第4話 輪廻転生
ここに、鍋島直久という青年がいる。
今年高校を卒業し、いよいよ、大学受験を迎える年になってきた。
それまでは、いろいろ部活などに勤しんでいたが、部活はサッカー部に所属し、
「いずれは、サッカーで有名になって、Jリーガーになるんだ」
と言葉では言っているが、夢などは、漠然としたものでも持っているわけではない。高校3年間も、
「サッカーがやれれば、それでいいんだ」
とだけ思っていただけだった。
サッカーをやっていると、楽しいこともあった。何よりも、
「余計なことを考える必要がない」
というものだったからだ。
特に親からも、
「何か目標を持ちなさい:
と言われることもなく、学校では先生から、とやかく言われることもなく、ある程度自由奔放だった。
学校というところ、先生などは、少しでも生徒に寄り添ったり、生徒にかまいすぎてしまうと、ロクなことはない。
というのも、ちょっとでも構ったりすると、自分の首を絞めることになるからだ。
昔だったら、生徒からお礼参りをさせたり、苛めの問題が潜んでいたり、PTAから、つるし上げを食ったり、などとロクなことはない。特に、学園ドラマなどを見てきていると、よく分かるというものだ。
確かに、熱血教師というのは、ドラマの題材としては、最適かも知れない。しかし、実際にあんな先生がいるはずもないし、教頭や他の生成が、口では言えても、実際に力がないというのもあまりにもおかしい。警察が出てきて、熱血教師が学校を首になることになったとしても、最後はハッピーエンドなのだ。
しかし、あくまでも学園ドラマでのこと、確かにドラマの中では、何がどうなったのか、ドラマの中で問題となったことは、最後にはなぜか解決している。冷静に考えれば、何ら根底に潜んでいる問題は解決していないのだ。
特に家庭のプライベートな問題など、一介の教師に解決できるわけはない。そもそも、
「子供の担任」
というだけで、まったくの部外者ではないか。
それなのに、家庭の問題に、ズケズケと入り込んでいき、結果としては、引っ掻き回しただけで、根本的な解決にはなっていないはずだ。
また、苛めの問題などにしても、ドラマでは、あたかも解決したかのように、強引なストーリー展開だが、何ら解決していない。
苛めを受けていた生徒が、今後苛められないという保証はない。下手をすれば、もっと苛められる可能性だってあるわけだ。
誰も分かっていないことなのかも知れないが、
「一度話題になって、注目を浴びてしまうと、それが解決していなかったとしても、誰ももうそちらに目を向けることはない」
ということである。
たとえば、ミステリーで殺人事件が発生し、証拠となる凶器の捜索が行われているとして、警察は血眼になって、いろいろなところを捜索するだろう。
しかし、うまい犯人は、一番安全な隠し場所というのを知っているのだという。
それが、
「どこなのか?」
と聞かれた時、果たして読者や視聴者には、それが分かるであろうか?
これは、一種の、
「ミステリーの定石」
いや、
「ミステリーあるある」
といってもいいだろう。
というのは、一番安全な隠し場所というのは、
「警察が一度調べた場所だ」
ということになる。
つまり、一度、犯人は実際に持っていて、警察がどこを捜索したかということさえ分かってしまえば、一度警察が捜索したところに隠せばいいだけである。
これは一種の錯覚であったり暗示というものなのかも知れない。
「一度探してなかったら、もう絶対にそこにはありえない」
という思い込みによる、一種の心理トリックだといってもいいだろう。
だから、警察が必死になって探せば探すほど、犯人にとって、隠す場所が、どんどん増えていくということになるのだ。
つまりだ。
この場合のように、苛めというものを学校側がその全容を把握していない限り、苛めの対象というのは、いつも存在している。
つまり、学校側が、
「○○が苛められている」
と目星をつけてその生徒に注目していれば、それ以外の生徒を苛めても、先生はまったく気づかない。
しかも、一度苛められているという目星をつけた生徒が、
「苛められていない」
という結論を出した瞬間に、また、苛めの対象になる。
学校側が、
「この生徒は苛められていない」
という確証付きでである。
本当は苛められているのに、その目をごまかすことさえできれば、学校なんて、いくらでも騙すことができる。
苛めを行う方だって、バカだというわけではない。むしろ、
「悪知恵には長けている」
といってもいいだろう。
それこそが、心理的なトリックの真骨頂であり、そういう意味では、苛めを行う方と、学校側とで、
「キツネとタヌキの化かし合い」
をしているようなものであった。
生徒というのは、
「苛める側」
と、
「苛められる側」
そして、
「静観する側」
ということに分かれるであろう。
しかし、最終的には苛める側以外は同じようなもので、学校側が見ているのは、あくまでも苛める側である。
「いじめっ子さえ見つければ、誰が苛められているのか分かるだろう」
という考えなのかも知れないが、逆にいえば、
