第6話 占い師

「人間至上主義」

 という発想は、鍋島の中にもあった。

 前半のお話は、実は、鍋島がどこかから探してきたSF小説に、それなりのネタがあり、そのネタを中心に、自分でも、少し書いてみた小説だった。

 しかし、そんな小説を他人に見せるのは、少し問題があった。特に家庭では、変な新興宗教に嵌っているので、

「俺まで、変なものにかぶれてしまったらどうしよう?」

 という意識があったのだ。

 そんな中で、躁鬱状態を意識するようになったのも、躁鬱がどういうものかを考えるようになったのも、自分がいろいろ小説を考えている中で、自然と浮かんできたものだったことなので、小説の内容を、

「躁鬱」

 であったり、

「人間至上主義」

 というイメージのSFチックなものであったりもした。

 それを思い浮かべた時、親が新興宗教に嵌ってしまったことを考えて、

「どっちにしようか?」

 と考えた時、意識としては、どうしても、

「消去法にしかならない」

 と感じたのだ。

 あまり突飛なことを考えてしまうと、両親が新興宗教から抜けられなくなってしまう。いざとなったら、

「俺が助けなければいけない」

 とまで思っているのに、SFや躁鬱が頭にあっては、どうすることもできないと感じたのだ。

 しかし、逆に言えば、自分がしっかりしないといけないと思い込む必要はない。何と言っても相手は得体の知れない宗教で、

「どうせ、言っていることも、しょせんは、いい加減なことしか言っていない」

 と思うのだ。

 断言してもいいと思ったほどなのだが、その理由としては、

「宗教団体、それも新興宗教となると、目的は、信者を増やすことしかないのであって、それ以外のことはすべて無駄だと思っているだろう。

 何と言っても新興宗教というと、人は多いが金はない。時間もあるようでないのかも知れない。

 そんな風に思うと、一番おタブーは、

「時間と金も無駄遣い」

 ではないかと思う。

 徹底的に合理性を図ったり、かといって、信者に疑問を持たれるようなことをしてはいけない。

 だから、そういう意味で、彼らが目指す信者獲得の基本路線は、

「人間至上主義」

 ということである。

 あの小説の場合は、

「人間以外の動物と比較して」

 という意識からか、地球外生物を意識したりしているわけだが、それが少し範囲が狭まって、いわゆる、

「自分たちの周波至上主義」

 ということになるのだろうが、いきなりそこに持っていくと、さすがに信者も、

「これは怪しい」

 と思うのではないか。

 そう考えると、まずは、

「人間というのは、他の動物よりも偉い」

 ということを考えるようになるだろう。

 しかし、前に読んだ小説とは、少しニュアンスが違っている。相手として考えるのが、神であり、人間を作ったのが神だとして、その神というものを、

「実際に創造し、自分たちを作った」

 かのようにあらわしているのは、人間であった。

 しかも、神というものの正体は分からないのだ。小説でもそのことには言及していない。言及しようにも、その信憑性がないのだった。

 それでも、人間は、神という存在を創造しなければ、存在することすらできない。

「人間の創造主は、人間が作った神だった」

 ということになり、

 まるで、

「ニワトリが先か、タマゴが先か?」

 あるいは、

「ヘビの尻尾を自分で飲み込んでいき、最後にはどうなるか?」

 という発想に似ている。

 それこそ、

「マトリョシカ人形」

 のようであり、

「合わせ鏡」

 のようでもある。

 ようするに、マトリョシカ人形も、合わせ鏡に写っている自分も、どんどん小さくなっていくのである。

「マトリョシカ人形」

 というのは、ロシアの民芸品で、人形が真ん中で割れて、中から、一回り小さな人形が出てくるというもので、それを何度か繰り返し。それぞれを取り出して、一つずつの形にすると、どんどん小さな人形ができていくというものであった。

「合わせ鏡」

 というのは、前後か左右に鏡を置いて、そこに写った自分と、さらに自分の後ろには、こちらを向いている鏡がある。そして、その鏡には、こちらを向いているため。後ろ向きの自分が写っていて、さらにそこには、またこちらの姿が写っている自分がいて……」

