第3話 人間至上主義

 そんな宗教のようなものが、果たして、過去の種族にはあったのだろうか?

 普通に考えれば、

「人間以上の文明を持ち、我々よりもより詳しいことを知っているのだとすれば、神様などというものを信仰する必要などないのではないか?」

 とも考えられる。

 だが、この発想はどうなのだろう?

 もちろん、存在したかどうかも分からない種族の話なので、感情があったかどうかも分からないので、あくまでも、人間としての、目線からなのであるが、

「神様は信じていたのではないだろうか?」

 といえる。

「どうしてそう思うんですか?」

 と聞かれたとすれば、

「人間であれば、宗教に頼るというのは、先が不安であったり、現状に満足できない。あるいは、現状で助けを求めるということにおいて、すがる相手を神様に求めるのだ。宗教にもいろいろあるが、特に仏教系であれば、現在を頑張って生きることで、あの世では降伏になれるというものである。だから、今は苦しくとも、あの世で幸せになるために、この世を生きているんです」

 というではないか。

 ここで、宗教に少なからずの疑問を感じている人は考えるのではないか。

「あの世で幸せになるために祈っているというが、あの世というのは、祈った人は皆幸せにしてくれる世界なのだろうか?」

 と感じるのだ。

 そして、

「祈らなかった、いわゆる無信仰の罰当たりともいわれる人はどうなるというのだろう?」

 あの世の発想として、聞いたことがある話であったが、

「あの世といわれる、天界というところは、4つに分かれているという。上二つは、神の領域、つまり、天国と呼ばれているところであり、二つ目の世界からは、そこから先は、最上階に上がれるかどうかというだけで、もう人間界に降りてくることはない。人間から見れば、本当の天界、天国と言われるところなのである。そして、3番目の世界が、いわゆる、死後の世界と言われるところで、そこで、人間は、生まれ変わりの時を待つことになる。そして、一番最下位は、地獄というところになる。いわゆる地獄絵図がそのままというところであるが、そこに落ちると、永遠に這い上がることはできない。ただし、地獄でも、3番目の世界でも、生まれ変わることはできる。ただし、3番目であれば、人間にしか生まれ変わることはなく、地獄では人間に生まれ変わることはできないというのだ。つまりは、人間が人間として、転生できるのは、3番目の階級に落ちた場合のことをいうのだ」

 ということであった。

 話の内容は曖昧なのと、宗教の教えなので、どこまでが本当なのか、正直分かったものではないが、一つ気になるのは、地獄に落ちもののことであった。

「地獄に落ちたものは、二度と生まれ変わることができず。それこそ、地獄の苦しみが永遠に続く」

 と聞いたことがあったが、それは宗派や、宗教の違いによって言われていることが違うからだということであろうか?

 というのは、確かに、地獄に落ちて、転生し、別の動物に生まれかわったとするならば、彼らは、寿命が尽きたり、まっとうできずに、不慮の事故、あるいは、人間に殺されたりすると、人間と同じような世界が待っているのだろうか?

 そして、動物は果たして、生まれ変わるとすれば何になるというのだろう? そう考えると、この天界という世界の発想から行けば。生まれ変わるとすれば、人間以外の動物ということになる、

 すると、

「明らかに人間だけは、他の動物とは違う。特別な存在だ」

 ということにならないだろうか?

 それを考えると、

「人間至上主義」

 という考えに至り、この

「4つの天界」

 という説も、急にウソっぽく感じられ、信憑性がなくなってくる。

 頭の中が急に冷めてきて、

「これが、宗教界でいわれる、洗脳、つまりマインドコントロールと言われるものなのではないだろうか?」

 と考えてしまう。

 だが、もう少し考えを深めてみると、面白いところに行き着くのだった。

 というのは、

「動物における天界というものが存在し、動物は人間に生まれ変わることができない」

 のだということだとすれば、前述の輪廻転生の発想が、おかしくなってくるではないか。

 というのは、

「人間は、死んだら、必ず人間に生まれ変わるっという発想か、あるいは、動物が死んだら人間に生まれ変わるという発想だったから、人間は、微妙な人口の増減があるかも知れないが、その大勢が変わるわけではない。ということは、生まれ変わりでいっぱいになるから、新しい命が人間い育まれることはない」

