第2話 過去の「人類に匹敵する種族」

 人間はそんなことは関係ない。しかし、宇宙人は、地球という、

「摩訶不思議に見える星」

 に対して、それなりに先のことや、この宇宙全体のことを考えていた。

 少なくとも、その星は、地球よりも文明が発達していて、宇宙における自分たち、さらに自分たちから見た宇宙という関係性が分かっていた。

 そして、地球人というものが、どれほど彼ら地球人というものを分かっていないか。それは、

「宇宙の中での地球という星の立場」

 というものであり、そもそも、

「地球における人間というものの立場」

 ですら、何も分かっていないのだ。

 地球人は、自分たちこそ、地球の代表のように思っている。だが、地球上では、他の星に存在しない特殊な関係性が存在していた。

 それが、自然の摂理によって形成された、他種族共存においての、

「優位性」

 というものだった。

 なるほど、人間というのは、ある星が生まれて、その星の生物が、どんどん発展していく中で、まるでウイルスのように、変異していき、どんどん苦闘な動物に生まれ変わっていく。

 最初は単一種族だったものが、まるでネズミ算式に、長い年月をかけて、変異していくのだ。同時に別種族が変異していく。最初はそれが細胞分裂のように別れていっただけのものであったが、そのうちに、ある程度の数の種別に落ち着くと、そこからどんどんと、それぞれが同時進行で、繰り返される変異で、それまでは、大差のなかったそれぞれの種族に、次第に明らかな優位性が現れてきた。

 というのは、明らかに変異の違いによって、差別化されていき、高等生物と、原始動物とに分かれてくるということだ。

 その分かれ方は、時間が経てば経つほど、歴然としてくるのであった。

 その中には、史上最強の力を持つことで、いかにも、弱肉強食の時代を作ってきた恐竜というものの栄えた時期があった。たぶん、その頃から、

「自然の摂理」

 なるものが形成されていったのであろう。

 動物と、植物に分かれ、同じ動物の中にも、

「食う者、食われる者」

 という両者が現れ、それが宿命であるかのように、当時の、

「社会」

 を形成していたのだ。

 そんな時代が、かなりの間続き、地球は、氷河期を迎えた。

 それまで、栄華を誇ってきた恐竜は死滅していき、

「地球を代表する」

 という動物は、現れなかった。

 また、氷河期においても、生き残れるという単細胞であったり、原始動物が、生き残ってきたことだろう。

 そんな時代を、

「時代が逆行している」

 と見るのか、それとも、

「時代は時系列に沿って進んでいる」

 と見るのかは、同時の原始動物に分かるはずもない。

 氷河期という時代が何度か訪れ、今の現代から見て、最後に終わった氷河期から見て、そこから、いわゆる、

「ホモサピエンス」

 と呼ばれる、いわゆる、

「地球人の祖先たる種族」

 が生まれてきた。

 彼らは、原始動物から、高等動物への階段を着実に上っていき、本当の高等動物へのステップアップするための、スピード感を身に着けた種族だったのだろう。

 身体の曲がった状態から、次第に二足歩行が、自然な動物へと変化していき、次第に人類というものが出来上がってきた。

 彼らは、狩猟をするのに、武器を使い。集団で行動することを基本とする種族であった。そのうちに、火を使うことを覚え、ここに至って、現代人が形成されるべき、人類の先祖が確立したと言われる。

 気になるのは、

「そんな人類の先祖と言われるような種族が生まれてくるまで、地球を支配していた種族は何だったのだろう?」

 ということである。

「本当にそんな種族が、かつて存在したのか?」

 という疑問であるが、そもそも、地球上に、他種族が存在するようになってから、地球で代表する生物がいなかったのかどうかである。地球というものを創造した、

「創造神」

 のようなものが存在していたのであれば、生物の中に、

「地球の代表を作っていてもいい」

 といえるのではないだろうか。

 つまり、人間というものが、今の時代では、

「代表として君臨している」

 というのであれば、例えば恐竜がいた時代、

「本当に恐竜が、地球の代表なのか?」

 ということに関わってくる。

 要するに、

「その当時の資料や、存在を裏付けるものが何も残っていないことで、我々人間の頭では、創造することのできないような高等生物が存在していなかった」

 とは言い切れないだろう。

「一切、生存をうかがわせるものが何も残っていないということであれば、その高等動物は、滅亡する際に、自分たち生存した証拠を、決して未来に残さないように生存の形跡を消し去ることができるだけの文明を持っているのかも知れない」