 というように、鏡の中に、自分と反対側の鏡に写った姿がどんどん続いて小さくなっていくのが、無限に続いているように見えるということで、

「どこか、マトリョシカ人形に似ている」

 ということであった。

 これらの二つは。

「どんどん小さくなっていく」

 ということが特徴である。

 しかし、無限に続いているわけではないのに、無限と思わせなければならない。そうなると結論として、

「限りなくゼロに近い」

 という概念の創造が不可欠であった。

 無限であるには、

「絶対にゼロになってはいけない」

 ということであり、しかし、

「どんどん小さくならなければいけない」

 という理屈もあるのだ。

 ずっと、果てしなく、

「どんどん小さくなっていくもの」

 ということで、

「それは命だ」

 ということになったとすれば、その命は途絶えてはいけないということになる。

 この発想が、いわゆる、

「輪廻転生」

 という発想として、もし、

「人は絶対に死ぬものだ」

 ということにすれば、後は、

「生まれ変わる」

 という発想しかないではないか。

 宗教では、天界の発想があり、

「生まれ変われるとして、人間が人間に生まれ変わる場合、地獄に落ちてはいけない」

 ということになっている。

 しかも、絶対数としては圧倒的に少ないが、

「神様として聖天してしまったのであれば、神の領域にいるわけで、いまさら人間に生まれ変わるなどというのは、何かの罰ゲーム以外の何者でもない」

 ということになるだろう。

 絶対数の少なさ、

「生まれ変わりの循環」

 というものを考えると、どんどん小さくなっていき、

「限りなくゼロに近いもの」

 に繋がってくるとすると、今度は、

「果てしなさというのは、回数なのか、その寿命なのか?」

 ということになるのではないだろうか?

 だが、生まれ変わるということは、

「地獄に落ちた人間は、人間には生まれ変われない」

 さらに、

「新しい生命がこの輪廻の中に入ってくるには、数に限界がある」

 というような発想から、親が入信している宗教などでは、

「あるウワサ」

 と呼ばれるものが叫ばれている。

 最初は、この話は、宗教団体の中で幹部連中だけが知る、いわゆる、

「最優先極秘事項」

 として、長らく秘密にされてきた。

 宗教団体自体は、そんなに厳しいところではないが、幹部だけしか知らないこと、幹部の秘密としているところは、人間にとっての尊厳ということで、いくら信者であっても知ってはいけなかった。

 そもそも、この大体は、実際に活動を始めたのは、昭和の40年代ということで、新興宗教と呼ばれていた中の、一種の生き残りである。

 実際に他の宗教団体は、そもそも、宗教団体に興味などないので、その歴史など、知る由もなかったのだ。

 ただ、知っていることとして、昭和の頃、ちょくちょく新興宗教団体が生まれては消え生まれては消えを繰り返していたような話を聴いたことがある。

「中には、名前を変えて、それこそ、手を変え、品を変え、生き残ってきたところも多いのではないか?」

 という。

 それこそ、

「ウイルスなどの病原体が、自分たちが生き残るために、変異を繰り返す」

 と言われているのと、同じではないだろうか?

 変異を繰り返すウイルスは、

「感染力はそうでもないが、重症化率や、致死率が高い」

 と言われるもの、逆に、

「重症化や死に至ることは減るが、その代わり、完全力の強さでは、他のウイルスの比ではない」

 といわれるものもある。

 どちらがいいとは言いにくい。

 前者は、その言葉通り、

「罹ってしまうと、ただでは済まない」

 と言われるであろうが、後者の方であれば、

「確かに文面から見れば、それほどかかったとしても、重症化する可能性が低いのであれば、大丈夫ではないか?」

 という発想は、明らかに浅はかだ。

 まずは、確かに患者数のわりに重症化が少ないとはいえ、分母が大きくなれば、その分、分子も大きくなる。そうなると、前者の時の患者数とその比ではないのだから、当然分子の数もそれなりにいるだろう。前者の場合と蓋を開けてみると、死者、重傷者数はそれほど変わらないどころか、実はさらに多いのかも知れない。

 だが、問題はそこではないのだ。

 一番の問題は、患者数が増えるということで、医療崩壊を引き起こすということだ。軽症の人は、さほど構う必要がないとはいえ、病院や、感染検査の場所は人でごった返し、本来なら、距離をおいて、待機しなければいけない場所も、感染危険性のある距離のギリギリまで詰め合った状態で待機しなければいけないという、実に本末転倒なことまで起きるであろうという状態にまで追い込まれかねない。

 医療崩壊というのは、結構な大きな問題だ。

 インフルエンザのような、

「未知ではない伝染病」

 であれば、対処のしようがあるだろう。

 ワクチンや、予防接種、特効薬の手配も容易にできるだろうし、医者がノウハウを分かっている。

 しかし、急に発生した、というようなウイルスであれば、誰もすぐには対応ができないというものだ。

 だから、

「未知のウイルス」

 が流行した時は大変なのだ。

 というのも、少しでも流行り出し、それが世界的ともなると、

「日本一国」

 だけというわけにはいかないのだ。

 当然のごとく、入出国も制限される。

「まずは、本国で陰性を確認し、渡来国でも陰性を確認し、さらに、1週間以上。渡来国の用意したホテルで、隔離され。その後陰性になれば、やっと、その国で活動を再開できるというわけだ。