 という発想であった。

 しかし、天界という発想でいけば、

「地獄に落ちた人間は、人間に転生することはできない」

 というのだ。

 一度、

「人間失格」

 の烙印を押されたものは、二度と人間として復活することはできない。

 そう考えると、もし、人間に新たなる血が入ってこれないとすれば、そのまま人間の人口は減り続けることになるので、新たな血が、流入されるということになるだろう。

 要するに、

「天界」

 という考え方を挟むことで、輪廻転生には、まったく違った双璧の考えが出てくるということになる。

 しかし、そうなると新たな疑問が浮かんでくる。

「人間界に新たな血が入ることになるというが、まずは、そのタイミングである」

 というのは、

「輪廻転生を願って、第3階層にいる人たちはたくさんいて。生まれ変わりの機会を待っているはずだ。まずは、彼らが優先ということになるだろう。そして、天界への裁判が行われ、地獄に行く人が多かった時は、第三階級に行く人の数も少なくなる。もっとも、いわゆる天国に行く人間というのは、ほぼあり得ないといってもいい。百年に数名というくらいではないだろうか? だから、天国の人数をここでは考える必要などないのだ。では、なぜ、宗教では、いい行いをすれば、皆天国に行けるなどというのだろうか? それはあくまでも宗教団体における自分たちの都合主義への、言い訳なのではないだろうか。天国という世界が、本当に豪楽であればあるほど、転生したいとは思うはずがない。そんな素晴らしい世界に入ったのだったら、生まれ変わって人間界に降りてくるというのは、完全に罰ゲームではないだろうか?」

 と考えられる。

「なんだ、じゃあ、天国から落ちてきた人が、この世で、他にできることがないから、坊主や、宗教団体を立ち上げたりして、自己満足に浸っているということなんじゃないのだろうか?」

 とも考えられる。

 そんな世界において、

「天国も地獄も、人間が考えたものではあるが、よくできている」

 と言ってもいいだろう。

 さて、前述の、新たな血が、人間界にいつのタイミングで吹き込まれるかということは、やはり、地獄に落ちる数の人間の多い少ないによって決まってくるのだろうが、では、次の疑問として、

「人間として生まれる前のその新たな血は、元は何だったのだろうか?」

 ということである。

 元々は、我々が知っている世界、つまり、輪廻転生を行うと考えられる自然の摂理という輪の中に入っている種族だけだということであるが、逆にいえば、

「輪廻転生に値しない種族は、この世には存在していない」

 という発想でもある。

 では、

「あの世にはあるということであるが、そうなると、天国から、何かの理由で落ちてきた神様がこの世に降臨してきた」

 ということであろうか?

 いや、もっと他に考えられる発想がないだろうか?

 たとえば、少し突飛な発想であるが、過去に存在していたという人間よりも発達していた種族。彼らは、本当に死滅したのだろうか?

 今の人間の発想でいうところの、冷凍保存を行ったりはしないのだろうか?

 我々の冷凍保存の発想は、

「肉体を冷凍することで、精神も、そのまま凍り付いたまま、保存できる」

 というものである。

 だが、彼らの科学力は、

「精神のみを冷凍保存する」

 ということに成功したのだ。

 ただし、その冷凍保存も限界があり、魂と保存することはできても、記憶の保存はできなかったのだ。それがネックだった。

 ここで、もう一つの疑問が湧いてきた。

「過去において、人間以上の文明を持った彼らが、なぜ、今の地球に存在していないのか?」

 という疑問である。

 確かに、氷河期のようなものが襲ってくるというが、冷凍保存くらいの知識はあるだろうし、未来だって想像できたはずなのだろうから、

「氷河期はいずれ終わる」

 ということも分かるだろう。

 いや、そもそも、氷河期であっても、悪い環境でも十分に生き抜くくらいはできたはずだ。何しろ彼らは、食事を必要としていないのだし。食べることなく生き残ることができるはずなのだから、

