第13話 心臓
登りの道にもう一つの影が表れたのはその瞬間だった。
「雷っ!」
叫ぶ雪羅に絶望の色を乗せて真冬が振り返った。
一点から沸いた不吉な色の雲が、紫の雪雲が大空に広がる。
二人の対峙が、強大な力の発現が吹雪を呼びおこす。次の瞬間、雪山の斜面を真冬が駆けた。美しい白金の髪を風になびかせて。
二つの影が混ざる刹那、寸前までいた場所に巨大な樹氷が生まれるのを視界に納めて、真冬の体が宙を舞った。
怒りよりも悲しみ。悲しみよりも絶望をその瞳に乗せて真冬の叫びが木霊する。
「なんでっ。なんであなたなのっ!」
真冬を人間の世界へ逃がしてくれた最愛の人。いや、最愛の人だった。
苦渋に満ちた真冬の目線の先。短い白金の髪を掻き揚げ、目の前から追い払った男もまた苦い顔を浮かべていた。雷から聞いただろうと言わんばかりに。
「雪羅っ!」
「真冬。気持ちは分かる。だが、雪の精全体の種と数人の子供の命、一つを選べと言われたらお前にも分かるはずだ。どちらを優先させなければならないかを」
話しながら掌に生み出した雹を、飛び退った真冬へと雪羅が放つ。
頬の皮一枚を切り裂いて、雪の中へと消えていった雹には一瞥もくれずに、奥歯をぎりっと噛み締めて真冬は相手を睨み返した。流れ出る青い血が一筋の雫となって雪の斜面を染めていく。
「世界と大事な子を天秤にかけろですって? もうかけてるわ。決まっているじゃない。私は、私から子供を奪う世界なんかいらない!」
一旦伏せた目を決意に滲ませて雪羅が吼えた。自身の子を世界へと捧げる為か。それとも真冬と二人で生きていくはずの世界を守る為か。
「手足をもいででも連れて帰る。小雪もな」
「やぁっ」
岩場の陰でか細い悲鳴があがる。両耳に手をあて、思わず声を漏らした小雪の声に震えが走っている。その音が再び二人の走り出す切っ掛けを作りだしたのだった。
せまる三つの雹が真冬の掲げた氷の膜に逸らされる。膜を形成した力の波動、その余波が空気中の水分を凍らせながら雪羅へと向かった。刹那。疾走する二人の間でカミソリ状の薄氷が砕け散っていた。
一瞬の間の攻防。
冷たい汗を流しているのは身篭っている真冬だけ。吐く息が荒くなる。だが真冬に大きな痛手を与えないように雪羅もまた力を加減しているようだった。
遣る瀬無さが表情に滲む。
「勝てないよ。勝てないっ」
雪羅からの雹が小雪に向かう。弱音を吐きつつも真冬は小雪をその体で庇っていた。
「ひっ……ね、姉様」
小雪を抱きしめて真冬の肩口がぱっくりと裂ける。青い血潮が滴り落ちていく。真冬に抱きしめられた小雪の顔が喜びに――。
真冬の顔が苦しみに歪む。涙で視界が塞がる。小雪の背に廻した片手が震えた。そして――。
青い血が滴り落ちる。とめどなく。とめどもなく。
真冬を抱きしめようとした小雪の両手が震えて止まる。喜びの表情が驚愕へ、次いで悲しみへと変わった。
そしてその瞳に誰かを映すことがなくなるのに、あまり時間はかからなかった。
錯乱した真冬にはこれしか残されていなかった。しかしその行動こそが自身の心をも微塵に打ち砕いていた。大切な小雪の存在と供に。
小雪の両手がだらんとぶら下がる。最後の最後で零れ落ちた涙の一滴と共に。
「ぁぁぁーー!」
真っ青な血の涙を流しながら、背中に突き入れた手刀に力を込め、真冬は心臓を抉り出した。声にならない叫び声、嘆きと共に掲げられた心臓が天に向けられる。大人になった時に小雪の体を駆け巡るはずだった、膨大な力の詰まった心臓を。
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