嚢中之錐
三鹿ショート
嚢中之錐
彼女は、何をやっても駄目な人間だった。
昨日の食事も憶えていないほどに頭が悪く、運動能力は子どもに劣る。
私ならば、あまりの情けなさに涙を流すだろうが、彼女は常に笑顔だった。
その態度が、私をさらに苛立たせた。
あまりの無能さに、人々が離れていったとしても、仕方の無い話である。
それでも、私が彼女を見捨てることはなかった。
放っておけば、碌でもない人間に彼女が騙されてしまうことが分かっていたからだ。
だが、私の仕事は、やがて消えることとなった。
彼女の美貌の価値を、多くの人間が知るところと化したためだった。
彼女がどれほど間抜けな言動に及んだとしても、その外見との差異に人々は心を奪われるようになり、その結果、彼女の人気は鰻登りだった。
私が彼女と会話をすることは無くなってしまったが、私以外の人間に見放されていた彼女が他者に必要とされる存在と化したのならば、喜ぶべきことである。
ただ、寂しさもまた、感じていた。
***
今や誰もが羨むような存在と化した彼女に対して、私は己の仕事ぶりを見た年下の上司に舌打ちをされる毎日を過ごしている。
彼女とは立場が逆転してしまったが、私に不満は無い。
私が一人で支えるよりも、多くの人間に支えられていた方が、彼女が良い生活を送ることができるからである。
そのようなことを考えながら帰宅すると、自宅の前に一人の女性が立っていた。
まさか、と私は思った。
その女性は、私が何処に住んでいるのかを知らないはずである。
同時に、わざわざその場所にやってくる理由も無いはずだ。
私が立ち尽くしていると、その女性は口元を緩めた。
「久方ぶりですね」
高級そうな衣服に身を包んでいるが、彼女のその笑みは、かつてのものと変わっていなかった。
***
散らかった室内では、彼女だけが別世界の人間に見える。
しかし、彼女は嫌悪を露わにすることなく、興味深そうに室内に目を向けていた。
珈琲を渡しながら、何故この場所にやってきたのかと問うと、
「とある取材で昔の話をしていたのですが、そこであなたのことを思い出したために、再び話をしたいと思ったのです」
だからといって、気軽に来るような場所ではない。
かつての彼女ならば問題は無かったが、今の彼女は、軽々に行動してはならないのだ。
私がそのことを伝えると、彼女は首を傾げた。
「同じようなことを事務所の人間にも言われたのですが、理解することができないのです。悪事に及んでいるわけではないはずですが、何故でしょうか」
その言葉から、彼女は今の自分の立場というものを理解していないということがよく分かった。
変わっていないその姿に安堵を覚えたが、今の彼女にとっては致命的といえるだろう。
私は彼女から事務所の連絡先を聞くと、即座に彼女がこの場所に存在しているということを伝えた。
それから彼女はしばらく上機嫌に昔話をしていたが、事務所の人間が現われると、途端に顔を顰めた。
「私と過ごす時間を、嫌っているのですか」
嫌ってはいない。
だが、幼少の時分とは状況が異なっているのだ。
ゆえに、私は彼女に対して、首肯を返した。
「私は、毎日を生きることに必死なのだ。笑みを浮かべるだけで金銭を得ることができるようなきみを見ていると、腹が立って仕方が無い。二度と姿を現さないでほしい」
事務所の人間は、私の言葉の真意に気付いているのか、申し訳なさそうに頭を下げた。
しかし、彼女はそのことに気が付くほど、賢い人間ではない。
私の言葉をそのまま受け止めたのだろう、涙を流しながら、私の頬を平手で打った。
彼女が泣いている姿を、私は初めて目にした。
***
彼女の人気は衰えることなく、その明るさは重宝されていた。
その活躍を見て、私は自分のことのように嬉しさを感じていたが、あれから彼女と会っていないために、寂しさも覚えている。
事情を知っている事務所の人間が、彼女の映画の試写会について連絡をしてくれていたものの、私がそれに応ずることはない。
彼女にとって私の存在は大きいものなのだろうが、他者にしてみれば、世間を騒がせる話題でしかない。
彼女の人気に翳りを生み出してしまう可能性が存在しているために、私が近付いてはならないのである。
多方面に影響を与えてしまう存在である自覚が彼女には存在していないことを思えば、周囲の人間が考えて行動する必要があるのだ。
それは、成長した人間としては正しい行動である。
だが、幼馴染として正しいかといえば、そうではないだろう。
画面の中で笑みを浮かべる彼女を見つめながら、私は大きく息を吐いた。
嚢中之錐 三鹿ショート @mijikashort
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