「ただ、行き続ける」

 というだけであれば、できたはずだ。

 それをしなかったということは、

「彼らは地球を捨てて、他の星にいったのかも知れない」

 ともいえる。

 その中で、地球にそれでも残って、いずれ発生してくるであろう。人類というものになって、この地球で生きてみたいという生命だけを、この地球にて、輪廻転生という発想を作り上げ、生まれ変わったと見せかけて、彼らが人間に溶け込みやすくしたのかも知れない。

 つまり、

「輪廻転生という考えは、過去の地球人と呼ばれていた種族によってつくられた、実に都合のいい、生存理由をハッキリさせずに、人間に入り込むという大きな理屈だったのかも知れない」

 といえるであろう。

 そうやって考えると、輪廻転生という考えも、どこか、他の力が働いているかも知れないが、うまくできているともいえるだろう。

 ここまで考えてくると、

「輪廻転生という考えを認めることはできるが、輪廻転生が人間の手によってではないというのは、少し残念な気がする」

 とそこまで思うと、自分にハッとするのだ。

「輪廻転生という発想をしていると、どうしても、人間至上主義になってしまう自分が悔しかったりする」

 親が子供からの、

「どうして、牛や鳥を殺したりするの?」

 と聞かれて。

「それはね、私たち人間が生きていくうえでとても大切なことなのよ:

 と言っているのを聞いて、大人になれば、

「それこそ、人間至上主義だ」

 と感じるのだろう。

 確かに生きるためには大切なことだが、本能で食べていればいいだけなのに、よくバラエティ番組なので、

「おいしそうですね」

 と言って、調理するシーンから出来上がったものを食するという、

「グルメレポート」

 などを見せているのを見て、

「おいしそうだ」

 と煽りに乗って、見た人間も食欲旺盛にされてしまうという、これも、宗教団体の専売特許である、マインドコントロールではないか。

「じゃあ、輪廻転生というのは、誰かの手によってつくられたものなのだろうか?」

 普通に考えるとそれはありえない。

 その理由としては。

「自然の摂理と切っても切り離せない関係にあるからではないか?」

 ということである。

 自然の摂理というもので一番大切なことは、バランスではないだろうか?

 相手があって、それぞれに関係性を保っているという時、多くの場合は、それぞれのバランスが大切になってくる。この自然の摂理というのも、そういうものであると考えるが、

「いや、自然の摂理がそういうものだというよりも、自然の摂理がその代表例であり、他のことは、まるで付属品と言ってもいいのではないだろうか?」

 何しろ、自然の摂理というのは、そのバランスが崩れれば、人間はもちろん、その一角をなしているものはすべてダメであり、そこに関わっているものは、ことごとく滅んでいくことだろう。

 どれかの種族が異常発生してもダメだし、逆に絶滅の危機に瀕してもダメなのだ。一つでもバランスが崩れれば、すべてに影響する。餌になる相手がいなくなれば、餌にする方も飢え死にということになり、さらに、飢え死にする種族を食してきた種族も、一網打尽で、飢え死にということになるのだ。

 しかも、それが、サークルになっているので、サークル自体がなくなってしまえば、自然環境も抑えがきかなくなり、猛威を振るうだろう。

「下手をすれば、その星の絶滅を示すことになるかも知れない」

 と言われ、まさに、

「国破れて山河あり」

 という言葉から、その山河までなくなってしまうということだ。

 まるで、地球誕生のビデオを逆再生しているようなものではないか?

 もし、

「惑星の最期」

 をシミュレーションするとすれば、

「宇宙からの外敵というものがない限り、地球内部のエネルギーバランスが崩れ、自然環境が、異常となり、生物の中には生存できない環境になることで、自然の摂理が崩れていき、いずれは、命あるものが、すべて死滅していき、その状態で、生命が生まれてくることなく、そこからさらに長い時間が掛かることで、地球は宇宙から消えていく。それが爆発によるものか、現象消滅によるものなのかは、これからの研究によるだろう」

 ということになるのではないか。

 地球の滅亡というものを、今の時点でも、基本的に、

「惑星の消滅の過程」

 ということで、研究は進んでいるだろうが、地球だけは他の星とは違うということを分かっているだろうか?

