オルゲルと不実李(ならずのすもも)
猪鹿珠
第1話
おはようございます。九月十六日、三〇〇八年の
町の様子を眺めておりますと、やはり皆さん、空の様子が気になるようですね。
月穹の間は交通事故が多発する日でもありますから、つい上が気になるのは分かりますが、身のまわりにお気をつけて行動ください。
明日はほとんどの病院が閉まっていると思いますので、若い方でも無理な姿勢を続けないよう、
一階のラジオの声が二階にあるオルゲルの自室にもはっきりと聞こえてくる。ヴァンダは年のせいで耳が遠くなっていて、ラジオの音量は上がる一方だ。
待ちわびた日のはじまりを告げる声に、オルゲルの目は完全に覚醒し、ベッドからさっと起きるとカーテンを勢いよく開けた。
全世界の人々が朝から空を気にしている。日没と引き換えに、空一面に薄明るい大地が映るさまを、ただ待っている。全人類の視線に貫かれても、空に穴があくわけではない。今日これから起こるのは、ただそういう自然現象だ。
しかし今日は天気が不安定なようで、オルゲルは朝から気が気でない。
家から学校へ向かうまでの間は日差しも強く、まだ夏が悪足掻きをしているのかとうんざりするぐらいだったのに、二時間目の授業が始まるころには空は鈍色の雲にすっかり覆われ、そこから大粒の雨が降りそそいだ。それが結局三十分ばかりでまた元の明るい青空に戻っていたのだが、太陽の眩しさとは裏腹に、今度は冷たい風が教室の中を吹き抜け、机上の本のページを荒々しくめくっていった。
昨日美容院で切り揃えてもらったばかりのオルゲルの亜麻色の髪も風でぐしゃぐしゃにされ、唇に絡みついてきた。思わず「ぺっ」とやりたくなった。
窓際の席の生徒たちが自然と窓を閉めていった。
「こらこら、こっちを見ろ。お前ら、月穹は日暮れにならなきゃ出てこないぞ。授業はまだ昼まではあるんだ、今はこっちを見ろ」
教室の面々を眺めながら教師はそう言って苦笑した。
「天気は月穹に関係ない。まあ、雲がない方が多少は見やすいだろうがな。それ、続きを……。オルゲル!」
突然名前を呼ばれて、オルゲルは驚いて前を向いた。口ではすぐにすみませんとオルゲルは言った。
(雨……、降るなら今のうちにうんと降って、夜は雲一つなしだったら最高なんだけど)
オルゲルは教師の目を盗んで空をちらりと見た。雨と強風に磨かれてか、空はいっそう澄んだ色を見せている。しかしそれがいつまで続くか分からない。
心の目では月の風景を見ている。あと数時間後、今夜には世界中の空に現に映ることになる。
(今年は月の
数百年から千年、あるいはそれ以上の寿命を持つ人間たちがいる。彼らは無量寿と呼ばれていた。無量寿は今の人間の遠い祖先であり、かつての社会では人間の上位に存在していた。
だが今から百年前、人間たちが蜂起して、無量寿たちを地上から追い払った。居場所を奪われた無量寿たちが逃げ延びた先は、人間不在の広大な地底世界であった。
そこはかつて無量寿が彼らの築いた社会の中で、流刑地として用いた地でもある。
この地底世界は「月」といった。
現代の月は一般人は基本的に立ち入ることができないようになっている。
だが一年に一度だけ、地上の空にその内部のありさまを見せる。
光と空間を越えて地上の空一帯に月の内部が映し出されるその現象は月穹と呼ばれた。
時差などもあるので月穹の発生は全世界同時同日とはいかないが、祭りを催してこの現象を楽しむのが世界のならいである。
月穹のためにこの日はどこの職場も学校も午後は休みである。放課後オルゲルは、級友のエッカと共に停車場で路面電車を待っていた。停車場はいつもの帰路と違って、人がずいぶんと並んでいた。学校も大人の職場も同じタイミングで終わるので混んでしまうのだ。
次ので乗れるかなあとエッカが言うとオルゲルは、
「私、ここでじっと待っているのがもうすでにいや!」
と、頬を紅潮させて言った。
「今からあんまり興奮してると、向こうに行って椅子に座った途端、寝ちゃうかもよ。あの椅子、そもそもベッドみたいに背中が後ろに倒れてるし」
「そんなこと言ったって、この興奮を我慢する力は、もう学校で使い果たしちゃったよ」
「早いなあ」
待っている電車はなかなか来なかった。このラッシュでは、どの停車場でも人の乗り降りがせわしない。
「でもオルゲル、お昼食べたら道場に寄ってから行くんでしょ? だったらそこで発散しておいて。でもそれもほどほどにね」
「うん」
やがてまた午前中のように急に曇りだしたと思ったら、雨が降った。オルゲルたちは停車場の屋根の下にいたので無事だったが、行列の端にいる人たちは、苦い顔をした。
「これは合羽を持っていった方がいいね。よかった、去年キャンプ用の買っておいて」