 これが意味するものとして、

「人間というものは、自分たちだけが、地球の代表のように思っている」

 ということは、かつて、存在していたかも知れない、

「高等動物の先祖」

 ただし、あくまでも、

「決して、人間の先祖だとは言っていない」

 という但し書きがつくのであるが、彼らは、

「人間と根本的に違うものなのか?」

 いや、違っている種族なのかも知れないが、

「高等動物というものになればなるほど、高等動物という宿命を背負っているということになり、彼らも、地球の代表として君臨はしたが、その知能と科学力によって、自分たちがどこまで存在できるのかということも分かってしまっていたと考えられる」

 と考えて、さらに考えは深まって、

「そうなると、これから再度生まれるであろう、自分たちの子孫であるかも知れない、新たな種族に、自分たちの文明を託してもいいのだろうか?」

 という感情である。

 彼らは、それなりのプライドを持っていたことだろう。

 プライドというのは、ある程度の高等動物以外には持てるものではない。少なくとも、感情のある動物以上でなければ、持っていたとしても、

「宝の持ち腐れ」

 ということになるだろう。

 そうなると、そのプライドの高さは、進化の度合いに比例しているとすれば、彼らが自分たちの存在を一切、後世に残さなかったのだとすれば、それは、人類から見ても、想像もつかないほどの知能と文明を持った。当時を明らかに支配していた、

「地球の代表」

 にふさわしい種族だったのかも知れない。

 もし、創造主というものが、人間が信じている、

「神」

 という存在だったとして、神というものの存在をいかに裏付けるかということになる。

「もし、創造主が、地球外の生物、しかも、人類や、過去の存在した、人間よりもはるかに深い知能を持った種族よりも、さらに上の宇宙人であろう」

 そう考えると。

「創造主=宇宙人」

 という側面も、前述の流れで十分に考えられなくもない。

 そんなことを考えていると、

「地球の代表者」

 として、かつての文明人と言えるような人が、当時の宇宙人と、対等に渡り合い、交渉の場につけていたのかも知れない。それは、今の我々、つまり人類には想像もつかないようなことであるが、それも、

「過去の文明人が、その後の文明人に何も託さなかった」

 ということの証明になるのだろう。

 過去の文明人とは、果たして、どんな人種なのだろう?

 ここで、敢えて人種と言ったのは、現代の人類のせめてもの抵抗のようなものかも知れない。

 相手は。未来において起こってくる今の人類など、最初から眼中になかっただろうから、きっと、生まれてきた我々という人種の存在に否定的だったのかも知れない。あくまでも、勝手な想像でしかないので、過去の種族が、せめて自分たち人類の元となっていて、未来に存在している自分たちが、いずれ過去に存在した高等動物よりも、上の存在になるのだというような妄想と言ってもいいものなのだろう。

 どうしても、

「各論的に見ていき。最後に総論に辿り着きたい

 と感じていた。

 まずは、前提として、

「彼らが、現在の人類よりも、高等な文明を持っていた」

 ということ、

 その根拠として、当時の地球は、まだまだ発展途上の、原始的な動物が多く生息していて、その中には恐竜のような驚異的な力を持った種族であったり、原生林のようなジャングルも、恐竜の大きさに合わせたかのような大きさがあった。

 ということになると、彼らは、人間とは比較にならないほど大きな生物であり、限りのある大きさの地球というものを、今の人類よりも、少し小さく感じていたのかも知れない。

 そして、地上世界に住むにしても、地底に人類の世界を築くにしても、今のような

「住みやすい気候」

 ではなかっただろう。

 ただ、これも、今の人類だから見えることであって。当時の人類は、

「この世の中が一番住みやすい世の中だ」

 と思っていたかも知れないのだ。

 ということは、どういうことなのかというと、

「彼らは肉体的にも、今の人間よりも、はるかに強靭だったのではないか?」

 といえるということだ。

 それを認めたくないのは、

「神は二物を与えず」

 という言葉から発想されるものだからではないだろうか。

 つまり、

「頭脳は、今の人類に比べて、はるかに発達しているのに、肉体まで強靭だというのは、あまりにも都合がよすぎる」

 と考えるのであろう。

「いや、本当は、人類至上主義を訴えたいことで、本来は、過去に、自分たちよりも発達した文明があった」

 などということを認めたくないということなのであろう。

 それは、今の人間の特徴であり、他の動物にはないことだということで、悪い側面もありながら、

「一番人間らしい感情」

 といえるのではないだろうか。

 そんな彼らには、どんな感情があったというのだろうか? 今の人間のような嫉妬心があったのだろうか?