 地球には、自然環境というものが存在し、その存在している環境に、生物が無数に住んでいる。動物と植物の間に、

「自然の摂理」

 というものが存在し、自然環境が関わっての、実に見事なバランスが取られ、その惑星としては、そこまで長い期間ではないが、他の星には見られない素晴らしい時間を持てている。

 だが、今、過去において、似たような、いや、もっと優れた生物が生息していたという考えもあることから、ひょっとすると、

「彼らが、地球上の、自然の摂理というものを完成させたのではないか?」

 とも考えられる。ただ、彼らが、

「今の地球に、なぜ生息していないのか?」

 ということが大いなる疑問である。

「彼らの科学力によって、地球より住みやすいところを見つけて、そちらに移り住んだのではないか?」

 とも考えられる。

 そうなると、もう一つ、人間の起源というのも、同じことが言えるのではないだろうか?

 というのは、人間の祖先は宇宙からやってきた地球外生物で、

「母星がまもなく滅びる運命にあるので、移住先を探している生命体だったという説」

 が一番大きいが、他にもいろいろ説はありそうで、それは、それぞれに五十歩百歩で、いまいちの説得力ではないだろうか?

 さすがに、そんな行動な生物を、

「生命体」

 と表現するのも、ある意味、

「人間至上主義だ」

 とは言えないだろうか?

 どれだけ人間が優れているというのか、事実を知らないのは、それこそ、人間だけなのかも知れない。

 ただ、とりあえず、ここでは、一旦、便宜上、人間との区別をつけるという意味で、誠に失礼とは思うが、

「生命体」

 として表記させていただく。

 その生命体は、とにかく、どこかの住みやすい宇宙に飛び出していった。そこで、宇宙連邦の存在を知り、自分たちもその中に組み入れてもらうことにした。さすがに、生命体の持っている科学力では、宇宙連邦にはかなわない。

 もし、かなうものだとしても、戦争になれば、圧倒的に不利なのは分かっている。数的にもまったく不利だし、相手には後方部隊が無数にいるのだ。歯向かうだけ無駄である。

 彼ら生命体は、まず、

「いかに生き残るか?」

 ということを考える。

 我々地球人であれば、変にプライドのようなものがあって、

「奴隷になるくらいなら、戦って滅亡する方がマシだ」

 と考える。

 その根拠は、相手がどういう種族か分からないということで、絶えず最悪のことを考えるというDNAが遺伝子としてずっと残っているからだろう。

 だが、問題はこのDNAがどこから受け継がれたものかということだ。

 人類というものを作ったのが、神だとすれば、神がそういう遺伝子までも作ったということであろうか?

 ただ、神が人間を作ったのは、ひょっとすると、地球を捨てて去っていった、例の生命体に由来しているかもしれない。

 神が、もしかして、

「かの生命体と同等の種族が存在しなければ、人間を創造したその時代にも、自然の摂理が必要だった」

 と考えれば、生命体の代わりになるものを作る必要が急務であり、新しく作っている暇がないとすれば、

「あの生命体に似せた種族であれば、作ることは、さほど難しいわけではない」

 ということで、最初に一度、コピーして、そこから、不要なもの、そしてあってはいけないものを取り外した中で、人間に、生命体だった頃の記憶を消去させる必要性から、例外的に、神というものの存在を意識させ、

「人類は、網によってつくられたものなのだ」

 ということにしてしまえば、神が人間の傀儡として、この地球に、

「最高の生命体」

 としてのプライドも一緒に組み込むことで、自然の摂理も守れるし、一石二鳥だと考えたのではないだろうか。

 そのため、人間は、神を信じるようになり、プライドも持つ存在になった。

 これは、神が、人間を創造した時の副産物であり、ある種、仕方のないことではないだろうか。

 それを思うと、

「人間至上主義」

 というのも、致し方のないことなのだろうが、そのプライドであったり、神に近い最高に高度な知能を持ったがゆえに、争いであったり、殺人などのように、自分たちの私利私欲だけで神の意思に抗うという、そんな生物になってしまったのだ。