「誰が苛められているか分からないので、苛められている側よりも苛める側を見つけた方が楽だ」
と考えているのかも知れない。
だから、苛められている生徒は永遠に分からないのだ。苛める側が、そんなへまはやらないからだ。
だが、学校側にはその理屈が分からない。だから。苛められている側に、静観者たちまで入れてしまうから、ことの実態が見えてこないのだ。
静観している連中が、実は一番たちが悪い。そんな連中を、苛められる側にいれてしまうと、ただでさえ、苛める側が隠そうとしているのに、いじめられっ子を見つけることができず、いつまで経っても、苛められている生徒を見つけることなどできなくなってしまうのだ。
しかも、静観している連中は、何もいじめられっ子の仲間というわけではない。自分たちに被害がこなければいいというだけで、
「苛めにかまわないようにしよう」
というあくまでも、事実から目をそらして逃げているだけの連中だ。
いじめっ子からすれば、
「こんな連中。どうせロクな人間なんじゃないから、次のターゲットはこいつらから選べばいい。どうせ誰でもいいんだったら、くじ引きで決めるか?」
という程度である。
考えてみれば、足利将軍15代の中で、一人、くじ引きで決まった、
「くじ引き将軍」
がいるくらいだ。
苛めくらい、くじ引きで決まってもいいようなものだ。
と、そんな感じだったのだろう。
そんな目標も何もない鍋島が、
「世の中なんて面白くも何ともない」
と思っていた。
というのは、直久の両親が、ある新興宗教にかぶれていたからだった。
そもそも、子供の頃から病弱だった。
その宗教は、今では結構騒がれるようになった宗教で、
「世間で騒がれているような宗教なんて、ロクなものではない」
と皆が言っていることで、さすがに直久も、
「うちの親が、その宗教にかぶれていて」
などということは、口が裂けても言えるわけはない。
分かっているのだが、そう思っていても、親に対して、
「そんな宗教、やめてしまえ」
と子供の方からは、どうしてもいえなかった。
勇気がないわけではない。屈強な抵抗があるのも分かっているのだが、抵抗があるから、言えないわけではなかったのだ。
その話を聞かされたのは、高校受験が終わり、高校生になってすぐだっただろうか。受験生の頃は、精神的にそれどころではなかったので、何も言えなかったが、受験も終わり、無事に入学できたことから、
「親の宗教かぶれについて、そろそろ子どもとして諭さないといけないんじゃないか?」
と思い始めた時だった。
放っておくわけにはいかないだろう。
と思ったのも間違いではなかったので、意を決するにも、タイミングが必要だと思い始めた頃だった。親の方から、話しかけてきた。
完全に、先手を打たれたのだった。
「直久。ちょっといいか」
といって、父親に呼ばれた。
ビクッとした直久は、その瞬間ですでに委縮してしまっていた。
直久は、子供の頃から、父親であったり、母親から呼ばれた時というのは、まず説教しかなかった。
説教を受けるということは、直久にとっては、屈辱でしかなかった。もっとも、そのほとんどは親の言う通りだったので、文句をいうわけにはいかない。文句を言っても、論破されるだけで、言い返すことなどできるはずもない。
それを思うと、直久は、自分のことを、
「意気地なしで、親に逆らうことすらできない情けない男だ」
と思うのだった。
その理由の一つが、
「小さい頃から身体が弱かった」
ということで、よく学校を休んだり、親が、いろいろ病院にも連れて行ってくれたり、「静養にいい」
ということで、静養地ということで、しばらくの間、空気のいい田舎町に連れて行ってくれていたりしたくらいだった。
その街で知り合いになったのが、上総親子だった。
その息子というのも、
「うちの子も、昔から身体が弱くて」
という同じ理由だったこともあって、母親はすっかり、上総夫人と仲良くなったようだ。
母親は、家では結構威圧的な態度を取っているにも関わらず、表では、結構人のいうことを聞く、
「おとなしい夫人」
という感じであった。
家の態度も知っているので、
「ただ、恐縮しているだけの、内弁慶だ」
ということは、直久が一番よく分かっていたのだった。
家では、子供を論破できるくせに、表では自分が論破されるとでも思っているのか、そんな会話になることがなかった。余計なことを言いさえしなければ、論破されることはないからだ。
子供心に、
「この人は、人から論破されることが一番嫌いなんだ」
と感じたのだ。
そして、その静養地から帰ってくると、母親が、新興宗教に通い始めたということが分かり、両親が口争いをしているのを聞いた。
昔はそんなことはなかったはずで、父親とはいえ、論破されるのを嫌ったからだ。
それなのに、母親が父親を自分の方が論破しているのを聞いた父親も、少し目を丸くしているようで、最後には何も言えなくなったようだ。
捨て台詞を吐くように、
「とにかく、そんな変な宗教から、早く足を洗うことだ」
というだけだった。
子供ではあったが、直久は、最後に捨て台詞を吐いて話を終わるというのは、
「この人は言いくるめられたんだ」
