第5話 躁鬱状態
それから鍋島は、次第に心を閉ざすようになっていったのだった。
それが躁鬱症の始まりだったが、それまで知らなかったことや、誤解していたことが、こんなにもあったのかと、ビックリするくらいだった。
まず、一つは、
「毎回のように、同じサイクルを繰り返していても、決して、その長さが長くも短くもならない」
ということであった。
しかも、
「感覚的にも変わらない」
ということで、特に鬱病の時は、その傾向が強いと思うのだった。
中学生というと、どうしても多感な時期で、中学に入ってからすぐくらいは、毎日のように、
「その日、一日一日が、まったく違って感じる」
と思うようになっていた。
長いと感じる時もあるし、あっという間に過ぎる時もある。その共通性がどこにあるのか、自分でもハッキリとしないのだが、なぜハッキリとしないのかというと、
「どんな気分の時に長く、どんな時に短いのか? ということが分からないからだ」
と思っていた。
「楽しい時、嬉しい時に長く、辛い時、苦しい時に短いのであればいいんだが」
と思っていたが、どうもそうではないようだ。
だったら、
「正反対の感覚の時なのか?」
と思ったが、どうも一概には言えないようだった。
だが、友達に聞くと、
「苦しい時ほど長いんだよな」
というではないか。
確かにその傾向はあるような気がするが、絶対にそうだといえないのは、自分に自信がないからで、
「少しでも言い切ることができれば、躁鬱症も、軽減できるのではないだろうか?」
と考えるようになっていたのだ。
だが、そんな躁鬱症も簡単にはいかない。それを感じたのは、
「感覚的に、長さが変わることはない」
と感じた時だった。
つまり、
「錯覚ではない」
ということであって、少しでも錯覚かも知れないと思うと、気休めにもなるというもので、その気休めがあてにならないのであれば、それは、
「躁鬱症が続く限り、覚悟して付き合っていかなければいけない」
ということを意味しているということであろう。
そう考えると、今度感じるのは、
「躁から鬱に変わる時、あるいは、鬱から躁に変わる時という、前触れのようなものが分かれば、そんなにつらくはないかも知れない」
ということであった。
実際には、考えていると、その分かれ目が分かる時があった。
しかし、それは、鬱から躁に変わる時であって、躁から鬱に変わる時ではなかったのだ。確かに、前者も大切なことだった。
「これで苦しみから救われる」
と思うと、その瞬間から気が晴れるというものだが、実際には、逆の方が、ありがたいと思っていた。
「これから苦しみがやってくることに変わりはなく、逃れることができないのであれば、どう考えるかというと、覚悟ができていれば、全然違うということであり、その覚悟ができるはずの瞬間が分からないということは、それだけ辛い時間が長引くということではないか?」
と感じるのだった。
果たして、躁から鬱への入り口はどうしても分からない。鬱から躁に変わる時というのは、正直分かるのだ。
なぜなら、鬱状態というのは、トンネルの中であり、その中で映し出される黄色いハロゲンランプも、まさにその気持ちを表しているようで、実に苦しいという意識を醸し出しているかのようだった。
考えてみれば、
「一日の中で一番疲れを感じる時間帯」
というと、もちろん、個人差はあるだろうが、鍋島は、文句なしに、
「夕方だ」
と答えるだろう。
夕方というと、部活をやっている時間。まだまだ日が差している時間は、普通に歩いているだけでも汗を掻くのに、部活で運動していると、身体が溶けてしまいそうな錯覚に陥るくらいで、溜まったものではない。
しかも、日が暮れる夕方近くになると、その疲れはピークに達する。
といっても、身体というのはうまくできていて、
「ひと汗かくと、結構楽になるもので、身体が動くものだ」
と言われている。
違うスポーツで野球などもそうで、よく先発ピッチャーが、
「彼は立ち上がりが悪い」
と言われているが、その後は立ち直って、
「3回以降は、ランナーを出すのも大変だ」
と言われるのをよく聞く。
そんな時、野球解説者の口からも、
「ひと汗かいて、身体の動きがスムーズになってきましたね。これが彼の真骨頂ですね」
と言われている。
しかも、相手チームがもっとよく分かっていて、
「立ち上がりの悪さをつくしかない。2回までにどれだけ点数を取れるかにかかっている。できることなら、早い回にマウンドから引きずり下ろしたいものですね」
と、バッティングコーチが語っているのを聞くのも、一度や二度ではないだろう。
それでも、3回以降は手が付けられない。
