第3話『大根少女と、島の祭り』


 その日を境に、衣緒いおは毎日のように家にやってくるようになった。


 いや、やってくる……というよりは、いつの間にかいる……という表現のほうが正しいかもしれない。


 朝起きるとすでに台所に立っていたり、夕方に外出先から戻ると、さも当然のように居間でくつろいでいたりする。


 玄関の鍵が壊れているのもあるが、まさに神出鬼没。シャワー中に扉の向こうから話しかけられた時は、心臓が止まるかと思った。


 ……そんなこんなで、衣緒は今日も俺の家に入り浸っていた。


「ところで、涼介りょうすけさんは結婚しないんですか」


「唐突だな」


 昼過ぎにやってきた衣緒とちゃぶ台を挟み、おやつ代わりのキュウリをかじっていると、突然そんな話題を振られた。


「だって、これからずっとこの島に住むんでしょう? それなら、お嫁さんの一人や二人……」


「……いや、嫁さんは二人以上いちゃ駄目だろ。それ以前に、俺は一時的に滞在しているだけだ。普段は大阪の出版社で働いてる」


「わ、編集者さんなんだ。かっこいい」


「そんな大それたもんじゃない」


「でも編集者さんなんですよね? 私、こっそり書いてる小説があって」


「目を輝かせてるとこ悪いが、見ないからな」


「ちぇー。自信作なのにー」


 わざとらしく言って、ポリポリとキュウリをかじる。冗談なのか本気なのか、イマイチわからない。


 一応編集者の肩書はもらっているが、正直俺はお荷物社員だ。そうでなければ、二週間もの休暇申請が簡単に通るはずがない。


「それより、衣緒こそ学校はどうした。お前、どう見ても学生だろ」


 今日の衣緒はジャージではなく、セーラー服を着ていた。


 髪もポニーテールに結われ、頭の動きに合わせて左右に揺れている。


「今はテスト期間中で、学校は午前中で終わりなんです」


「なら、帰って勉強しろよ。親御さんも心配するだろ」


「いいんですよ。前にも言いましたが、うちの親、ほーにん主義ですから」


 どこか憂いを秘めた表情で、彼女は天井を見る。


 いくら放任主義だとしても、自分の娘が若い男のところに出入りしていると知ったら、親として止めそうなものだが。


「あ、そういえば、もうすぐこの島でお祭りがあるんですよ」


「祭り? この時期にか?」


 その横顔をなんとなしに眺めていると、衣緒が思い出したように言った。


「ですです。毎年春と秋に、島にたくさんの蝶がやってくるんですが、その蝶たちに由来する祭りです」


「……蝶?」


「アサギマダラって蝶ですが、知らないですか?」


「……知らないな」


「はー、それでもこの島の出身ですか」


「俺は祖父の家に遊びに来ていただけだ。もう、ずいぶんと昔の話だぞ」


 しかも、決まって夏休みと正月。そのなんとかいう蝶がやって来るのが春と秋なら、まずお目にかかったことはないはずだ。


「まるで渡り鳥のように群れで日本各地を旅する、不思議な蝶なんです。その名前の通り、きれいな浅葱色あさぎいろの羽を持っているんですよ」


「浅葱色?」


「神社で宮司ぐうじさんが着ている、緑色っぽいはかまの色です」


「ああ……」


 言われて、なんとなく想像がついた。


 そんな色の羽を持つ蝶は珍しいし、それが大群で飛び交うさまは、さぞかし美しいだろう。


「……そういや、蝶の話で一つ思い出したことがある」


「何ですか?」


「仏教における蝶は、極楽浄土に魂を運んでくれる神聖な存在らしいぞ」


「……ちょっとやめてくださいよ。行き先は極楽ですが、まるで死に神じゃないですか。縁起でもない」


「外国の話になるが、蝶には死者の魂が宿っているとも言われているな」


「だからやめてくださいって。急にオカルトっぽくなりましたね。夏にはまだ早いですが、怖い話、しましょうか?」


「しなくていい。ところで、その祭りとやらは屋台は出るのか?」


「出ないですよ。本当に小さな、島民だけのお祭りですから」


「出ないのか……」


 屋台グルメといえば、イカ焼きに焼きもろこし、焼き鳥と、島ではお目にかかれない代物ばかりだ。実のところ、少しだけ期待していたのだが。


「屋台なんてなくても、島の伝統芸能ですし、一見の価値ありますって」


 衣緒はちゃぶ台に両手をつき、前のめりになる。


「せ、迫るな迫るな。それで、祭りはいつなんだ?」


「明後日の日曜日です」


 俺は壁にかけられたカレンダーに視線を送る。休暇の範囲内だし、特に問題はなさそうだ。


「涼介さん、絶対見に来てくださいね? 約束ですよ?」


「わかったわかった。その代わり、今から帰ってテスト勉強しろ」


「ちぇー。わかりましたよー」


 彼女は口を尖らせながら立ち上がると、玄関へと向かっていく。


 俺は見送ろうと、その後をゆっくりと追いかけるも、玄関口に彼女の姿はなかった。


 ……挨拶もせずに帰ったのか。相変わらず、自由な奴だな。


 ◇


 祭りの当日。俺は山の中腹にある広場にやってきていた。


 祭りというくらいだから、てっきり島の神社でやるものと思っていたが、まさかこんな山の中だとは。


 夜が明けたばかりにもかかわらず、見物人は多かった。服装からして、そのほとんどが島民のようだ。


 そんな見物人たちから聞き漏れる話を要約すると、この祭りはアサギマダラの群れの中で、複数人の巫女が舞を披露する……といった内容らしい。


 祭りが早朝に行われる理由は、この蝶たちが暑さに弱く、今の時間帯にしか森から出てこないからだそうだ。


 やがて、どこからともなく厳かな音楽が聞こえてくる。


 それに耳を傾けていると、次に複数人の巫女が現れて大きな輪を作り、一糸乱れぬ舞を披露する。周囲を舞う無数の蝶たちと相まって、息をするのも忘れそうなほど幻想的な光景だった。


 その時、巫女たちの輪の中心に、もう一人巫女が立っていることに気づく。


「……衣緒じゃないか」


 そこにいたのは、紛れもない衣緒だった。


 あれだけしつこく見物に来るように言ったわりに、本人の姿がないと不思議に思っていたが……出演するから、見に来いという意味だったのか。


 中央で舞う衣緒は、他の巫女たちとは一線を画す豪華な衣装を身にまとっていて、その演舞も激しいものだった。


 普段は大根を配っているが、大根役者というわけではないようだ。


 その右手には神楽鈴かぐらすずのような道具が握られていて、その鈴の音に操られるように、浅葱色の蝶たちも舞い踊る。


 不思議な光景だが、あの道具に蝶が好む香りでも染み込ませてあるのだろうか。


 その踊りに見惚れていると、衣緒が明らかに俺に視線を送りながら、わずかに微笑んだ。


 次の瞬間、強い風が吹いて、俺は思わず目をつぶる。


 そして目を開けた時には、そこにいたはずの衣緒の姿は消えてしまっていた。


 それと時を同じくして演舞が終了したらしく、観客たちから大きな拍手が送られるも……俺は目の前で起こった出来事が信じられず、ただただ呆けていた。


 ……その翌日から、衣緒は家にやってこなくなった。

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