 観光などは当然できない。基本的に、国外渡航の禁止がいわれる。

 さらに、店舗の休業要請、保育園、学校の一斉休校。外出自粛の要請、かなり厳しい自由の制限を味わうことになる。

 自営業やその従業員はいきなり生活の危機に陥る、会社勤めの人も、すぐにはその波は来ないかも知れないが、そのうちに企業による愛顧なることが起こってくるかも知れない。

 そんなことで、何とか蔓延を防止さえ、一旦は、その流行を収めることができたとしても、

「例の変異」

 という問題が起こり、

「次の波が押し寄せる」

 もちろん、最初のウイルスから変異しているので、さらに未知のウイルスなのだ。また一から調査のし直しになったりする。

 一種の、

「いたちごっこ」

 なのだ。

 前に流行ったウイルスは、最初こそそこまで患者がいなかったわりに、重症化、死亡率はそれなりにあった。

 しかし、国家の救急体制がまったく行き届いておらず、かつてあった緊急搬送病院も、前の政府が、

「無駄なものはなくせ」

 ということで、その少し前に廃止になったりしていた。

 タイミングが悪いというのか、それとも、先を見通す目がまったくできていなかった政府が悪いのか、どちらにしても、タイミングが悪いなどという言い訳が通用するような政府ではなく、政権交代から出るわ出るわ、不手際の山だったのだ。

 それを思えば、今の政府は……。いや、やめておこう。さらにひどくなってしまい、救いようのないところまで来ているのを、失念するところであった。

 ただ、当時はとにかく、

「2類相当」

 と言われる伝染病だったことで、

「新型伝染病を見る医者が、ごく少ない」

 ということ。

 さらに、入院施設なども少なくて、医療崩壊の正体は、

「救急車を呼んでも、そこから先、受け入れ病院が皆無だった」

 ということだ。

 本来なら、国から、補助金を貰っていれば、診なければいけない病院のはずなのに、救急要請を平気で断るという、そういう悪質な病院が多かったりするのだ。

 それよりも、もっと大きな

「医療崩壊の正体」

 というのは、

「新型ウイルス感染者が、救急車を呼びまくるので、本来であれば、普通に緊急搬送されて、助かるはずの、他の持病を持った患者が急変した時なのである」

 つまりは、

「新型ウイルス患者を優先することで、本来なら助けることができた命を助けることができない」

 ということも、大きな、医療崩壊というものの、正体なのだ。

 それを考えると、

「医療崩壊」

 というのは、正直、神頼みをしなくても助かった命を助けることができなかったという。

「この世の理不尽さ」

 というものを感じた人たちが、最近の入信者では、圧倒的に多いといってもいいだろう。

 宗教団体で言われている、幹部たちにおける、

「最優先極秘事項」

 というのは、正直ハッキリと分かっているわけではないが、そのことは、

「生年月日と、没年月日」

 という関係にあるということは、どこかから伝え聞いた。

 それが、どういうことになるのかまでは分からない。

 鍋島は、一度、友達と占いの席に同行したことがあった。それは、その友達が、結構、

「神頼み」

 をしたくなるような人生を歩んできたということを知っていて、自分も少し関わっているという感じを分かっているので、言い方は悪いが成り行きだった。

 それも、

「宗教などに走られるよりもまだいいか」

 という思いがあったことで、付き合い程度に行ってみたのだ。

 その友達は、どうも結構いいことを言われたのか、少し気が晴れているようだった。

 気が晴れるだけでも、成果があったといってもいいのだろうが、その内容は、ハッキリと分かるものではなかったのだ。

 ただ、彼のように本当に悩みのある人には、あまりにも的確なアドバイス的なことよりも、

「気が晴れる」

 という程度のことの方が、自分の中で租借しやすくなり、考え方もオープンになるのではないだろうか。

 それを考えると、

「さぞや、占い師の話の持っていき方がうまかったのだろうな」

 と、感心するくらいであった。

「今度は、鍋島、お前が見てもらえよ」

 といきなり言われて、

「えっ、俺がか?」

 と、付き添いで来たというだけだったのに、

「なぜ、俺が?」

 とも考えたが、それはいきなりだったことで、考えてしまったわけで、実際には、気持ち的にはまんざらでもなかった。

「一体、彼に何をいえば、このような気楽になれるマジックになったのか?」

 ということに興味がなかったわけではない。

「そうさ、どうせ都合の悪いことだけ、信じなければいいんだ」

 ということで、気持ちは、自分も占ってもらう思いになっていたのだ。

 だが、鍋島本人はその時、気付いていなかった。

「これがいわゆる宗教にのめりこむ人の最初の気持ちだ」

 ということをである。

 ただ、鍋島としても、もしこれが普段の精神状態であれば、それくらいのことは分かっているだろうから、いくら友達の誘いであったり、自分の中に、好奇の気持ちが芽生えたとしても、宗教がらみだと感じた時点で、遠慮していたはずだ。

