第5話

 もらった切符を裏返すと、二枚とも鉛筆で小さく文字が書かれてあった。「紗白」とあった。

「なんて書いてあるんだろう。珀花はっか文字みたいね。オルゲル読める?」

「珀花人だけど、読めないんだよね。あ、二個目は読める。しろ。色の白だよ。でもこっちの字は知らないな」

「そっかあ」

「珀花文字で私が読めるのは地名とかぐらいだよ、それも有名な町のぐらい。珀花文字の塾行ってれば読めただろうけど」

「へーえ」

 オルゲルたちが日常的に使っているのはオペラニア共和国の言語と文字で、これは現在ほとんどの国で第一言語となっている。オルゲルが珀花にいたころも言葉は全てオペラニア語であった。

「あ、もしかしたらこれ、さっきの人の名前かな! さ、しろ。でサジロ」

「そうだねえ。じゃあ、あの人珀花人だったのかな」

「あんまりそうは見えなかったけどな。私みたいに珀花人と別の国の人との混血なのかも」

 オルゲルたちはその後、切符にある椅子の場所へ直行した。

 この女性専用エリアも他のエリアも大体二十席ごとに区分けされているのだが、オルゲルがもらった指定席の一帯はまだ誰も座っていなかった。すでに大抵の椅子にはもう人がかけているにも拘わらず。

「ここのまわりだけまだ誰も来てないね」

「うん。まあでもこれなら、さっきみたいなこともないかもね。ああでも、エッカどうする? あ、私には気ぃ使わなくていいよ。無理しなくていいから、ほんとに」

「こんなラッキーないよ! 今日はここで泊まる!」

「いいの?」

「いい! あれの方は大丈夫! ちゃんとでかいナプキン持ってきてるから」

 エッカの満面の笑みを見てオルゲルも気持ちが一気にここへ来た時のそれに戻った。二人はそれぞれの椅子に目印代わりに自分のバスタオルを敷いておくと、テント内の催しをひととおり楽しみに行った。

「鳥の挟み焼き、おいしー」

「ここでしか食べられないもんね」

「薔薇飴も食べたーい」

「最後は苺のソーダ水だよね。あれを飲みながら、空を見たいな」

「わーい」

「あ、見て、エッカ! 今ちらっと空に月が映った!」

「えっ、どこどこ?」

「ほら、ここをずーっとまっすぐ……」

 丘の稜線らしいものがうっすらと見えた。木がいくらかはえているのがうっすらと分かる。月の中は光も空気も薄いので、大きな植物は育たないと教わっている。実際どの木も枝も幹も細くて曲がりくねっている。あとはぱさぱさした感じの草が茂っている。月の大半はこういった荒涼とした自然で占められている。真っ先に目に映ったものを見てオルゲルはああ今年も月が出たと思う。

 あちこちから徐々に「見えた」という声があがっている。そうこうするうちに青空は紫色がかり、西の空は茜色に変わりつつあった。暗い東の方の空から月の風景が徐々に濃くなっていく。

「オルゲル、一旦椅子の所に戻ろう」

「うん」

 日が沈めばいずれ満天に月が映る。しかし今のこの空が変化していく過程を見るのがまた人間たちの楽しみであった。

 どこか不安を抱えながら席に戻ると、バスタオルがそのまま置いてあるだけだった。お互いよかったよかったと言いながら空も含めて辺りを見回すと、他の席も今はある程度人が座っていた。

 オルゲルもエッカも一応隣の席の人たちに笑いながらぺこりと頭を下げた。すると、その相手は何やら怪訝な顔をした。

(え、何か変なことしたかな、私)

 オルゲルもエッカもそう思ったが、かと言ってあまり気にすることもなく、椅子に腰かけながら東の空を見た。テントはだだっ広い場所に作るものなので、オルゲルたちは何に遮られることもなく、空を見上げていられた。ソーダ水をちびちびと飲んでいるうちにも、空は徐々に徐々に月世界へと変わっていく。しかし見えるものといったら相変わらず野っぱらばかりだ。無量寿が暮らしている以上、彼らの家もどこかにあるはずだが、滅多に見えたことがない。だがこの際、そこは問題ではなかった。

