§5

「んー……やっと非番か。3日間の休暇が終わったら、また7日間城に缶詰だからな。この機会にゆっくりと休ませて貰うか」

「私がお城に来た頃は、騎士の方も、もう少し緩やかな勤務だったと思うのですが」

「情勢が変わった、って事だろうな。蟲化の勢いもだいぶ強くなって来てるし、斬っても斬ってもキリがねぇよ、ったく」

 出来れば、斬らずに解決して欲しい……それがノアの望みであった。しかし、退治する以外の手段が愛息の血による浄化しか無い以上、騎士団による対処も止むを得ない。胸が締め付けられる思いであったが、仕方が無い。それに彼らとて好きで蟲を斬っている訳では無い……それが分かっていたから、ノアも強く意見は出来ないのだった。

「さ、ここが俺の家だ。狭くて汚ねぇボロ屋だが、入ってくれよ」

 はにかみながら、ウィルはドアを開けてノアを招き入れた。そしてダイニング兼リビングである、唯一の応接間に彼女を案内したのだが、そこで彼らは信じられない光景を目の当たりにする事となった。既に身体の一部が蟲に変化している女性が、横倒しになって呻いているではないか。しかもその女性は……

「お、お袋!!」

「……え!?」

 ウィルは慌ててその女性――自分の母を抱き寄せ、意識の有無を確認した。すると彼女は、重そうに瞼を開き、顔をウィルの方に向けた。そして口を動かし、何かを訴えようとしていた。まだ辛うじて意思の疎通は可能であるらしい。

「ウィ……ル……触っちゃいけない……あなた……まで……」

「いい、喋るな! ……クッ、得体の知れねぇ毒霧め! マジで遠慮がねぇらしいぜ!」

「待っていて、ウィル! 直ぐにランスロットを……」

「よせ! 奴の血は、この世界の只一つの希望なんだ。一滴だって無駄には出来ねぇ……そいつはノアだって充分に分かってる筈だろ?」

 でも……と食い下がるノアを、ウィルは俯きながら制した。その噛み締めた唇から一筋の赤い筋が伸びた。それを拭いながら、彼は悔しそうに吐き捨てた。これを飲ませて効くのなら、幾らでも飲ませてやるのに……と。

(ウィル……貴方もやはり、心の奥底に眠る気持ちはあの子と同じなのね。本当に優しい人……)

 そう考えている間にも、母親の身体はどんどん蝕まれて行った。あと数分で意識も支配され、完全に蟲化してしまうだろう。

「ウィル……最後のお願いを……聞いて……私は……人間のまま……天に召されたい……」

「……!! 俺に、トドメを刺せと?」

「それが……出来るのは……あなた……だけ……」

 絞り出すように発せられる声も、次第に力が弱くなり、徐々に聞き取り辛くなっていった。もう時間が無い事を、彼女は悟っているのだろう。

「ノア……俺は一体、どうしたらいい!?」

「……!! 言えない……私には何も……ごめんなさい!!」

 既に涙を零し、俯くノアは……本当に掛けてやれる言葉が無かったのだろう。申し訳なさそうに首を横に振るだけだった。

「ウィ…………ル……」

 母親は最後の力を振り絞り、ウィルの手を剣の柄へと導いた。急いで、という……彼女からの、最後の願いだったのだろう。

「……1秒だけ、我慢しろよ。直ぐに済む」

 剣の鯉口を切る音が聞こえ、直後に空を切り裂く音が室内に響き渡った。そして次の瞬間、母親の首は胴から離れ、ゴロリと真下に転げ落ちた。既に下半身は蟲化してカサカサと動いていたが、脳からの指令が届かなくなると、まだ人の面影を残した上半身に少し遅れてその動きを止めた。鮮血が壁や窓を赤く染め、ウィル自身も腕に返り血を浴びていた。

「……間に合った……のか? なぁ……お袋」

 そう問い掛けながら、ウィルは両手で母親の首を抱き止めた。瞑目した彼女の顔は、さも笑っているかのように穏やかだった。


**********


 亡骸を簡素な棺に納め、小さな墓標を立てて祈りを捧げ、ささやかな葬儀は終了した。牧師は『幸あらん事を』と最後に告げ、去って行った。そこに残されたのは真新しい墓標とウィル、そして傍らで彼を見守るノアだけであった。

「なぁ、ノア。お袋が、あのサザーランドの妹だって事は、話したよな?」

「ええ。貴方と出会ったばかりの頃に聞いたわ」

「縁を切られた間柄とは言え、肉親には違いねぇ筈だ。なのに、花の一輪すら添えに来ねぇ。冷てぇ野郎だと思わねぇか?」

 その問いに、ノアは黙って頷き……そして『彼は、可哀想なお人です』と一言添えた。

 ポツリ、ポツリ……水滴が落ちて来た。ノアは『涙?』と思ったが、自分は泣いていない。ウィルもその真新しい墓標に目を向けたままジッとしているが、涙は流していない。やがて、大粒の雨が一面を覆い、瞬時にして彼の身体と小さな墓標を洗い始めた。

「ウィル、風邪をひいてしまうわ」

「ノア、俺は……俺の本当の名は、ウィルフレッド・サザーランドって云うんだけどよ。今日ここで、サザーランドの名を捨てるぜ。親父は俺が生まれる前に死んじまったらしいんだがよ。勇ましい、男の中の男だったそうだ。だから俺は、たった今から親父の名を継いで、こう名乗る。ウィルフレッド・マクラーレンってな!」

 剣を抜き、高々と掲げながら彼は宣言した。その顔は強い雨粒に遮られて良く見えなかったが、その瞳はしっかりと空を睨み、口を真一文字に結んでいた。きっとそれは、過去との決別を決意した男の顔だったに違いない。

「……すまねぇ、お袋。アンタの生まれを恨む訳じゃねぇが、俺はあの男を……サザーランドを絶対に許せねぇんだ。けどな、俺がアンタの子だって事は、未来永劫変わる事はねぇ。だから、安心……」

「ウィル……こういう時ぐらい、涙を見せたって……誰も笑いはしないわ」

「……本当か? 笑わねぇって……約束、してくれるか?」

「神に誓って」

「……アンタ自身が、女神じゃねぇかよ」

 そう言って、ウィルは泣き笑いの表情を彼女に向けながら、剣を収めてノアの前に崩れ落ちた。そして泣いた。大声で泣いた。俺はお袋をこの手に掛けた、咎人なんだ……そう嘆きながら。だが、ノアはその発言を優しく否定した。

「貴方は咎人なんかじゃない。お母様の最後の望みを聞き届けてあげた、聖者よ。間違いないわ」

 その声が、彼に届いたかどうかは分からない。しかし、今この瞬間……新たなる修羅がひとり誕生した事は、間違いなかった。

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