 嫉妬心というのは、人類だから存在するものではないだろうか?

 男女の関係において、思春期、つまりは他の動物であれば、発情期というもの。

 他の動物だって、求愛行動を取るということは、研究によって明らかになっている。

 それぞれの動物の種族から、その品種くらいまで落として、その求愛行動が分かるようになってきているではないか。

 そういう意味では、そのうちに、

「動物には感情というものが存在するというのだろうか?」

 あるいは、

「感情が存在したとすれば、そこからの発展形である嫉妬というものは、生まれるのであろうか?」

 ということが分かってくるまでは、時間の問題なのかも知れない。

 そのあたりの、

「同時代における他種族の感情や、その反応」

 ということが、少しでも分かってくれば、

「過去に人類と同等か、それ以上の種族が存在したかどうかということを、ある程度まで、証明できるのではないか?」

 というものであった。

 嫉妬心というものを、持っていたとすれば、実は嫉妬心というものには、異性に対しての、

「本能」

 というものとは、少し違う、

「欲」

 というものが存在したのではないかと、今の人類なら考えるであろう。

 何かを考えるということは、まず最初に、

「比較」

 というものから入るものだ。

 かつて存在した、

「人類に相当する」

 といえる種族であれば、今の人類と自覚対象になりえるはずだからである。

 その存在すら疑問視されているものだけに、どこまで比較できるかというのは難しいが、

「学者先生」

 や、その道の権威である、

「博士」

 と呼ばれるような人たちであれば、容易に検証できるものではないだろうか?

 現在においての人間の嫉妬として、出世欲であったり、

「存在意義を最大に見せたい」

 あるいは、

「成功者となりたい」

 などという、これも一種の欲というものが、嫉妬を生むのである。

 だが、これは悪いことではない。そもそも、嫉妬心というものは悪いものだということではないはずだ。

 嫉妬心というものを言い訳にして、犯罪が成立してしまうことで、嫉妬を悪いことのようにいうが、悪いのは犯罪行為であり、嫉妬ではない。嫉妬心というものを否定してしまうと、発展性がそこで止まってしまうといっても過言ではないだろう。

 そのことを考えると。

「過去の種族は、そんな嫉妬心すら感じないほどに自分たちに自信を持っていたのかも知れない」

 と言えないだろうか?

 自分たち個人個人には自信というものが満ち溢れていて、まわりに嫉妬をするというのは、自分に自信がないからだ。

 何かに成功したい、手に入れたい。

 と思えば、

「まずは努力をすること」

 そこから始まるのではないだろうか。

 それを最初から身に染みて分かっているのであれば、

「嫉妬する暇があれば、努力をする」

 と考えることであろう。

 だから、彼らは、

「お互いを助け合う」

 ということはしない。

 今の人類から見れば、

「何て冷たいんだ」

 と感じるだろうが、それは違う。

 お互いに助け合うということを、意識することなくできているということであり、それぞれに自信をもってやっていることで、

「助け合う」

「まわりに気を遣う」

 などという感情はなくなり、それは持って生まれた本能だとでもいうような感覚になっているに違いないのだ。

 ということを考えていると、

「やつらは、感情も本能の中に取り入れることができる種族で、それが、自然とそうなったことなのか、それとも、彼らの科学力のなせるわざなのか、そのあたりはよく分からない」

 といえるのではないだろうか?

 そうなると、分からないことが多いわけだが、もし、本能に吸収される以外の感情を持っているのだとすれば、

「彼らは、今の自分たちの出現を予知していたことになりはしないか?」

 と感じるのだ。

 もちろん、出現の予知というのは、彼らの中で自然発生したものではなく、彼らの科学力が予知したものなのかも知れないが、その未来人、いわゆる、

「現代人」

 よりも自分たちの方が文明的にも、考え方も勝っているということを、知っていたとしても、無理でも何でもないことなのだろう。

 その感情の中に、少しでも、

「恐怖」

 というものが芽生えていればどうであろう?

 彼らの中に、自分たちがどれだけこの世にいられるかということを分かっていたのかということをどこまで知っていたか? それは科学力を考えれば、容易に想像はつくというものだ。

 今の我々にだって、

「このままいけば、何十年か後には、どのような状態になっているかなどということは、シミュレーションできる時代になってきているわけである」

 人間が快適に生きていける限界、それは、一体どういうものなのだろうか?

