第3話
工房の清算も済んだころ、シュテフィは娘二人を連れてボリーバンへ帰国し、ヴァンダのもとへ身を寄せた。その時点で響平が死んでから半年がすぎていた。
ヴァンダは早くから未亡人となった人で、ボリーバンのドリント市にある夫が営んでいた家具販売会社を長らく女手一つで切り盛りしていた。シュテフィが自分と同じような境遇になってしまったことを内心では嘆いたヴァンダだったが、そのようなことはさておいて、女三人なら気楽なものだと、楽しく忙しく暮らしていたものである。
オルゲルもフリューも、シュテフィが死んだ後もそれぞれの好きなことを続けた。と言って、二人とも両親を失った悲しみをぶつけるような没頭の仕方はしなかった。それとこれとは彼女たちの中で切り分けられていた。
ボリーバンで暮らすようになってから気がつけば五年、その間一度も帰ることがなかった珀花へ
自分の血の巡りようがうるさくて、オルゲルは道場でひたすら
そのうち廊下の方から声が聞こえてきた。複数の男の子たちの声だった。
(ラウルの奴もいる)
オルゲルは今口をつけている飲み物に汚いものを入れられたような気分になった。
ラウルというのは同じ道場の生徒である。オルゲルより一歳年長であり、エッカの兄だ。彼もまた選ばれて十月に月へ行く学生の一人だ。オルゲルにとって珀花行きで唯一の汚点でもあった。オルゲルはバッグからタオルを出し、使っていた軽刀を慌てて拭き始めた。
「おいっ、オルゲル! お前なにそんな恰好で稽古してんだ!」
小道場内にラウルの大声が鳴り響いた。いきなり怒鳴りつけてくるのも不愉快だったが、ラウルと一緒に来てこちらの方をにやにやしながら見ている他の連中にも腹が立った。
基本的に道場で稽古をする時は、道着に着替えなければならないということになっている。ラウルが言っているのはそういうことだ。
(そう言うお前だって稽古の合間に先生の目を盗んでジュース飲んだりしてるだろ。飲むのは水とお茶以外禁止なのに)
「今日のはただの自主練だし、ここは本道場でもない。別にいいだろ。それにもう帰る」
「だったらもっとちゃんと稽古してから帰れよ。さっき来たばっかりなんだろ」
オルゲルは道場で受付をした時のことを思い出した。名前と入ってきた時刻を記入するようになっている。ラウルの目に入ったのだろう。
「ちょっと時間潰したくて寄っただけ。悪かったね」
道具をしまって扉から出ようとしたオルゲルだったが、ラウルたちがどかなかった。
「どいてくれない?」
ラウルは足の裏を扉の側面に音を立ててつけた。師範や他の年長者が見れば絶対咎める態度だ。
「俺は先輩だぞ。その言い方はなんだ」
一つしか違わないくせに何を言ってるんだ、とオルゲルは内心で言った。
「通してください、だろ」
さっきよりもどすのきいた声だった。オルゲルはラウルを見下げた奴だと思う一方、向こうはオルゲルよりも一回り体の大きい男の子数人がかりなので、やはり恐かった。何かあったらすぐ大声をあげる心の準備をしつつ、オルゲルは「通してください」と言った。しかしラウルの足は動かない。
「こっち見て言えよ」
あんたの目を見ないで言ったことが私の間違いだったのか、と悔しがりながらオルゲルは言われたとおりにした。そこまでやって、オルゲルはやっとそこを出ることができた。
背中から彼らの喋り声が聞こえてきた。何を言ってるのかは分からなかったが、オルゲルには自分への嘲笑のように聞こえた。
(いやだ、いやだ。今日は楽しい日なんだ。あんな奴のことを考えて、意味もなくいやな気持ちになるのはやめよう)
気持ちの面でいろいろ工夫したが、一度害された気分はそうそう元には戻らなかった。
(私がどんなにいやな思いをしたところで、あいつの妹をやってるエッカに比べれば、大したことじゃない……)
(ラウルの奴さえいなければ、今だってエッカも剣を続けていたのに)
エッカのことを思うとまたよけいに気が重くなった。
一つだけ幸いがあるとすれば、オルゲルたちがこれからすごすテントにラウルは来ないという点である。月穹のドリント市内で一番賑やかなのは港のテントで、若者は特にそこへ行きたがる。が、若者が多いだけに毎年何やかやトラブルが発生するのも常だったので、大抵の女の子たちは親からも学校からも港のテントへは行かないように言われている。オルゲルもエッカも港へ行ってみたい気持ちもないわけではないが、危ない輩を避けることの方を優先している。