 いわゆる神からいえば、

「自らで、フランケンシュタインを作ってしまったようなものだ」

 といえるのではないだろうか。

 それを考えると、

「人間というものを作り上げたことが、本当によかったのかどうか、何とも言えないが、今人間を滅ぼすわけにはいかない」

 ということで、宗教において、聖書のようなものや、戒律などを、人間に課しているのではないだろう。

 その正体や、思惑がどこにあるのか分からない。

「だって、人間なんだから」

 としか言いようがないだろう。

 そもそも、

「人間至上主義」

 というのを、唱えたのも人間、そして、人間至上主義というのを分かっていて、それを否定しようとするのも人間。しかし、なるべく目立ちたくはないだろう。

 なぜなら、何かの思惑を持って人間至上主義を否定したいのだとすれば、それを否定するには、何か思惑がなければいけないと思う。普通であれば、自分たちの人種が一番だということを、公表したいと思うのが、人間の本能のようなものだと思うからだ。

 それを敢えて否定するというのは、他の動物に対してではなく、人間自身に対してだ。

 この地球上で、人間が何かの動物に対し、態度以外の言葉で、説得や威圧ができる高等動物は、存在していない。

 もっとも、存在していないというのは、これも人間の目から見た理屈であり、知らないだけで、存在しているのかも知れない。

 しかも、相手は、最初から人間が奢っているということが分かっているので、ちょっとした錯誤をさせることで、

「人間など、簡単に欺ける」

 と思っているのかも知れない。

 そんな生物が存在しているとすれば、その先祖は間違いなく、地球から撤去していった生命体ではないだろうか?

 つまり、今、人間以外に知的生命体の存在が証明されれば、一足飛びに地球上に、かつていた、人間を超える知的生命体の存在を否定できないだろう。証明という形になるかも知れない。

 もし、人間が、

「人間至上主義を否定しよう」

 と考えるのであれば、その人は、どこまで分かっているのかまでは想像できないが、少なくとも、現在地球上に、人間以外の知的生命体が存在していて、

「ひょっとすると、我々人類に、何か新たな何かをもたらそうとしているのかも知れない」

 と考えられるのではないだろうか?

 もし、それが、

「彼らによる地球征服計画」

 であったらどうだろう?

 ただ、これはあくまでも、

「知的生命体」

 というほど、高度に発達した生命体は、

「漏れなく、征服欲を持っている」

 という固定観念から発展した考え方であった。

 かなり偏った考え方ではあるが、まったくの間違いだともいえないのではないだろうか?

 それを考えると、人間の中の誰かが、別の知的生命体の存在を見つけた時、どう感じるかということで、下手をすれば、人間の運命が決まってくるのではないかと考えると、恐ろしいというものである。

「人間はあくまでも、地球上で最高の生物であり、地球の征服者なんだ」

 と、まず間違いなく。すべての人間がそう思っているに違いない。

 そうでなければ、安心して暮らすこともできなければ、征服欲もない。

 さらに他の動物は、自然の摂理のために、

「やむを得ない場合にのみ、狩猟などを行い、生きるために仕方なく、殺生を行うが、人間は、私利私欲のために、簡単に生命体の命を奪う」

 と言われるではないか。

「欲のため」

 すべては、その一言で片づけられるものであり、それ以外でも何でもないのだ。

 それこそ、人間という生命体が、

「至上主義を持っていなければできないこと」

 であり、持っているからこそ、

「欲のために、他の生命体の命を奪っても、悪びれることはない」

 ということである。

 もし、人間よりも優れた生命体がいて、人間も他の生命体と変わりのないものと見ていたとすれば、人間を滅亡させることくらい、朝飯前だというものだろう。

「至上主義」

 彼ら生命体も、人間と同じものを持っているのだとすれば、人間が至上主義を唱えるのは、恐ろしいだけである。

「至上主義」

 を否定する人は、そんな生命体の存在を知っているということなのではないだろうか?

 そして、人間至上主義というものが、いずれ、

「悪意を持った魂」

 として君臨することを、この時は、誰も知らなかったのだ……。

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