つまりは、論破されたということの証明だということを分かっていたのだった。
するとどうだろう。何と、
「新興宗教などやめてしまえ」
と口汚く罵っていたあの父親が、こともあろうに、いつの間にか入信しているではないか。
「一体、親父に何があったというんだ?」
と子供心に直久はビックリし、同時に混乱した。
母親が入信してから、二年後のことだったのだが、入信するのであれば、なぜ二年もかかったというのか。それも不思議なことだった。
直久は、まだ小学生だったので、さすがに両親とも、子供まで巻き込もうという意思がなかったのか、それは有難いことだと思った。
そもそも、子供を入信させるには、中途半端な年齢かも知れない。
何も分からない幼児であれば、まだいくらでも洗脳はできるだろうし、大人のように、社会の荒波にもまれ、理不尽な世の中にウンザリしているところでの勧誘であれば、引っかかっても無理もないかも知れないが、そこまで世間にウンザリしているわけではないし、学校に行くのが死ぬほど嫌だったり、苛めに遭っているなどの、現在、実質的な被害に遭っているわけではなかったので、別に、
「宗教にかぶれることなんかないんだ」
というわけであった。
身体の弱さも、最近ではそんなにひどくはなくなっていた。
そもそも、喘息であったりなどの、ハッキリとした病名があったわけではない。
医者の方も、
「精神的なものだろうから、大人になるにつれて、体が丈夫になることも十分にある」
といっていた。
それを親の方も、直久自身も、
「そんな中途半端なことを医者がいっても」
と、あまり医者のいうことは信用していなかったが。
実際に、成長していくうちに、病気をしたり、発熱が頻繁に起きたりもしなくなった。
特に中学に入ると、普通に部活もできるようになったくらいだったのだ、
親のほうとすれば、
「これも、宗教のおかげだわ」
と思ったようで、余計に宗教にのめりこんでいくというのは、複雑な気持ちではあった。
だが、学校にちゃんと通えるようになったのは、宗教が関わっていようが関係なくうれしかった。
部活も、サッカー部一択だった。
実際に入部してみると、先輩も、
「おお、なかなかサッカーセンスあるじゃないか」
といって褒めてくれた。
それまでサッカーはおろか、
「身体が弱い」
という理由で、運動はまったくしてこなかったのだ。
それなのに、褒められると舞い上がってしまうもので、かなりの有頂天になっていたのも無理もないことだった。
サッカー部に入部すると、そこは、練習は厳しかったし、先輩のしごき的なものは、厳しかったのだろうが、同級生の間では、そんなことはなかった。
練習の愚痴を言い合ったり、仲間内での楽しさは、他の中学生とは変わらなかった。
それをよくわかったのは、練習の厳しさから、部活を辞めようという意識になった時だった。
まだ誰にも相談せずに悩んでいたことがあったが、元々、誰にも相談するつもりもなく、
「気づけば辞めていたなんてことに最終的にはなるんだろうな」
と思っていた。
確かに先輩との確執はあったが、突き詰めると一人の先輩だけだった。その人は、他の部員からも嫌がられていて、最初は誰にも相談できずに、悶々としていたが、同じような人もいたようで、そんな人は、部を辞めていったのだ。
そんなことを考えていると、同級生の一人が声をかけてくれた。
「大丈夫か? どうせ、あの先輩のことだろう?」
といって、吐き捨てるように言った。
「ああ、そうなんだよ」
と、普段であれば、あまり人の悪口を言ったり聞いたりするのは嫌だった鍋島だったが、この時だけは、すぐに反応したのだ。
「あの先輩だったら心配しなくてもいい。どうせ、もうすぐ引退するさ」
というのだ。
なるほど、その先輩は三年生だった。自分たちが入部して半年。そろそろ冬に近づいていく。学校行事の文化祭が終わり。その後で三年生は引退。受験勉強が深刻化するというものだった。
そのことを、鍋島は失念していた。
「そうか。そうだったよな。忘れていたよ」
と、それまで暗雲が頭の中に立ち込めていたが、それが一瞬にして晴れていくような気がしてきた。
「完全に忘れていたような気がするな」
と思うと、それまでの自分とは今が違っているように感じた。
その時には分からなかったのだが、その感情が、自分の中で、
「躁鬱症」
の原型を作っていたのだった。
躁鬱症というのは聴いたことはあったが、あくまでも漠然としたものであり、ハッキリとどういうものなのか、知る由もなかったといってもいいだろう。
漠然と知っていたのは、
「明るい性格と、暗い性格が共存しているような、二重人格的な性格になる人のことなんだよな」
というイメージであった。
そのイメージは間違いない。
ざっくりとしたイメージとしては正解なのだが、それも、なったことのある人にしか分からないということであろう。
躁鬱症というのは、確かに明るい時と暗い時のイメージがある人であろう。しかし、まさかここまで違っているなどと想像もしなかった。
きっと、実際にそんな症状になっている自分よりも、まわりの方が敏感に察知しているのではないあ?