 今のような、異常気象や天変地異。それによって、二酸化炭素の量など、今の科学力でも十分にシミュレーションができる。

 問題は、

「それをいかに阻止できるか?」

 ということである。

 そういう意味で考えてみれば、過去における、

「人類よりも、はるかな文明を持った種族」

 というものが、氷河期というものを想定できなかったわけでもないだろう。

 ということは、

「あの過去にあった氷河期というのも、実は、今の人類が開けてはいけない、パンドラの匣を開けてしまったのと同じことではなかったか?」

 とは考えられないだろうか。

 いわゆる、自然破壊がもたらす、一種の、

「世界を破滅させる、リーサルウエポンとでもいうべきか」

 そんなものが生まれるのを、本当に阻止できなかったというのだろうか?

 確かに、彼らは食事もしない種別で、自然界の摂理に直接かかわる種別ではなかったとしても、恐竜のような下等動物などに、

「自然の摂理」

 であったり、

「このままいけば、世界が亡んでしまう」

 ということを言っても、分かるわけもないし、本能から、自分たちがどちらにしても、死滅してしまうということが分かったとしても、どうすることもできないだろう。

 だからと言って、恐竜の死滅を急いだとすれば、それは、

「自然の摂理」

 のバランスが崩れるのを早めるだけであって、何の解決にもならないということだ。

 きっと、彼らも、

「手の施しようがない」

 と感じたことだろう。

 ここで一つの発想が浮かんできた。

「過去の人間の想像を絶する彼らは、自然の摂理に直接関係はない」

 と考えているが、それは、実は、今の人間のいう、

「ロボット人間」

 なのではないか?

 という発想である。

 ものを食べることもしなければ、他の種族から見ての、

「食べられる側」

 というわけでもない。

 つまりは、

「我々は、知能を持った、身体はロボットもしくは、アンドロイドのようなものではないか?」

 という発想である。

 さすがに、自然界の摂理の崩壊で、彼らは滅んだわけではない。ただ、それが、

「原因とまったく関係のないことだ」

 というわけでもないのだ。

 つまりは、自然界が崩壊することで、地球が危ない環境になり、生物はおろか、ロボットも済めない環境。たとえば、

「氷河期の訪れは、太陽光が遮断されたことにより、地球が突然凍り付いた」

 と解釈されるが、

なぜ、そんなことになったのか?

 今の世の中では、

「地球温暖化」

 と呼ばれていて、それは、

「成層圏におけるオゾン層の破壊が原因だ」

 と言われる。

 だから、カーボンニュートラルなどという言葉で、

「二酸化炭素の放出を防ぐ」

 ということで、自然エネルギーに変わるものを、急ピッチで開発しようとしているのではないか。

 石油や石炭。さらには、全世界的に問題になっている、

「原子力」

 などというものをいかに排除する形で、運営していくかというのが、現在の人類の課題だといえるだろう。

 かつての、高レベルの種別も、今の人類と同じことを考えていたはずで、考えが至らなかったのか、それとも、

「時、すでに遅し」

 ということだったのか分からない。

 きっと彼らとすれば、今の時代に、何かを残すだけの余力が残っていなかったのか。最後の最後まで抵抗を試みたため、そんな時間がなかったということなのか、今の時代に伝えるものが何もないということに対して、少しは憂慮した考えを持つとすれば、こうなるのであった。

 人間というものすべてにいえるかどうか分からないが、概念としてあるもので、

「過去の存在はすべて、今より劣っていて、時系列とともに、発展していっているのだ。もし、逆に過去に自分たちより発達した人類が存在したとすれば、それは、自分たちの祖先ではなく、本当に同じ星に存在したものではない。次元というものが違ったところで生きていた種別なのかも知れない」

 と考える。

 人間になってからでも、聖書の中にある、

「ノアの箱舟」

 という話である。

 あれは、創造主である神が、当時のダラけた様子を見て、

「これは、一度、すべてを葬り去って、新しく作り出す世の中に活路を見出す」

 ということで、ノアに命じて、箱舟を作り、そこにすべての種類の1つがいだけを残して、後は洪水として、すべてを押し流してしまうという、一種の、

「洗浄効果」

 というものではないだろうか?

 その発想は、

「生命を作った神と存在が、造り上げたものに自分たちで不満を感じたから、皆葬って、また一から作り直す」

 ということで、それが一種の、

「世界最終説」

 なるものに結びついているのかも知れない。

 宗教というと、

「今の世の中ではどうにもならないが、未来で幸福になるために、それだけのために、今を生きる」

 という発想が多い。

 しかし、逆にいえば。

「あの世や来世など見えるわけがないので、もっともらしいことを言っても、分かることではない」

 といえるのではないだろうか?

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