世界の滅亡かあるいは尊厳の敗北か

カプサイズ

それでも俺は......

俺は走っている。

嘘だ。俺は心で走っている、身体はゆっくりと歩みを止めない。

俺は乗っていた電車を途中下車し、ゆっくりとその場所を目指す。

トイレだ。

俺はトイレを目指して進んでいる。

本当は今から就活の最終面接だったが、俺は便意には勝てず途中下車しトイレへ向かっていた。別に今日の企業が第一希望の企業という訳でもない。

彼此、20社くらい受けて最初の最終面接だったというだけだ。5社目を超えたあたりから、入社したいかどうかなどどうでもよくなっている。

入社できれば良い。そんな心意気で望んでいる。

そんなだからか、それとも今朝食べたパンがカビていたのか今更わからないが、俺の腹は限界を迎えている。今はHPをすり減らしながらトイレへ向かっている。

不思議と足取りは軽い。よく便意の限界になると動けなくなるというが、俺はそんなことはないようだ。つまりまだ多少の余裕があるのか?

しかし、便意に油断は禁物だ。一寸先は限界という可能性もある。

便意には波がある。今は幸いにも引き潮というだけだろう。今のうちにトイレにつけば御の字だ。そうすれば今日の会社にもすぐ連絡できるだろう。

ホームの階段を下り、トイレの標識を探す。

ここの駅には初めて降りた。ローカル線でもないし、複数の路線の乗り換え駅だ。大丈夫、必ずトイレはある。

人通りは多い。通勤時間だからだろう、乗り換えの人も多そうだ。トイレの標識はまだ見えない。


「まさか......」


一つの標識が目に入る。それは明からに一部をテープで隠している。俺にはその部分に何のマークがあったのかわかってしまう。

トイレだ。確実にあのスペースにはトイレのマークがあるはずなんだ。ホームを下り、ざっと見たところ他に標識はない。数ある駅でトイレに行った俺にならわかる。あの標識にはトイレへの矢印があったはずなんだ。けれど、それが消されている。

改修工事か。なぜ、よりにもよってこのタイミング工事なんてしてやがるんだ。

俺が使うはずだったトイレだぞ。駅名すら覚えていない駅に対して俺は行き場のない怒りをぶつけてしまう。


「ふー」


一呼吸置く。この規模の駅にトイレが1箇所とは考えにくい。大丈夫。幸いまだ俺の便意は引き潮だ。俺はトイレマークのない標識とは逆方向へ足を向ける。

そうだ、良かったじゃないか。標識に従って行った先のトイレが改修工事だった訳じゃないんだ。むしろ、標識をテープで直しているこの駅は良い駅じゃないか。便意の余裕は気持ちにすら余裕を与えてくれる。

少し歩く。標識はまだない。一瞬駅員さんに声をかけようかとも思った。けれど、今は立ち止まる時間すら惜しい。俺は方向音痴じゃない。標識さえ見つければ確実にトイレに辿り着くことができる。それに朝の忙しい時間に駅員さんに手間を取らせるのも悪いだろう。俺レベルのトイレハンターにもなれば、駅員さんへの気遣いも忘れない。

また歩く。人通りは多い。......思ったほど早く歩けない。どうしてこう、人通りが多い場所は歩く速度を制限されるのだろう。人を抜かそうと斜めに多少歩いてみたが、それでも上手く抜かせない。もっと急いでくれ、俺はトイレに行きたいだけなんだ。下を向きながら出勤に絶望するサラリーマンたちは、まるで俺のトイレまでの道のりを邪魔する門番のように思えてくる。

徐々に俺の腹部の様子が変わってくるのがわかる。波がくる。

大波だった。やばい、本当にやばい。全身の汗腺が開き、汗が吹き出すような気分だ。脂汗?冷や汗?もうどちらでも良い。先ほどまでの生やさしい便意は俺を油断させるための罠だったかのように、大波の便意が俺を襲う。卑劣な罠だった。俺の余裕は瞬く間に崩壊する。今すぐ、俺のトイレまでの道のりを邪魔するサラリーマンたちを蹴散らし、トイレまで走っていきたい。苛立つも人の流れは早くならない。それにトレイの標識もいまだに見えない。今の俺ならどんな暴力的な行為だって平然とできそうな気がする。それくらいには限界だッ!