というのは、躁鬱症を意識している本人は、特に鬱の時など、余計にまわりの反応に敏感になるというもので、そんな時、まわりが、
「完全に、腫れ物にでも触るような態度になっている」
ということが分かるのだ。
実はそういう態度を取られるのは嫌だった。
部活をしていると、それまで動かしてきたことのない筋肉が反応するのか、特に部に入部してすぐの頃には、よく寝ている時に足が攣ったりしたものだった。
そんな時、痛いのは分かっているのに、まわりには意識されたくなくて、必死に隠そうとしている自分がいたのだ。
「触らないで」
と、もし、まわりが変に意識して、気を遣ってさすろうとでもしてくれるものなら、そう叫んだに違いない。
痛くて苦しい時というのは、まわりに触られると、自分の自助能力が崩れてくる気がするのだ。
何とか自分で治そうとして、呼吸を整えてみたり、痛みを緩和させたくて、自分のタイミングで足をさすろうとするだろう。
そんな時、他人に触られると、それだけで、余計に痛みが増してくる気がするのだ。
というのも、自分の身体というのが、他人に触られることに敏感になっているのを知っているからだ。
普段であれば、他人から触られたりすると気持ちよくなってくる。耳かきをされる時の気持ちよさだったりがそうであるが、子供の頃に、祖母から、頭を撫でられながら寝ると、心地よい眠りに就けたりしたことを思い出すと分かるというものである。
そんな鍋島が、鬱に陥った時、
「誰にも知られたくない」
と思うのも、無理もないことだろう。
しかし、脚が攣った時はそれでいいのだが、鬱状態の時はそうもいかない。
「なるほど、脚が攣った時は、その時一瞬のことなので、すぐに治るのだが、鬱状態はそうもいかない。どんなに短くても、半年くらいは、きついものだ」
ということが分かった。
ただ、すぐに、もう少し先が分かってきた。
「鬱状態というのは、半月が周期なんだ」
ということであった。
これは、さらにすぐに、いや連動して分かったことなのだが、
「躁状態に入った時も、同じくらいの周期ではないか?」
ということであった。
つまり、
「約1か月くらいの間に、躁鬱症が一回転する」
ということである。
確かに、躁鬱は何度かの周期が訪れるということは分かっていたが、一か月というのは、漠然とした感覚で、そもそもの中にはあった。
しかし、それが何クール化訪れるので、
「今が何度目の鬱状態なのか分からない」
と言ったように、自分の中で、周期が混乱してくるのが、ネックだったのだ。
ということもあり、中学生の三年生になって、
「自分が躁鬱症だ」
ということに気が付いた。
それは、部活を引退する時期が近づいて、それに伴って、高校受験が、いよいよ現実味を帯びてきたからだ。
それまでは、まわりに何でも相談できる人がいてくれたので、少々のことは乗り越えてこれたのだが、今度はそうはいかない。
受験というのは、自分との闘いで、いくら仲がいい友達がいて、
「一緒に勉強するか?」
ということになっても、しょせん、志望校は違うのだ。
成績による能力も違えば、行きたい学校の校風も違っている。
勉強をしながらでも、
「今まで仲間だった連中と離れ離れになるのは、つらいよな」
と思うようになると、勉強自体にだけではなく、他のこともあってか、何に対してもやる気が次第に失せてくるのを感じたのだ。
「勉強したくないよな」
と思えてくる。
すると気が散ってきて、ついついテレビを見たり、ゲームに手を出してしまったりする。
部活の仲間と一緒に始めたサッカーゲーム。
「高校入学するまでは、厳禁だ」
と自分で、封印したはずだったのに、ほとんど、
「秒で解禁されてしまった」
ということで、自分の優柔不断さを、身に染みて分かったというところであったが、自分の性格は、そんな自分を許すことのできないものだった。
一種の、
「勧善懲悪」
といってもいいのだろうが、
「勧善懲悪というと、善玉は最後には栄え、悪玉は滅びるということを前提に考えられたもので、時代劇ドラマなどでは、昔から定番だった」
というものである。
ということは、
「俺は、善玉になりたいと思っているのだろうか?」
などと思っていると、すぐに気が散る性格の自分とは、まったく違っていると思うことが、嫌だったりした。
それを思うと、
「勧善懲悪であるということを人に知られたくない」
という感覚から、
「人に知られたくない」
と思うことをいろいろ頭の中から引っ張り出すと、ほとんどのことのように思えた。
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