながら泣いてた。私と目が合った時はちょっとびっくりしてたみたいだけど)
驚いてしばらくは景色が頭に入ってこなかった。そのうちエッカが「お風呂行こう」と言い出してくれたので、ひとまずオルゲルはそのことを忘れた。ただ、椅子から離れていく間、オルゲルは彼女たちの方を見ないようにつとめた。
月穹の際、テント内に大浴場が設けられるのは、もとは珀花の習慣だったが、今ではボリーバンも真似をして開いている。珀花育ちのオルゲルにとって、ボリーバンへ来てから珀花を思い出させてくれる数少ないことの一つだ。
大きな風呂は好きだったが、最近のオルゲルにとってこうした公衆浴場に入るのにネックになっていることがあった。オルゲルは初経もまだだったが、陰毛もまだはえていなかった。胸も平らだ。別に誰も見てこないと分かっているし、風呂に入りたい気持ちの方が勝っているので結局利用するのだが、裸になった途端につい周囲の同性の目を気にしてしまう。
さっぱりとした後は着替えて大浴場の隣へ行く。そこでは酒も含めていろいろな飲み物が売られており、風呂上がりにここへ寄るのもオルゲルが楽しみにしていたことの一つだった。
「去年もおばあちゃんやフリューと来た時ここ寄ったんだあ。お風呂上がりのアイスカフェオレ最高!」
「ねえオルゲル、カフェオレ一口ちょうだい」
「いいよお」
「代わりに私の梨ソーダ一口あげる」
「わーい、やった、交換!」
二人はそうやって相手の飲み物を飲んだ。オルゲルはようやく、ああこれで明日家に帰った時ヴァンダになんのためらいもなく「楽しかったよ、ありがとう」と言える、と思えるようになった。
「だけどさあ。ちょっと気になるんだよね、あの隣の人たち」
「オルゲル、いきなり話しかけられたもんね。しかもなんか感じ悪かったし。ねえ、私よかったら席替わろうか?」
「ううん、そこまでいやじゃないよ。それより今んとこ天気いいね。昼間が嘘みたい。合羽持ってきたけど、いらなかったな」
「ほーんと。私も一応濡れたくないから合羽持ってきたんだけど、大丈夫だったね。このまんまいつ寝ちゃってもいいぐらい」
それからオルゲルとエッカは映画館へも行った。テントに設けられた映画館では前の年のオペラニア共和国最大のテントにおける月穹の模様が三十分ほどの映像になって上映されている。
オルゲルはこの映像を見るのも大好きだった。映像では全編にオペラニアのサーカス団「パンサー」のパフォーマンスが登場する。どの場面も見どころになっているのだが、中でもオペラニアの歴史を物語っていくオープニングには毎年魅せられていた。
ほとんど未開の地だったオペラニアに人間が集まり、やがて団結して無量寿を権力の座から引きずり下ろして人間が自ら統治する国へとなっていくさまを、パンサーの豪勢な仕掛けと演者たちの舞踊によって表現している。演者たちは炎や水の中で舞い踊り、宙を翔ける。
仕掛けの規模も演者の技量も、世界中探してもこれだけのものを用意できるのはオペラニアのパンサーぐらいのものであった。何より映画のフィルムからしてカラーである。どこの国でも、映像はまだほとんどが白黒なのに、オペラニアはまるで当然のようにカラーフィルムだ。
しかしこの映像の中でオルゲルを毎回最も虜にしているのは、パンサーではなく、最後の方に登場する珀花での革命を描いた劇作の映像である。作品自体は長いので、映像に登場するのはほんの一部だ。場面も決まっていて、「珀花の
寧寧は珀花王家の最後の無量寿の女王である。革命によって彼女は王座から追われた。殺されずには済んだものの、人間の王配をあてがわれ、三人の子を産まされた。子供たちは三人とも男だった。無量寿と人間が子をなした場合、生まれてくる子は例外なく人間となる。最初に生まれた子は生後間もなく寧寧からの譲位ということで新しい王となった。彼の子孫たちによって珀花の王家は今でも続いている。
オルゲルが物心つくころから、最後に破滅する無量寿の貴人というキャラクターは、鉄枝が演じるものというパターンがあった。逆に鉄枝が人間の登場人物を演じるのを見たことがないが、どのみちそれを望む観客はいない。
オルゲルどころか、ヴァンダが生まれる前から彼はオペラニアの映画と舞台芸術の世界で無量寿の登場人物を引き受け、その上で不動の人気スターでいる。
変わり映えがしないと言えばそれまでだが、ほとんど衰えることのない美貌とそこから漂う超常の風格を備えた彼は、どんな汚れ役を担ってもなお光を放っていた。
(今回はまた衣装が素敵だな……。あんな李の花の柄、どうやって織りこんでいるんだろう)
寧寧役は厚手の絹の衣を幾重も着こむことになるので、動き回るのにかなりの筋力が必要である。このため、美貌の男性が演じることが珍しくない。全部合わせて数十キロにもなるという衣装をまとっていても、鉄枝は翼をまとっているかのように軽やかであった。
演目の結末は毎回ほぼ同じだ。己の運命に絶望した寧寧が意を決し、まず珀花王家が代々守り抜いた秘密の庭をおとずれる。そこには
「恨みごとは黄泉路で聞こう」
その言葉を終えると、寧寧は今で庭の主である不実李の幹を両断する。カブトワリであれば、女性の寧寧の腕力でも簡単に切れてしまうのだ。寧寧はその場で自分の首も刎ねようとするが、手が震えてできない。そこで「竜のはらわた」と呼ばれる珀花の君主のみが入ることを許される自害の場に入っていく。そこでは高温で液化した鉄が常に煮えたぎっている。身を投げれば、無量寿といえどもひとたまりもない。
画面ではまさに鉄枝が眼下の
「命短い者どもよ。この終の住処まで、追うてこれるなら追うてこよ」
その言葉を終えると、鉄枝演じる寧寧はつま先から落下する。
分かっていてもこの直後オルゲルは毎回心の中で「あっ」と叫んでしまう。と同時に、画面は暗くなる。
これはあくまで去年の舞台の映像にすぎない。本場オペラニアでは今ごろ、今年の新作が上演されていて、観客たちは生の舞台を楽しんでいるのだ。
(ああ、いつか見たいなあ、オペラニアの舞台)
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