早く進め!と願っていると、少しひらけた場所に出た。しめた!俺はサラリーマンたちをごぼう抜きし、ひらけた場所の見晴らしの良い場所まで早足で進む。


「あった!」


トレイの標識を見つける。複数の出口や乗り換え案内に並び記載されるトイレのマーク。マークを見ただけで、少しだけ救われたような気分になる。


「380m」


嘘だろ。トイレマークの下には380mの記載がある。

遠い。遠すぎる。どういうことだ?なぜそんなに遠い?もしかしてトイレを一つ見逃しているのか?そんな不安が頭をよぎる。どうする?一度戻ってトイレを探す方が近いか。いや、無理だ。そんなあるかもわからないトイレに運命を委ねる訳にはいかない。目指すしかない、380m先のトイレを。俺はそう迷いを断ち切り決心した。

そして、380m先のトイレを目指し、最大速度で歩き出す。呼吸は荒い、今の俺の眼力はそれこそ殺人鬼のようであろう。されど、今は仕方ない。仕方ないのだ。俺はトイレに行かねばならぬのだ。

人通りは変わらず多いものの、先ほどに比べれば幾らか減っている。これならひたすら人を追い抜いて進むことも可能だ。今この瞬間だけは、俺がこの駅最速の歩行速度だろう。それくらいの速歩でトイレを目指す。

気づけば波は去っている。今はある程度の余裕を取り戻す。ただ、もう油断はしない。このまま最速をキープしトイレを目指す。

380mを見た時は、絶対に無理だと思っていた。けれど俺はついに辿りついたのだ。トイレに。


「おぅ......」


男子トイレは外まで並んでいる。これはどっちだ?大か小か。それで俺の運命が決まるかもしれない。俺は満を持してトレイの中へ入る。そして列の先頭がどこにつながっているからを確認する。

大だ。大の列だ。これはヤバい。列の最後尾に並ばねば。俺は急いでトイレの外へ出る。何ということだ通勤時間。俺がトイレ内を確認している間にもトイレの列は伸びている。俺は一瞬諦めそうになったが、心を強く持ち、最後尾へ並んだ。

列が長い理由はわかった。個室の一つが故障中になっていたのだ。そしてこの駅の一つのトイレは多分改修工事中。ほどほどに利用者がいるこの駅で、利用できるトイレはここだけなのだ。そりゃ並ぶよ。


「ふー、ふー」


再び息を整える。波は高くない。まだ耐えられる。俺の心は折れてない。列の長さ的に10人以上待っている気もする。数えるのはやめておこう。今は厳しい現実に目を向けるよりも、ただ耐えるのみ。待つこと以外にできないのだ。大丈夫、列は少しずつだが確実に前へ進んでいる。


「やっと見つけた!」


声がした。聞きなれない女性の声だ。しかし、今はそれどころではない。無心だ。今はただ、大波が来ないことを祈ろう。


「あなた桐島昂キリシマノボルさんよね?」


俺のフルネームを言われた。流石に無視できないか?俺はゆっくり女性の方を見る。10代後半くらいの女性だ。知らぬ顔。知り合いにもいない。俺は自慢じゃないが彼女いない歴=年齢である。なので、もちろん元カノという線はない。兄弟もいないし、部活も入っていたことがない。言っちゃ何だが、女性の知り合いは昔の大して話したこともないクラスメイトしかいない。俺はフルネームがバレるような有名人でもない。少なくとも年下の女性に知り合いは絶対いないのである。

普段なら何か聞き返すところだろうが、今の俺にその余裕はない。無言でただ相手を見た。


「あ、えっと私は......」


彼女は少しモジモジしながら何かを考えている。


「あの......場所変えてもらっても大丈夫ですか?」


今は男子トイレに入るか入らないかの列の途中である。確かに会話をする場所ではない。ただ、ここから動くという選択肢は俺にはない。波が来そうな気配がするのだ。俺レベルにもなると、予兆すら察知できるようになるのだ。


「後でいいですか、今死活問題なんです」


俺はそれだけ言うと列の方を向く。一瞬後ろを見てみるが、やはり列の長さ自体は俺が並んだ時と変わってはいない。つまり、ここでもし列から出たら待ち時間はリセットされる。無理だな。論外だ。その選択肢は俺にはない。


「え?いや、あの、こっちも、え?」


俺の反応が予想外だったのか、女性はとても狼狽えている。

ごめんな。俺だって、本当は詳しく話を聞きたい。けれど、今はそれどころではない。便意が俺の全てを優先している。


「すみません。こっちもとても急いでいるんです」


俺はもう一度彼女の方を見る。時計を仕切りに確認している。

ヤバい、大波が来始める。思考が回らない。もしや、この女性もトイレか?