「私は普通の合羽しか持ってないなあ」
「下に着る物をたくさん持っていけば大丈夫だよ」
「うーん……」
月穹では日が陰っていくにつれ、空一面に夜空や星ではなく月の内部が天井画のように現れる。そして翌朝、日が昇るにつれ月の風景は次第に霞んでいき、その日の南中を境にいよいよ霞んでいって、午後の三時か四時ごろにはほぼ視認は不可能となる。このような現象が起こる原因については、いまだ解明はされていない。
月の中であれば何もかもが地上の空に映るというものではなく、あくまで月における陸地の様子が見えるだけである。例えば、月にある建物の中まで映し出されたりはしない。なんの変哲もない景色が映るだけじゃないかと、中にはつまらながる者もいるが、それでも一年に一度だけ空でこのような現象が起こるというのは、地上の人々にとって祭りとして楽しむのに十分なものであった。
月穹は毎年この日に起こる、と決まっているわけではない。日没後、東の空にネノホシという通称の一等星が観測できてから二十四日後に起こる、とされている。それは大体九月の半ばごろにあたり、夏から月穹に合わせて観測場所を設けたり、その他一泊くつろげるだけの場所や、見物客を退屈させないための様々な仕掛けを築いていく光景が、世界中で見られる。
オルゲルが帰宅すると、テーブルでは一歳年下の妹フリューが先に昼食を食べていた。キッチンの引き出しにはまとまった量のパンがいつもしまってあり、朝と昼はめいめいが勝手に出して切り、冷蔵庫にしまってあるもの、バターやジャムを塗ったり、ハムや漬物などを挟んで食べる。
「ああ、おかえり。あ、そこの切ってあるパン、使っていいよ」
「ありがとー。フリューはもう大分食べちゃった?」
「なんで? あ、炒り卵作るの?」
オルゲルは自分で作った半熟の炒り卵のできたてをパンに挟んで食べるのが好きだった。
「うん。あんたも欲しけりゃその分も作るよ」
「そうするだろうと思ったから、食べるの制限しながら待ってた!」
「あはは、そうなんだ」
「なかなか、オルゲルみたいに上手には作れないよ」
「油ひいて、塩もケチャップも適当にやってるだけなんだけどなあ。あれ、おばあちゃんはもう食べちゃったの?」
「おばあちゃんは工場で食べてるって。やっぱり忙しいんだ」
「私、絶対、月穹と関係ある仕事をしてる人とは結婚しないな」
オルゲルがそう言うと、フリューも笑って「だよねえ」と同意した。
オルゲルがフライパンで卵を炒めていると、フリューが覗いてきて、少ないと不平を言った。
「だってえ。ここでたくさん食べたら、向こうに行った時、おいしいものが食べられないもん」
オルゲルがそう言った途端、フリューの眉毛と口の端がかっと上がった。
「私は食べたい!」
オルゲルはしまったと思った。フリューは今夜置いてけぼりなのだ。
毎年、空き地や広場の類には多数の寝椅子が設置されるものだが、その中には泊まれるようになっている所もある。それが「月穹のテント」という施設だ。広大な土地をテントにするような布を垂れ幕にして囲い、そこに寝椅子を並べた場所である。お金のある者は、広いベランダやテラスのついたホテルを取るが、一般人のほとんどが利用するのはこのテントだ。
寝椅子のある敷地は客層によって区分けされている。子連れ向け、女性向け、それ以外。それぞれの区画において、指定席と自由席とがあり、月穹の半年前から予約が始まる。
月穹のテントは十六歳以上であれば、保護者同伴でなくても利用してよいことになっている。オルゲルの祖母ヴァンダは、オルゲルが十六になったお祝いに、家から電車で二駅先にある町のテントの切符をエッカの分も一緒に買ってくれた。
一方、妹のフリューはまだ十五なので、大人の誰かと一緒でなければテントを利用することはできない。ヴァンダと一緒に行けばいいものだが、ヴァンダにとって月穹の前後は、観覧用の寝椅子の販売のピークでもあるので、出かけるゆとりはないのだ。
フリューのふくれっ面を思い出すにつれ、オルゲルは来年は何がなんでも自分、エッカ、フリューの三人でテントですごしたいと思うばかりだった。その時に備えて自分もバイトをして少しでも足しにしたいと思っている。
お気に入りのスカートをはいて家を出る前に、オルゲルはこっそりと居間に寄った。中に入ると金木犀の香りを浴びることになる。居間の奥にはオルゲルの背丈ほどの棚があった。扉は基本的に開け放たれていて、中に庭の金木犀の枝が、水を入れた小瓶に差してあった。花をたっぷりとつけた枝の後ろには写真立てが三つ並んでいる。一つは祖父トーステンのもので、写っている姿は若い。もう一つはオルゲルの
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