§7
石で作られた床と壁、粗末なベッドに薄い毛布。そして通路との間には鉄格子……女神の力を以てすれば、このような原始的な障壁はいとも容易く摺り抜け、脱出する事が出来る。誰も傷付けず、外に出る事は簡単なのだ。だが、それが出来ない理由があった。彼女をここまで連れて来た大臣、エインズワースの首が掛かっているからである。こうして見えない鎖に繋がれ、ノアは狭い窓から天を仰ぐ毎日を過ごしていた。時折聞こえて来る、騎士たちの『女神の血は非常に高価で、自分たちにはとても買える物ではない』といった会話に胸を痛めながら……
そして今日も血を採られ、青白い顔になりながら二人の騎士に連行されて地下牢に戻って来たノアは、途中でボロボロに傷付いた少年を拘束し、連行して来る騎士の姿を認めた。
「そこの少年! どうしたのです? そんなに傷付いて」
「……お人好しの女神様、か。アンタの方こそ大丈夫なのかい? そんなに青い顔をして」
「控えよ、ウィル!」
その叱咤の声と同時に、ウィルと呼ばれた少年は銃剣の台尻で殴打され、苦悶の表情を浮かべていた。見たところ、年の頃は5~6歳と言ったところか。未だ幼い、ごく普通の腕白坊主といった風体である。そんな彼が、何故このような場所に囚われ、乱暴な扱いを受けるのだろう……と、ノアは疑問に思った。
「…………」
「何だ、その目は!」
ウィルに睨み返された騎士が、それに対する報復として、また彼を殴打していた。ノアはそれを許す事が出来ず、思わず声を荒げた。
「おやめなさい! それが民を守るべき、騎士の行いですか!」
「罪を犯した者に、年齢は関係ないのですよ」
騎士は冷たく言い放つと、彼をノアの牢獄の正面に閉じ込め、去って行った。こうしてひょんな事から話し相手を得たノアは、今までの寒く寂しいだけの生活にポッと火が灯ったような気持ちになっていた。
向かい同士の牢獄に入れられた二人は、最初のうちはノアの空回りで時間を浪費した。しかし突っ張っているとは言え、相手は少年。心を開かせるのにさほど時間は掛からず、次第に打ち解けて行った。
「では、貴方はあの王の甥……それが何故、このような扱いを?」
「母ちゃんが、平民の男と駆け落ちしたからさ。お蔭で王族から追放された、俺はそう聞いてる。だから王宮の連中を見ると腹が立つのさ、それで警備の騎士に石をぶつけてやったのさ。そうしたら、コレだよ」
そう言って、ウィル少年は背中を捲り、青痣となった傷跡を晒した。宙吊りにされ、竹の鞭で叩かれた跡だという。
「……っと、俺はすぐに出られるだろうけどよ、アンタはどうなるんだい、女神様」
「ノアでいいわ、少年。私は大丈夫、見た目より強いのよ?」
「その、少年……ってのは止めてくれ。ウィルって言う名前がある」
「あ、あら、御免なさい。じゃあ、ウィル君でいいかしら?」
「……少年、じゃなきゃ何でもいいよ」
極上の笑みを向けられ、ウィルは思わず頬を紅潮させてしまった。ノアの微笑みは、これから思春期を迎える少年の淡い異性への憧れに、いとも容易く火を点けたのであった。
**********
捕えられて、7日が経過したその夜。ウィルは向かいの牢をずっと見ていたが、ノアは遂に朝まで戻って来なかった。そして明け方、微睡の中を泳いでいると、ガチャン! という金属音がして、その後に革靴が石廊を叩く音が木霊した。彼が漸く重い瞼をこじ開けると、そこには背を向けた格好のノアが居た。彼は思わず彼女に声を掛けた、が……
「見ないで! ……今の私は汚れているの……お願いだから見ないで……」
「な、何が一体……どうして泣いてるんだよ、ノア!」
その問いに、彼女は応えなかった。それから3日間、ノアはずっと塞ぎ込んだ様子だった。その様はとても女神とは思えない、まるで檻に入れられた子ウサギのようだった。
やがてウィルは10日間の禁固刑を終え、釈放されて行った。そして1年あまりが過ぎ、騎士に暴言を吐いて再び捕えられたウィルが投獄された時、やはりノアはそこに居た。だが、その手には赤子が抱かれていた……
その日から更に5年の月日が流れた。12歳となったウィルは騎士団に志願、その類い稀な運動神経と打たれ強さを買われ、見事に合格して最年少の騎士となった。あれだけ騎士を嫌っていた彼が何故この道を選んだか、それは至極簡単な理由だった。蟲を倒せばノアが血を捧げる理由も無くなる、ただそれだけの事だった。『惚れた女を護りたい』という、男の純情だったのだ。
しかし、間もなく王族に近しい貴族達にも蟲化の波が押し寄せ、動転したサザーランドは一気に多量の血をノアから搾取した。それが原因で彼女が息を引き取ったのは、その日の夜の事だった。報せを聞いたウィルは悲嘆に暮れ、程なくその感情は激怒へと変化した。この手でサザーランドの首を跳ねてやると叫んで剣を携え、王の間へと向かう途中で仲間によって取り押さえられ、危うく処罰を受けて除隊処分になるところを回避できたのだった。
だが、そこにもう一人、静かに怒りの炎を燃やす少年が居た。そう、ノアの愛息――ランスロットである。彼はその時5歳の少年、何の力も持たない弱い立場だった。しかしその心の奥底には、サザーランドに対する憎悪の炎が確実に灯っていたのである。
その日から12年の月日が流れ、奇妙な縁で結ばれた2人の少年は共に成長していた。ウィルはその力を以て騎士団の団長にまでのし上がり、立派な青年となっていた。そしてランスロットは……亡き母の遺志を継ぎ、血を捧ぐ事で民を護る役を、自ら引き受けていたのだった。
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