第4話

「まずは屋台でなんか食べたいなー」

「だよね」

「あと映画館! 去年見たオペラニアのテントのサーカス、すごかったよね。今年はどんなだろう」

「あー、でもオルゲル、まあ取り敢えず、ロッカーに行って荷物を預けよう。で、今日の席を確認しとこう。後で暗くなると分からなくなるし」

「そうだね」

 その後が悪夢だった。切符にある番号のついた自分たちの椅子を確認しに行ったのだが、そこにはすでに人が座っていたのである。

「あの、そこ私たちの指定席なんですけど」

 先客は二十代の女性二人組だった。ここは女性専用エリアなのだ。オルゲルたちの切符にもそのことははっきり印刷されているし、番号は間違いなくここなのだ。先客二人は他人の席を分捕るような輩には見えなかった。オルゲルたちの主張にも怪訝そうな顔をしながらも、穏当な態度で接してくれた。

「だけど私たちの切符だって、ほら、ねえ……」

 二人の持っている切符は、オルゲルたちの切符と全く同じものだった。

「運営側の間違いなんじゃないの?」

「係員に聞いてみなさいな」

 彼女たちはそう言いつつ、寝椅子にはしっかりと腰をつけていて、立ちそうにはない。

(まあ、そりゃそうだ)

 聞いてみます、とオルゲルとエッカは言い、係員を探して呼び止めた。しかしその係員もこの問題に対応しかねる様子で、結局先に座っていた二人も一緒に運営側の係員室に行く羽目になった。

 何一つ面白いもののない運営側のテントにいても出店からおいしそうな匂いがしてくるし、遠くからは遊具を楽しむ子供たちの歓声も聞こえる。

 係員の上司のもとへ赴いたが、そちらもお手上げの反応だった。それならせめて別の席をくださいとオルゲルが主張すると、全席とうに完売しており、ゆとりは全くないという。先客の方がそれはおかしいと言った。

「こういう時のために予備席とか作ってないの?」

「申し訳ありません」

 オルゲルも負けじと言った。

「せっかく楽しみにしてきたのに、ひどい!」

 係員室では運営側の従業員やこの日だけのアルバイトらしき人々がせわしなく動き回っていた。こちらは正当な抗議をしにきたにも拘わらず、彼らの仕事を邪魔しにきた存在として見られているような気がしてならなかった。こういう時は頭が変に冴える。オルゲルはこの半径数メートル以内にいる人たちの顔全てが見えるような感覚に陥って、誰もが自分たちをばかにしているような気がした。

 オルゲルもエッカも次第に抗議の言葉も尽きて、口重になっていった。先客の女性二人はそれでもまだ粘ってくれた。

「私たちも気分悪いわ。とにかく、今からでも予備の席を用意してよ」

「いえもう、椅子自体がありませんでして」

「それならそれで別の方法!」

 オルゲルも頑張って「納得できない、ひどい」と言い続けた。自分の言い方はお姉さんたちに比べるとさすがに子供っぽいと思ったが、それでも繰り返した。

 そうした中、先に根を上げたのはエッカだった。

「オルゲル、もういいよ。ねえ、今年は運がなかったって……」

 エッカはオルゲルにそう言うとそれから間髪入れずに「払い戻し、させてください」と言った。

 エッカそれはだめだよと言いたかったが、ここでエッカと言い争いになってはそれこそだめだと、オルゲルは言葉をのみこんだ。

 オルゲルは運営側に向かって、

「分かりました! じゃあ、切符二枚、返金して!」

 先客の女性二人は何も言わなかったが、彼女たちも運営側を睨んだままだった。

「このたびは申し訳ございません。本当に畏れ入ります」

 テントの切符の料金には入場料と椅子代、さらに今日から明日の午前中にかけての施設全体の利用料も含まれていたが、係員は全額返してくれた。その上で、泊まりのための椅子以外は全て利用できる種類の切符を二人に用意してくれた。係員がそれを渡してくれるまでの間、先客の女性たちがオルゲルたちに「なんだか悪いね、お嬢ちゃんたち」と言ったが、オルゲルはただ「いえ、別に……」としか言えなかった。

 運営に腹が立ったのは言うまでもないが、オルゲルには別の後悔があった。道場を出た後、ル・クレの店で時間を潰したりせず、先にまっすぐテントに行って、自分の席にどっかと座りこんでいれば。あるいはそのぐらい早いタイミングで間違いに気づいて運営側に掛け合っていれば。だが何はともあれもうすぎてしまったことで、今夜は家に帰るしかないのである。エッカの気持ち、ヴァンダの反応を想像するだけで、オルゲルはもう消えてしまいたい気持ちだった。

 代わりの切符を手にすると、オルゲルはエッカと共に誰の顔も見ないようにその場から早足で去った。

 誰の顔も見ないように、そう心がけていたオルゲルだったが、外へ出るまでのわずかな間に、一つの視線と目が合った。中年の女性だった。恰好が印象的だった。何しろ今日はお祭りなので、みんないかにも遊びますという服装で来ている。テントの中には写真屋があって、そこで記念撮影をするのも楽しみの一つだ。オルゲルだってそのつもりで昨日三か月ぶりに美容院に行って、髪を肩の上ですっきりと切り揃えてもらってきて、お気に入りのヘアピンをつけてきた。それなのにその女性は、黒っぽい地味な色のズボンとジャケットに身を包んでいた。真っ黒づくめだったらかえって目立っていただろうが、そういうのとも違って、仕事着という感じの洒落っ気のない暗色で構成された服装だった。と言ってテントの係員には見えない。