「まあ今は、時間潰すとこ、探さないとね」
オルゲルは辺りを見回した。
本来ならこの辺りはオルゲルぐらいの子でも一人で入れて時間を潰せるような軽食堂や喫茶店がそこそこあるのだが、月穹のおかげでみんな扉を閉めている。図書館のような公共の施設は、今日も明日も閉館だ。ラウルのせいで時間を潰し損ねたと思うと、いよいよ頭にきた。
月穹のせいで今は公園のベンチすら空いていない。
腕時計の時刻は午後二時をすぎたところだった。エッカとはテント入口の前で四時に待ち合わせることになっている。
(あ、そうだ。なんでもっと早く思いつかなかったんだろ)
オルゲルは電車で一駅行くと、ウーエテ商店街へ向かった。ここの商店街には昔から無量寿がやっている飲食店が何軒かあって、そこは月穹の日でも営業しているのである。どの店もヴァンダの行きつけであった。
オルゲルはそのうちの一軒「喫茶ル・クレ」を目指した。営業している様子が分かると、オルゲルは意気揚々と店に入った。中は混んでいたが、カウンターが一つ空いていたのでそこに座った。
一杯のカフェオレを待つ間、お気に入りのヘアピンをバッグのポケットに入れておいたのをオルゲルは思い出した。オルゲルは店の中であることも忘れて、手鏡片手に前髪をあちらへ寄せ、こちらへずらしと、一本のピンで留める位置を試行錯誤していた。
運ばれてきたカフェオレを一口飲んでほっとすると、やっと道場での不愉快なできごとが彼女の中で遠ざかり、祭りの気分が甦ってきた。
店を切り盛りしているル・クレがオルゲルに声をかけてきた。
「あら、今日はあんた一人?」
「うん。今日は十六のお祝いにって、おばあちゃんがテントの切符をくれたの。だから今夜は友達とテントに泊まるんだ!」
「あらそう。よかったわねえ。楽しんどいで」
外見は四十代後半といったところのル・クレだが、彼女はヴァンダの母親が子供のころからこの店を経営している。
「結構混んでて大変だね」
「なーに、あと三十分もすりゃみんなテントに向かうだろうから。ヘアピン似合ってるよ」
「ありがとう」
「ああそうそう、毎年この日も営業してきたけど、今年は早めに閉めることにしちゃったの。夕方の五時半までだから、よろしくね」
「そうなんだ」
「いやあ、今年は私もテントでちょっと用があってね」
「じゃ、私たち会うかも」
「どうかねえー。何しろ一つの区画でもすごく広いから」
「今まで行ったことあったの?」
ル・クレが曖昧な顔でないねえと言うとオルゲルはもったいないと言った。
「見るものいっぱいあって、すごく楽しいと思うよ! 行かなきゃ!」
そう言うオルゲルに、屈託なく「楽しみになってきた」と言ってくれる程度には、ル・クレは長い年月を生きていた。
待ち合わせ場所にあらわれたエッカは、真っ先に切符代をオルゲルに渡した。
「いいよお。今回のはうちのおばあちゃんの奢りなんだから。おばあちゃん、エッカが私と仲よくしてくれるの、ほんとにありがたいと思ってくれててさ。だからその気持ちとして」
「うん。でもお母さんがやっぱりお出ししなさいって」
「そお? うーん、分かった。おばあちゃんに渡すね」
「この席、近くにはどんな人たちが来るのかなあ」
「いい人たちだといいね」
椅子ですごす場合、隣り合わせた人たちと仲よくなって一緒に賑やかにすごすことも楽しみの一つである。もちろん、相性はあるし、酒が入ったりもするので、トラブルが発生することもあるのだが。
そんなやり取りがあってから二人にこにことテントに入場した。半券を切る前と切った後、そこで世界は変わる。何を見たわけでもないうちから、二人は声を揃えて「わーっ」と言った。ただそう言いたくなったのだ。
ここドリント市はボリーバン第二の都市であり、その市内でもオルゲルたちが入ったテントはそこそこの規模のところだ。
一歩一歩歩いて行くうちに、頭の中はどこへ最初に行くかでいっぱいになる。この日だけの移動遊園地、屋台の食べ物の匂い。泊まり客のための大浴場。親から買ってもらったお菓子を頬張りながら歩いている子供たち。他の国や地方の月穹の様子を伝える街頭テレビ。うれしい情報過多である。
テント内には要所要所に大きな時計が立っている。時刻はボリーバンのものと珀花のもの、二つが表示されている。月は珀花の地下にあるため、珀花の時刻は月の時刻なのである。
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