「あいつが、立ち上がりがよかったら、完全試合や、ノーヒットノーランくらい、何回でもできるんじゃないか?」
と言われるほどであった。
それだけの実績もあるピッチャーで、
「どうして立ち上がりが悪いんですか?」
などと聞く、無神経な取材もたまにあり、本人も苦笑しながら、
「そんなことが分かっていれば、今頃は、もっと勝ってますよ」
と、吐き捨てるようにいうしかないではないか。
それだけ、
「ひと汗かく」
ということが、人間の生活においても、重要であるということが分かっている。
要するに、汗を掻かずに身体に溜まってしまうと、疲れをため込んでいるのと同じことなのだ。
夕方はそんな時間である。
そんな時間に、夕日の黄色く、ちょっとオレンジ掛かった色を目にすると、その条件反射からか、オレンジ色だったり黄色い色を感じた時、身体が熱くなり、汗を掻く時と描かない時で、その脱力感が変わってくる。
「それが、鬱状態から躁状態に移る時の感覚の正体なんだ」
と感じるのだった。
トンネルから出る時、どんどん明るさが眼を襲うようになる。これは正直、本当であれば辛い。
普通の毎日であれば、
「夕方の次には夜が来て。少々暗い中に、ネオンサインは明かりが適度に表れる。目にはちょうどいい」
といえるのではないだろうか?
しかし、トンネルから出るとすぐというのは、その明るさのギャップからか、その瞬間だけ、モノクロに見える時がある。この時のことを、さすがにまだ中学生の鍋島は知らなかったが、夕方から、日が暮れて夜に向かう時に、ごく短い時間帯に現れるという、
「夕凪」
であったり、
「逢魔が時」
と言われる時間帯ではないか?
ということであった。
夕凪という時間も、逢魔が時と言われる時間も、どちらも、夕暮れの、
「ロウソクの炎が消える前の灯火」
という時間帯のことであった。
「夕凪」
という時間帯は、
「風がやんでしまう時間帯」
と言われ、さらに、
「逢魔が時」
と言われるのは、
「その時間帯というのは、昔から、魔物に遭う時間帯と言われ、事故などが多発すると言われて、恐れられている時間帯」
であった。
その両方が同じなのか、違うのかは正直分からないが、鍋島は、
「同じなのではないか?」
と思っている。
特に、夏の暑い時、きつい練習が終わって帰宅する時というのは、汗が滲んでくる時間帯であった。
しかし、少し早く練習が終わって、まだ、夕日が沈む前など、帰宅時間には、なぜか汗を掻かない時間帯があった。
「なぜなんだろう?」
と思っていたが、一度、汗を掻いた同じ時間帯に帰ろうとした時、スーッと吹き抜けていく風に、
「ああ、心地よい」
と感じたのだ。
その時鍋島は気が付いた。
「ああ、そうか、風が吹いてこないからだ」
ということが分かったからで、風が吹いてきたのを感じて、汗が身体にまとわりついていることで、その冷たさを身に染みて感じるからだった。
心地よさを感じると、今度は、以前の、それも数日前くらいだったはずで、時間的にもそんなに変わりがあったわけでもないのに、なぜなのかを考えた時、
「そうだよな。季節があるように、日にちが微妙に違うだけで、同じ時間でも、風が吹かない時間があるんだよな」
ということであった。
「夕凪の時間」
というのは、鍋島は分かっていた。
「風が止まる時間がある」
ということまでは分かっていたが、それがどれくらいの時間なのかは、不明であった。
何度か。
「夕凪の時間を計ってみよう」
と思い、風が止まった時間と吹いてきた時間を探ってみようと思うのだが、いつも、後になってから、
「ああ、しまった。忘れてた」
と感じるのだった。
それを何度も繰り返しているうちに。
「俺には分からないようにしているんだな」
とずっと思ってきたが、友達に同じことを聞いても、
「ああ、俺にも、ハッキリとは分からないな」
と言われた。
その友達も、同じように図ってみようと思ったようだ。
「さすが、俺の友達だ」
と、鍋島は思ったが、他の友達はというと、
「そんなこと考えたこともなかった」
というやつもいれば、
「夕凪? 何だい、それは?」
と言われるのがオチだった。
もっとも、夕凪を知らないやつの方がまだ救いがある。なまじ知っているくせに確認しようとすら思わないというのは、最初から、
「探求心のないやつだ」
ということで、自分とは、
「合わないやつなんだな」
と、再認識しなければいけないのではないだろうか。
しかし、夕凪の時間ということは知っていても、実際にはどういう時間なのか知らないというやつも多かった。
「言葉だけが独り歩きをしているんだろうな」
と感じたが、知っているだけ、まだマシなのだろうあ?