 その暗い上半身に、真っ白な髪が背中の辺りまでかかっているさまがオルゲルの目に残った。

(白髪……、ううん銀髪だ)


 外へ出ると真っ先にエッカは、トイレに行きたいと言った。オルゲルも「私も」と言って、二人はきょろきょろしながらトイレの在りかを見回した。

 見つけたトイレに並んでいる間、エッカが実はねと言い出した。

「私、今朝から生理になっちゃって」

「ええっ、そうだったの!」

 エッカは毎月生理になるたびに「だるい」「なんか貧血」「大きめのナプキン持ってきたけど、それでもやばい」などとなるありさまであった。オルゲルは彼女が早々に返金に応じたわけをなんとなく理解した。

「そんならそれで今日はできるだけ楽しもう、エッカ。そうだ、来年! 来年はフリューも来れる! 三人でここへ来よう!」

「ごめんねオルゲル、なんか……」

「いいよエッカ。あれ以上粘っても、どうせ結果は同じだったし。あ、そうだ、トイレ終わったら家に電話しようよ。泊まらずにごはん食べて適当に帰るって。今かけないと忘れちゃいそうだから、トイレ終わったらすぐ電話探そう」

「そうだね。あとね、兄貴、今日泊まるんだ。ここじゃないけど。多分港の方に行ってる」

「そっかあ」

 待ちに待った楽しみが潰れた一方で、日頃にない平安をエッカは手にする。そういうエッカの心情は、自分がどんなに分かりたいと思っても分からないものだ、とオルゲルは思った。オルゲルにはラウルのような兄はおらず、そして初経もまだだった。


 公衆電話を探してうろうろしていると、どこからか一人の女性がやってきて、オルゲルとエッカを呼び止めた。

「お嬢ちゃんたち、ちょっと」

 一瞬きょとんとしながらも、オルゲルはすぐに気づいた。あの時、あそこにいた長い銀髪の女の人だ。

「ごめんね、いきなり声かけちゃって」

 オルゲルとエッカは曖昧な笑みを作りながら「どうかしましたか」と言った。

「さっき切符のことで何かあったようだったね。使えなくなったように聞こえたけど、そうなの?」

 そうなんです、と言ってオルゲルは経緯を説明した。説明しながらまた怒りを思い出して興奮してしまう。

「ほんと、ひどいでしょ?」

「そりゃ災難だったね」

 オルゲルは咄嗟にいやなものを感じた。口では災難だったねと言いながら、彼女の目はオルゲルたちに少しも同情的であるように見えなかったからだ。辺りはまだ明るかったので、この年長者の瞳の色もはっきりと見えた。彼女の銀髪のような白髪にうっすらと墨をさしたような灰色だった。冷たく感じるのはきっとこの瞳の色のせいだとオルゲルは思った。

「ああそれでね、呼び止めちゃったのはまあ、こっちも泊まりの切符は持ってるんだけど、もう帰るところでね。まあよかったらあんたたちにって。一応女性エリアだよ」

 オルゲルもエッカも「ええっ」と言ったきり、曖昧な表情をするしかなかった。

「あらま。こっちが思ってるほど、ありがたくもない話だったかね」

「いえ、そういうわけじゃあ……」

「もうとっくに気分が台なしになったんで帰るってんなら、まあそれはそれだが」

 二人がすぐに答えられないでいると、彼女は手持ちの切符をぐっと差し出し、言った。

「どっちにしろ、私にはもう確実に要らない切符だ。なら、あんたらが持ってなさい。あとは好きにしていい」

 エッカが自信なさげにそれを受け取った。

「じゃ、じゃあ、いただきます」

「はい、これでよし」

 女性がすぐに立ち去ろうとしたので、オルゲルは慌てて呼び止めた。

「待ってください、あのっ。それならそれで私たちの切符をあなたに。これ、中はみんな利用できるようになってます」

「あげたんだよ? 別にそっちのはいらないよ」

 オルゲルが答えた。

「いえ、切符ないと、おばさんもうこの後何も利用できなくなっちゃいます」

 女性はオルゲルの目を見、自分の髪をつまみながらにっこりとして言った。

「おばさんじゃあないよ。私はね、おばあさん。このとおり白髪のね」

 オルゲルは顔を真っ赤にしながらすみませんと繰り返した。エッカもつられて謝った。その一方でオルゲルは女性の顔を食い入るように見た。灰色の目は一瞬どこを見ているのか分からなくなる時がある。肌につやはなく、あちこちにしわがくっきりと刻まれている。しかしそこにオルゲルは老いよりたくましさを感じた。それでいて、女性が今さっきふいと自分の白髪をつまんでみせた仕草を、オルゲルはなんだかかわいいと思った。

「私はもうなんにも見ないで帰るから。あなたたちこそ、楽しんでね」

 オルゲルとエッカは声を揃えて礼を言った。

「あと、あの、お名前はっ?」

「名前なんて、そんな」

「私オルゲル」

「私はエッカって言います」

 女性は「二人ともかわいい名前だね」と言った後、

「私はサジロ」

 と低い声で名乗り、それから軽い足取りで去っていった。


 辺りは人が大勢行き交っていた。サジロがその後すぐ一人で歩きながら、

「ま、楽しめるかね」

 と、低い声で呟いたのも、周囲の喧騒にかき消された。

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