あー、あー、もう無理、きつい。どうして俺はこんな目に会わないといけないんだ。


「ここは男子トイレの列で、女子トイレはあちらです」


俺はギリギリの精神で、女性に回答をする。そうか、きっとこの人も俺と同じなのかもしれない。よかったな、女子トイレは多分空いている。少なくとも外までの列はない。今だけは女子を名乗って女子トイレに駆け込み個室で用を足したい。というかトイレに行ければもう他の尊厳は捨てても良いかもしれない。

限界だ。心が折れる。


「違います!私は別にトレイに行きたい訳じゃないです。私は──」


女性は怒った。


「俺はトイレに行きたいんです」


女性が何か言いそうだったが、俺は遮って答えた。

トイレに行きたくないなら、俺に話しかけるな。俺は今トイレを求めている。そのために最終面接を棒に振ってるんだぞ。


「ふー、ふー」


息が荒くなる。眼力で人を殺せるんじゃないかと思えてくる。今日一番の大波だ。もう、我慢の限界だ。どうして俺は今並んでいるのか、その理由すら忘れそうになる絶望感。今すぐ出してしまいたくなる。けれど、俺は耐えている。耐えているんだ。


「世界の命運があなたにかかってるんです!」


女性はそう言った。頭に入ってこない。

足が貧乏ゆすりを開始する。限界だ。100を超えたら決壊するところを120まで耐えてるような限界感。どうして、家を出る前にトイレに行かなかったんだろう。

あの時、トイレに行っておけば、俺は今こうしてトイレに並ぶこともせず彼女の話に耳に傾けることもできただろう。けれどそれはならなかった。無理だった。だって、家を出る前は最終面接に間に合うように急いでいたし、何より、あの時は便意がなかったのだから。


「私は未来から世界を救うためにあなたに会いに来たんです」


彼女も時間がないのか話し出している。ただ、全く頭に入ってこない。そして、列は進み俺は男子トイレに入る。


「え?ちょっと待ってください。もう時間がないんです。今すぐ」


彼女の話は無視して、俺はトイレに入る。個室はまでは後少しだ。これでやっと解放される。この地獄から、この戦いから。

俺の二つ前の人と俺の前の人が連続して個室に入る。良いペースだ。今は入れ替わりボーナスタイムか!きてる。来てるぞ。俺の番は近い。限界度は140と言ったところだ。気を抜けば漏れるというレベルは当に過ぎた。もはや、一手間違えれば崩壊するレベルだ。一挙手一投足、細心の注意を持って動くしかない。

誰かのベルトの閉める音、そして水が流れる音がする。これは誰かがもう出ると言うことどこかの個室が開くはずだ。来た。勝った。俺はやったぞ。


「ちょっとどいてください」


後ろが何やら騒がしい。しかし、もはや俺に振り向く余裕はない。

扉が開く。俺の未来への扉だ。


「昂さん!もう時間がないんです!どうか私の話を」


無視。と言うか、彼女は男子トイレまで入ってきたのか気合い入ってるな。

俺は扉の開いた個室へ歩き出す。


「時間がないんです!」


その声は泣いている。そして彼女は俺の腕を掴んできた。

ヤバい、本当にヤバい。


「やめろ。後にして」


俺は人生で初めて、女性の腕を振り解いた。

俺はそのまま、個室へ入りドアにロックをかけた。やっと、解放される。この絶望から。この苦難から。俺は解放されるんだ。確かな足取りで、ズボンと下着を脱いだ。便座を軽くトイレットペーパーで拭く余裕だってまだある。そして便座へ座る。

やっと俺は便意から解放された。

その時、聞いたことのない爆音と地響きが俺の耳に全身に届いたのだった。


それからしばらく後になってからわかったことだが、この日俺が個室に入った時に未曾有の世界大戦が始まった。そして俺はどうやら世界の命運を救う切り札だったらしい。まだ、何一つ理解できてはいないが、俺が未来から来たと言う女性の指示に従って、何処かに移動して誰かを倒したら戦争は回避できたらしい。

仮に戦争を止めるとから今すぐ一緒にきて!と言われたとして俺は彼女の手を取ることはできただろうか?無理だろう。俺はそれでもトイレを選ぶ。

あれから20年ほどの過ぎた。これから先、多分そう遠くない未来、俺は彼女を過去に送ることになる。俺はもう少し余裕を持って彼女を過去に送り出すことにしようと心に決めるのであった。



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