しかし、
「逢魔が時」
というのは、そうもいかない。
いわゆる、
「魔物に一番出会う時間帯」
ということであるが、これは、方角にも大いに関係があるという。
そもそも昔から、方角を時間に見立てるということは行われている。
「草木も眠る丑三つ時」
というではないか?
ちなみにこの時間帯も、
「魔物に一番出会う時間帯」
と言われている。
その理由は聞いたことがあった。
「丑三つ時というのは、時間でいうと、午前二時から三時の間くらいだろう?」
と友達から言われ、
「ああ、そうだけど」
というと、
「じゃあ、鬼門と呼ばれる方角というのは、どの方向か知っているかい?」
というので、正直に、
「いや、分からない」
と答えると、友達は、にやりと笑みを浮かべ、まるで、
「鬼の首でも取ったか」
のように、
「してやったり」
という顔をしていた。
「実はその方向というのは、北東の方向なんだよ。ここまでいって、まだ分からないかい?」
というので、痺れを切らして、
「いい加減教えてくれよ」
という。
この友達が、以前から、
「知ったかぶり」
をしたがることで有名だったので、好きなように知ったかぶりをさせていれば、平和であることは分かっていた。
こちらが、降参したかのように、少し苛立って見せると、その効果は絶大で、友達は、有頂天になって話始める。
「時計を、方角に見立ててみればいいのさ。0時が北になって、6時が南になるだろう? 3時は、東になるわけだから……」
と言ったところで、やっと、鍋島も、
「あっ」
といって、驚いて見せる。
しかし、この時の驚きは、半分は本心だった。
「ああ、なるほど、だから、1時から二時というと、北東に当たるんだ」
と、感動していうと、
「そういうこと」
といって、いかにも有頂天で胸を張る。
彼が賢いわけでも何でもないが、確かに感動を与えられたのは事実だったので、嬉しく思ったのも無理もないことだった。
それを思えば、気持ちは十分に伝わったというもので、感動もわざとでも何でもなかったのだ。
その時のことを思い出して、丑三つ時を時計に合わせて考えたが、思い浮かばない。
それもそうだ。あくまでも、
「夕日が沈む直前」
というだけで、時間がハッキリしているわけではない。
それは当たり前のことで、季節は巡っているのだ。夏と冬とで、昼の長さが違う。
「逢魔が時」
というのは、時間ではないのだった。
そんなオレンジ色にむせぶ太陽の光を浴びると、それまで掻いていた汗が、急に止まる時がある。
「まるで、身体の夕凪のようだ」
と感じた時、この時がひょっとすると、自分が、
「躁状態から鬱状態に変わる時ではないか?」
と、高校2年生くらいの時から感じるようになっていた。
汗を掻かない時間が、ピッタリ夕凪の時間かというと、そういうわけではない。どうやら、自分の身体と夕凪とは、直接的な関係はないようだった。
身体から噴き出す汗と、汗を乾かそうとするかのように吹き抜ける風を感じると、
「生きてるんだな」
と感じるようになった。
この感覚に、たまに自然の摂理を感じる時があるが、そんな時が、鬱状態のような気がする。
基本的に、感受性の強さは、鬱の時に多かったりする。躁状態の時は、なるべく何も考えない。考えないようにしなくても、考える頭を持っていないと言った方がいいくらいで、余計なことを考えない方が、幸せであることを、頭が理解しているのだろう。
しかし、鬱状態の時はそうではない。
何かを考えていないと、頭だけではなく、身体がいうことを聞いてくれないのだ。むしろ、
「目の前にぶら下がっている問題が一つ一つ解決されないと、先のステップに進めないのである」
そのことを分かっているからか、必死に課題を解こうとする。
しかし、そんなに簡単に解けるくらいであれば、
「鬱状態になんかなったりしないさ」
と、自分の中の人が、そう告げるのだった。
SNSなどをやっていると、本名は使わない。
昔からいわれているのは、ハンドルネームなるものであるが、それは、ネットの掲示板などで使う、
「架空の名前:
のことである。
中には、戦国武将の名前を使って、
「なり切り」
などという使われ方をする人もいるが、鍋島は自分の名前を少し文字っているだけだった。
そもそもが、戦国武将のような名前なので、少々もじったくらいだったら、