 それなのに、この時、

「受けてみようと感じたのは、どこからくる心境だったというのか?」

 自分でもよく分かっていなかった。

 後になって、

「ああ、何であの時、あんな気分になったのかな?」

 と思うのではないかと。感じていた。

 ただ、その時、確かに不可思議なことを言われ、聞いていて、

「何を言ってるんだ。こいつは?」

 と、

「不可思議なことは、信じない」

 という気持ちもあったくせに、どこか、話を聴いていて、身体が宙に浮いてくる感覚があり、その心地よさが、不可思議な世界を形成していたのではないだろうか?

 友達の話もあり、連られるように中に入ると、そこは、真っ暗な空間だった。しかし、それはあくまでも、

「目の錯覚」

 というものであり、中に入ると、次第に目が慣れていくと、明かりがぼやけて見えているのは、まるで、ロウソクの炎のようだったが、実際には、

「ロウソクの炎のように瞬きを見せる照明」

 のせいであった。

 あくまでも演出効果を高めるために備わっているものであり、そういう意味では、成功しているといってもいいだろう。

 中に入ると、想像していた占い師というイメージはなかった。

 昔から、繁華街の橋の方にテーブルとイス。そして、微妙な明かりに照らされた一角に、細羽外籤のような棒が刺さった竹筒がそこには置いてあり、その籤を数本持って、両手で混ぜ合わせるような素振りをしながら、占っているという、

「和風な占い師」

 のイメージなのか、

 あるいは、

「テーブルの上に、タロットカードなどを載せて、その向こうに鎮座しているのは、まるで、古代エジプトの女王であるかのような、煌びやかな装飾を、身体に所せましと飾り付けているような、洋風の占い師のイメージ」

 その二つが浮かんでいた。

 かたや、

「貧相ではあるが、仏教的な雰囲気を醸し出している、和風な占い師」

 そして。かたや、

「古代エジプトのファラオ信教と言った派手な装飾で彩られた、おばさんのような人が鎮座している洋風な占い師」

 それ以外には、イメージとしては浮かばない。

 しいていえば、エジプトのおばさん占い師の目の前に、水晶が置かれていて、それを触れるか触れないかというような触り方で、見つめているかのような雰囲気を想像してしまうであろう。

 だが、目の前に鎮座している人は、そんないろいろなものを使って占いをしているわけではない。

 テーブルの上には、数冊の本が置かれていて、籤のようなものも、水晶も、タロットカードのようなものもなかった。

 確かに、占いというのは、

「どんなものでも、占いとして使ったりするからな」

 と占いに興味を持っている人が言っていたので、さほどビックリもしなかった。

 なぜなら、

「そこまで占いというものを信用しているわけではないからだ」

 と自分で思っているからだった。

 目の前の人は、顔が分らなかった。顔の前がベールに包まれていて、

「どれくらいの年齢の人なのか?」

 それどころか、

「男か、女なのか?」

 ということすら、分からなかったのだ。

 少したじろいで、後ずさりしそうになっている鍋島に対して、

「どうぞ、こちらに」

 と、声のトーンはあくまでも平常であったが、年齢的には、まだ若い、女性の声のようだった。

 相手も、入ってこられて、そのほとんどがたじろいでしまうということが分かっているのだろう。平常心は、そのせいではないだろうか。

 しかも、自分のスペースに入ってきた相手は、自分の手中にあるとでも思っているのか、慌てる素振りを示すことは一切なかった。

 表は結構寒い時期だったので、部屋の中には暖房が入っている。しかも、時期的に乾燥する時期ということもあって、乾燥防止に、加湿器が施されているようだ。

 まわりが真っ暗で、壁も見るからに真っ黒い膜が施されているのを見ると、

「ただでさえ、空気が籠っているように思えるのに、いかにも密室という雰囲気からか、息苦しさが感じられる」

 というほどであった。

 入ってきた時、最初から、

「広い」

 と思ったわけではないが、さらに圧迫感が感じられるようになると、さらに息苦しさが増してくるようで、

「ここから逃げ出したい」

 と思うのだが、何やら金縛りになったかのようで、ここから出ていくことができなくなった。

 鍋島は、覚悟を決めて、目の前の椅子に座るしかなかったのだった。

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