第2話

 オルゲルの家から徒歩で通える距離の所に剣術の道場があり、オルゲルはそこの生徒であった。今日は道場も休日になっていたが、稽古したい者は受付で伝えれば中へ入ることは許されていた。受付には、

月穹げっきゅう期間中、本道場は休みとします。稽古したい者は小道場を使用すること。使った軽刀は柄を乾拭きし、床も必ず清掃しておくこと』

 と、貼り紙がしてあった。

 稽古の際は本来なら道着に着替えなければいけないのだが、オルゲルは家を出た時の恰好のまま小道場へ入り、肩慣らしをした後、小刀しょうとうタイプと短刀タイプの軽刀けいとうを一本ずつ取り、右手には小刀、左手には短刀を握って、ひととおり型を行った。

これは珀花はっか発祥の彦郎剣げんろうけんという剣術である。珀花はボリーバン共和国の東、海を隔てた先にある島国だ。

 使用する武器は全長一メートル弱の小刀と三十センチ未満の短刀で、これらを好きに組み合わせて戦う。例えば片手に小刀ともう片方に短刀、あるいは両手に小刀一本ずつなどだ。一本だけでも構わないし、片手に一本ずつ持った上で腰にホルスターをつけてさらにもう一本提げて挑んでもよいことになっている。対戦時は両手と携帯全て合わせて四本まで許されている。

 武器は正式の試合でも練習でも、軽刀と呼ばれる模造品が使われる。刃の部分は竹製の細い芯を、綿入りの布でくるんだもので、柄の部分はプラスチック製だ。

 また練習でも試合でも、対戦の際は安全のため頭部に面を被ることになっているのだが、この面には大きなつばがついていて、このつばを刀で払うと、面も外れるようになっている。対戦においては、どちらかの面が外された時点で決まる。

 もともとは珀花の無量寿むりょうじゅに古くから伝わる剣術であったが、今ではスポーツとして人間の間でも親しまれている。世界的にはメジャーな競技ではないが、珀花では国民的スポーツだ。ボリーバンは珀花の隣ということもあって、珀花の次に彦郎剣が盛んである。

 今年は十月に人間と無量寿社会との交流事業の一つとして、人間と無量寿、双方が参加する彦郎剣の試合が催されることになっていた。と言ってもそう大規模なものではない。各国の中等学生と高等学生の彦郎剣の選手のうち選抜された者たちは全部で三十二名である。オルゲルはその若者の一人であった。ここに無量寿の剣士たちが加わるのだが、それはせいぜい数人のことである。

 しかしこのイベントが特殊なのは、初めて月で開かれるという点であった。研究者や業者など、特別な理由があって許可を得ている者以外、一般人は月へは入れない。そういう場所で小規模ながらスポーツの試合が行われるなど、前代未聞のことであった。もっともその特別さを実感しているのは道場の指導者や学校の教師たちばかりで、オルゲルたち学生にはそういった気分は薄い。

 オルゲルにとっては、きたる試合で数年ぶりに生国の土を踏むということの方が重かった。


 オルゲルはもともと珀花で生まれた珀花人であった。その珀花の首都、静海せいかいでオルゲルとフリューは生まれ育った。父響平が珀花人で、母シュテフィはボリーバン人である。

 両親は静海でオルゴール工房を営んでいた。

 響平の制作するオルゴールは、ただ箱に小さなムーブメントが入っているだけのような代物ではなかった。小さくても七十二弁のムーブメントからであり、ムーブメント周辺の木材には必ずマホガニーかくるみが用いられていた。他にはからくりが仕かけてあったり、絵画のような彫刻がほどこされていた。大きさも、一メートル立方ほどのものがごろごろある。当然ながらどれも高価であった。

 それでも彼のオリジナル作品は、国内はもとより、海外からも注文があるほど人気があった。しかし響平は年中工房にこもりきりになることを嫌い、月に二度か三度は自作のオルゴールを携えて地元の公民館で演奏会を開くことを楽しみにしていた。そのための練習に何日も潰してしまうことがしばしあったほどである。工房の職人は響平だけで、あとはシュテフィがアシスタントをしている程度の規模だったので、工房では数年先の分までの注文がいつまでも片づかなかった。

 家にはピアノが二台あった。一台は工房にあり、響平がオルゴールの音程を調整するのと、仕事の合間の気晴らしに弾くのに使っていた。

 住まいの方にあるもう一台は、オルゲルのために買われたものだった。響平にはオルゴールとピアノがあり、シュテフィはアコーディオンが弾けた。響平もシュテフィも、オルゲルが三歳になるのと同時に娘をピアノを弾く子にさせようと、あの手この手で楽器を弾けることの素晴らしさを伝え、七歳になったころには小遣いアップと引き換えに週一でピアノ教室にも通わせた。だがオルゲルはピアノというか、音楽というものを自分の両手で制することに、どうにも熱心にはなれなかった。

そんなオルゲルの背中を見て、なんとなくピアノに触れているフリューの方が、いつしかピアノに夢中になっていった。

 続けるだけは律義に続けること半年、ヴァンダのいるドリントに遊びにいった時、ヴァンダに連れられて鉄枝かなえという無量寿の役者が主役の映画を見にいった。そこで彼の刀を使った舞を見てオルゲルは彼に恋に落ちた。

 ヴァンダから鉄枝は舞の他に彦郎剣も習っていたと教えられた。彦郎剣という競技の存在はもちろん知っていたオルゲルだったが、それまで特に興味はなかった。響平もシュテフィもスポーツに関心がないので、そういう会話をすることがない。

(これだ!)