「同じ名前があってもおかしくない」
というものだ。
だが、鍋島はそれほどSNSを利用するわけではなく、基本的には、たまにしかハンドルネームを使わなかった。
それでも、たまにハンドルネームを使うことをすると、たまに、自分なのか、ハンドルネームのキャラクターなのか分からなくなることがある。
そんな時、
「中の人」
という言葉を使っているのを聞いた時、気が楽になったのだ。
「中の人」
というのは、
「SNSでは、表の人はあくまでも、ハンドルネームの人間である。しかし、ネットの世界では、基本、有名人や、売名をしたい人間以外は、本名は使わない。だからハンドルネームがあるわけなのだが、SNSで、書き込みをしていても、たまに。ハンドルネームの作られたキャラクターではない。本人の意見を書きたいことがあるだろう。そのために、せっかくのハンドルネームのキャラクターを打ち消さないというために、わざと中の人という言い方をしているのだ」
というのが、ハンドルネームと中の人との関係である。
「ではなぜ、ハンドルネームが必要なのか?」
ということであるが、
今の世の中には、
「個人情報保護」
という概念があり、昔のように、本名を軽々しく口外したりはしない。
それというのは、一番の原因は、ネットの普及から始まるのであるが、ネットの普及によって、遠くの人や遭ったこともない人間と、
「気軽に会話ができる」
というのが、ネットのありがたさであった。
そうなると、こちらには他意はなくとも、相手に悪意があれば、見ず知らずの相手なだけに、いくらでもウソが言えるし。騙すこともできる。
詐欺行為だって、いくらでもできるというもので。
「最初こそ、ここまで巧妙ではなかった。当時としては、舌を巻くほどの鮮やかな詐欺行為が行われていたりした。
インターネットでの、
「コンピュータウイルス」
も、しかりである。
コンピュータウイルスの中には、不用意にパソコンの中で、IDやパスワード、口座番号に暗証番号などと言った情報を簡単に入れていれば、簡単に盗まれてしまうことも結構あったりした。
それを思うと、
「誰も信用できなくなってしまう」
とばかりに、タンス貯金が多くなったりするというのも聞いたことがあった。
そんな鬱状態で、中の人、つまりここでは、
「鬱状態でも躁状態でもない。巣の自分」
という意味で、表に出ている自分と、中の人とでは、明らかに違っている。
普通の人は、もう一人というのが、表に現れた人なのだが、躁鬱症や二重人格の人は、さらにもう一人いることになる。だから、そういう意味で、
「中の人」
という存在の自分というのも、必要不可欠であり、必ず、人間であれば、もう一人いることになるのは当たり前のことだった。
そんな、躁鬱症というものを、いかに解決しようとするかということが、自分にとっての課題であり、解決できるために、表の自分と、中の人という自分とが、分かり合えなければできるものではないのだった。
躁鬱症というと、他にもいろいろな特徴がある。
「鬱状態になった時、色を見た時、原色に近く感じる」
というものだ。
これは、
「夜見る信号機」
という感覚が強い。
だから、夜というと、夕凪の時間のけだるさが終わり、静けさの中に包まれた。朝までは静かな時間のはずなのに、今は、
「眠らない街」
という表現があるほど、夜といっても昼間と変わらない。
しかし、信号機だけは別であった。
昼間は、
「青は緑に、赤はピンクやワインレッドに見える」
というような信号機だが、夜は原色にしか見えないのだった。
これはやはり、前述のような、
「鬱状態では遊びが少ない」
という感覚に通ずるものがあるのだろう。
つまりは、
「他の色に見えてくるような余裕がない」
ということを孕んでいるに違いない。
鬱状態において、原色に近いという感覚を感じると、躁状態というのは、余裕がありすぎるということだろうか?
そもそも、余裕というものがどういうものなのか分からない。
おとぎ話にある、
「ウサギとカメの競争」
というような話のように、
「油断をすると、しっぺ返しを食らう」
という意味で、余裕も何もないものなのかも知れない。
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