「出てくる、出てくる……」

「すごいねえ」

 子供のころからほぼ毎年見ているとは言え、それでもこの現象に対する驚嘆は、いつも新鮮なものだった。

 月のどの辺りが映るのかはまちまちだ。また、景色は気がつくと別の場所に変わっていたりする。しかし、ここで暮らしているはずの無量寿の姿だけは昔から見たことがない。

「あっ」

「どうしたの、オルゲル」

「今、無量寿かと思ったけど……、うーん、違った」

「なあんだ」

 そんなことを言いながらオルゲルは、飲み干しかけている苺ソーダ水をズズーッとすすっていた。

「ねえ、そう言えばさ。最近どうなの、ラウルは」

 昼間の道場での彼とのやり取りを思い出し、オルゲルはふと、エッカのこのごろが気になった。

「うーん、最近特にいらいらしてるかな。とにかく怒らせないようにしてるけど」

「やだねえ。まあでも今夜、どっかのテントへ出かけてるってんなら、お父さんもお母さんもほっとしてたりして」

 兄の行動について、エッカは単に悪い仲間とつるむだけではない、ある危険な匂いを感じ取っていたのだが、それについてはひとまず黙り、

「お母さんはそうだと思うよ。ま、どうでもいいけど」

 とだけ言った。しかしついぽつりともらしてしまった。

「ラウルになんかあるたび、私にしわ寄せがくるんだよね」

 オルゲルは顔を曇らせた。

「……なんかあった?」

「うーん、まあ、いろいろ。今、正直恐いんだよね、庭で木刀の素振りとかしててもなんか殺気立ってる感じだし」

「うわー、それはエッカやだねえ。あいつ、月に行くからって、勝手に気負いすぎてんじゃない?」

「それはもちろんあるんだろうけど……、なんかあいつ、やばい奴らと関わってるみたいなんだ。隠してるけど。今日だって、友達と港のテントに行くって言ってたけど、ほんとはどこ行ってんだか」

「なあにい? ヤクザと知り合いとか?」

 エッカはことさらに声を潜めて言った。

「この間ベッドの隙間から、輪っかを結んだロープが出てきたの」

 私の手のひら二つ分ぐらいの小さい奴だったけど、とエッカは言ったが、この世界で船乗りでも登山家でもない人間の持ち物で輪を結んだロープがあるとなると、一つの騒ぎである。エッカはさらに言った。

「ちっちゃいタグがついてて、そこに『人には人の』って書いてあったからもう間違いないよ」

 輪を結んだロープのメッセージは、概ねこの世界共通である。「無量寿を縛り首にせよ」だ。オペラニア発祥の反無量寿の集団、ロカスト・ブラザーズのシンボルグッズに他ならなかった。

 なぜ縛り首なのかと言えば、無量寿を長く苦しめて死に至らせ、なおかつ他の無量寿への見せしめの効果も高い方法がそれだからだ。

「エロ本でも隠してないかなあ、なんてラウルがいない間にこっそり部屋に入ったんだ。とんでもないもの見つけちゃった」

「でもあいつ、無量寿と今まで接点なんてあった? なんでそんなに嫌いになったんだろう」

「うーん、お父さんにくっついて彦郎剣げんろうけんの世界選手権を見にいったことがあったから、その時に試合の中で無量寿を見たことはあったけど、逆にまあそのぐらいかなあ」

 オルゲルとしては何かの間違いだと思いたかった。ラウルのことは心底嫌いではあったが、そこまで堕ちていて欲しくはなかった。

「もうちょっと漁ればいろいろ見つけられたのかもしれないけど、まあ、あんまりごそごそやって、部屋に入ったってことを悟られてもやばいし」

「それ、その後もラウルの部屋に行ったりした?」

「あるよ、二回ぐらい。その時もあった」

 エッカはわざとらしく大きな声で言った。

「無量寿との試合でいいとこ見せなきゃって思ってるんでしょ!」

 オルゲルもそれに合わせた。

「ばっかみたい。勝てるわけないのにー。こっちは勉強させてもらうだけだよ」

 無量寿との手合わせがどういうものかと言えば、それはオルゲルが言ったとおり「勉強させてもらう」というものである。

 寿命の方はともかく、無量寿が身体能力で特に人間より大きくまさっているわけではない。ただ無量寿は怪我や疲労の回復が人間より早い。加えて、人間で言えば二十代から三十代辺りの肉体で二百年、長ければ三百年はすごす。才能さえあれば、倍の努力が倍の上達に繋がるのである。だからどんなスポーツでも人間と無量寿のトップクラスが対峙した場合、まず人間が負ける。彦郎剣も例外ではない。加えて新たな無量寿がほとんど生まれていないこともあり、無量寿の彦郎剣士たちは「ベテラン」しかいない。

 力の差がありすぎるので正式の試合では無量寿と人間はカテゴリを分けられているのだが、エキシビションマッチとして無量寿側にハンディをつけるなどして催されることはまれにある。ラウルとエッカの父トードルは若いころは彦郎剣の名選手で、そのような大会で無量寿相手に一本を奪取したことがあった。

 一方でラウルの腕前はその世代の中にあっては一応、ボリーバン国内トップクラスのものではあったが、トードルがその年齢だったころの実績に及ぶものではなく、少なくとも無量寿相手にいいところを見せるなど、望むべくもないことであった。

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