P.29 ラボ

 真白い天井が見えた。甘やかな微香が漂う。

 顔を巡らすと、ベッドサイドに沈丁花の鉢植えがあった。白に統一された部屋の中、淡いピンクだけが色彩を放っている。

 壁の一面に突然ビジョンが浮いた。山並みに懸かる雲を染めて、朝日が昇る映像だ。山荘の窓から見ているような錯覚を起こす。

 ようやく聞き取れるほどの音量でピアノソナタが流れ始めた。

 客人の覚醒を感知して、爽やかな朝を演出しているらしい。

 シュウは身を起こし、両脚を下してベッドに掛けた。

 身に着けているのは肌触りの良いローブだ。

 体内ナノマシンから時間経過を読み取る。海岸での戦闘から193時間が経過していた。まる8日ということだ。

 躰は八割方癒えていた。

 渡部と刺し違えたダメージは相当なものだった。体内ナノの自己治癒で対応できるものではない。ナノケア技術を有する施設で治療を受けたはずだ。

 ──保護してくれたのは〈Wake up!〉ではなさそうだ。

 ビジョンに向き合う壁の一部がスライドして開いた。

 真白い壁のむこうにも真白い廊下が続く。白を分断するように黒一色の女が立っていた。食事を載せたワゴンを押して入る。

 目も口も閉じた全頭マスクと、全身ボディスーツ。光沢ある布地を押し上げるラインが女性を示している。それ以外の個性は禁じられていた。

 均整のとれた無個性な女はテーブル脇にワゴンを止めた。

 優美な動作で食事が用意されてゆく。フィナンシェやクロワッサン、フルーツふんだんのヨーグルト、フレッシュサラダ。コーヒーポットは芳ばしい薫りをたてている。

「ありがたいが、食事はけっこうだ」シュウは立ち、ポットからコーヒーをカップに注いだ。立ったままで飲む。

 おそらくは点滴で、必要な栄養素は充分補給されている。それほど躰に充実感がある。味を楽しむ気分ではない。

 黒い女はシュウの言葉に応じる。給仕を中止してテーブルから離れた。

 エナメル質の布地に包まれた頭部は、視覚も聴覚も不自由はないようだ。横に進み別の壁面に掌を触れた。

 そこも音をたてずにスライドする。クローゼットが現れた。

 シュウの衣類が掛かっている。クリーニング済みできちんとプレスされている。揃えられたシューズは磨かれ光沢を放っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る