 その翌日オルゲルは響平とシュテフィにピアノをやめたい、彦郎剣を習いに行きたい、と頼みこんだ。親にミーハーなところは見せたくなかったので、鉄枝のことは言わなかった。

 シュテフィはあっさり許したのだが、響平の方がそうはいかなかった。

「なんのために二台目のピアノを買ったか、分からないじゃないか」

 響平が一体何を言いたいのか、オルゲルには分からなかった。とにかくやめさせてくれないようだと感じたオルゲルが心の中で思ったのは、

(だから、ピアノ教室はフリューが通えばいいじゃない。フリューは毎日うれしそうに弾いてるよ。あれはもうフリューのピアノだよ)

 ということだったが、オルゲルはまだそのような反論を肉声で組み立てられるほど大人にはなれていなかった。何も言えず、それでいて不満げな顔をしているしかない。

 そして響平は自分の言い分を続ける。

「そういうことじゃない、うちは家族全員楽器を弾くんだ!」

 響平は家族みんなで演奏会という構図ばかりを頭に思い描いていて、その実現を潰えさせるオルゲルの行動が許せなかった、ただそれだけの身勝手なことだったというのは今のオルゲルになら分かるが、そのころはただ、わけが分からなかった。

 シュテフィはオルゲルを響平の言いなりにさせる気などはさらさらなかったので、次の日には適当なことを言ってオルゲルと二人で出かけ、そのまま彦郎剣の道場にオルゲルを入門させた。もちろん後になって響平がそのことを知って互いに揉めることになったのだが、習い始めの彦郎剣はとにかく楽しかった。

 ピアノと違って彦郎剣は頑張れば頑張るだけ腕を上げた。ピアノをやっていたころに感じていた引け目はどこへやらであった。

 オルゲルは覚えたての彦郎剣について響平に語りたがった。どんな武器の組み合わせがどう有効か、二つ武器を持っていることで、どんなフェイントが効くか。しかし響平がそういったオルゲルの話を最後まで聞いてやることはなく、

「お父さん、そういう話、面白いと思わないんだよ」

 などと言って遮るのが常だった。しかしオルゲルもそれだけでは黙らない。

「みんな最初は剣一本だけでやって、それから何ヶ月もしてから二本持つようになるんだけど、あのね、来週から私は二本にしていいって言われたんだ! まだ二ヶ月しかやってないのにさ! でねでね、先生に前はピアノ習ってたんですって言ったら、ああだからオルゲルは両手がどちらも上手く使えるんだって誉められたよ!」

 このような言葉がよけい響平を苛立たせるのは言うまでもない。

「格闘技なんて暴力じゃないか! そもそも彦郎剣なんてのはな! 人間をいっぱい殺した無量寿の技だぞ。ピアノと一緒にするな! お前の感性に触れると俺の感性まで毒される!」

 シュテフィがたしなめた。

「ちょっと何言ってるの。子供たちが通っているような普通のスポーツ教室でしょ」

 オルゲルも一緒に反論した。

「道場の先生は、無量寿じゃないよ」

「あー、お前たちは何も分かっていない!」

 シュテフィとオルゲルをそう責めながらも響平の方とて深い考えは何もなく、五分もすれば彼は自分が何を言ったか忘れる。

 ただ、言われたオルゲルはその後庭で素振りをする時でも、よけいな感情をこめずにはいられなかった。

 オルゲルが剣を始めてから一年たつかたたないかのころ、響平に病気が見つかった。入院と工房での作業を行ったり来たりしながら、響平はこれまでどおりの生活を続けることにしがみついた。演奏会もやった。経過と共に演奏会が難しくなると、工房にこもりきりになった。

 オルゲルもフリューもそれぞれのやり方で父親を励まそうとした。フリューはピアノで響平の好きな曲をミスタッチなく弾いてやろうと懸命になった。

 一方のオルゲルは途方に暮れるしかなかった。最初は道場内の大会で一等になることを考えたが、そんなもので父が喜ぶはずはない、とむなしくなるばかりであった。

 そこで、工房でほんの小さなことでも何か手伝う、ということを考えた。しかし意を決して工房の戸の隙間から覗いた向こうの世界は、もうオルゲルが見慣れた場所ではなかった。

 響平はつらそうにしながらもムーブメントの音を整えていた。オルゲルでも覚えてしまいそうなぐらい何度も繰り返される、途切れ途切れのメロディ。その中でシュテフィは別の作業机に座ってボックスにニスを塗っている。

(お母さん……)

(お母さんの目、背中にもついてる。背中でお父さんが大丈夫か見ている)

 オルゲルは足音をたてずにその場から遠のいた。

 その後オルゲルは道場内の男女混合の勝ち抜き戦で、一つ上の学年の子相手にも勝ってみせるという成果をあげた。しかしこの成功を、家族に話す気にはなれなかった。道場は家から自転車で行ける距離にあって、もうそのころは一人で通っていたので、オルゲルが何も言わなければ、家族の誰も彼女の剣の成績を知ることはないのであった。

 響平が死ぬと、響平の両親はもともと自分の息子とシュテフィの結婚に不承知であったこともあり、シュテフィたちからあてにされることを迷惑がった。シュテフィは自分が働いてなんとか静海で娘二人を養っていくことも考えたが、自分が何かの拍子に倒れた場合のことを考えずにはいられなかった。

「友達と離れるのは悪いと思っている。でももし私がちょっとあんたたちの面倒をみられなくなるようなことになったら……、やっぱりおばあちゃんと暮らした方がいい」

「ドリントではね、おばあちゃん家の近くに彦郎剣の道場がある。フリューが通えるようなピアノ教室も探したらあった。あんたたちには、『行く』って言って欲しい」

 オルゲルとフリューは、痛みを覚えながらもシュテフィの申し出に従うばかりであった。

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