4.出会い、港町にて4

「何色の糸を買うの?」

「赤色。ハートを縫う分が足りないんだって」

 マルチナはソニアの手を引いて、色とりどりの刺繍用の糸がぐるりと円を描いて並べられている棚の方へ駆けて行った。その中から赤は赤でも特に鮮やかな赤色の糸をヒョイッと手にとると、得意げにソニアに渡してきた。

「はいっ、これが一番きれいな赤よ。でもその言い方だと、ソニアが使うわけじゃなさそうね」

「うん、母さんが使うんだ」

 会計台に向かう間、マルチナはソニアの手をしっかりと握ったまま、首をぐるぐる回して、店の中を余すところなく見回していた。

 本当にこういうお店に来るの、初めてなんだな。

「あ、見て、ソニア。あそこはレースの区画ね」

 マルチナが指さした西側の壁は、額に入れられた真っ白いレースの布がいくつも飾られている。

「雪の結晶みたいに細かくてきれいねえ」

「この街の職人さんが、一つひとつ手で縫ってるんだよ。『漁網があるところには、レースがある』ってことわざがあるくらい、港町とレースは昔から深い関係があるんだって」

「へえ、おもしろいわね!」

「あと、向かいの壁は、刺繍の絨毯が貼られてるよ」

 マルチナはバッと振り返って、「本当だわ!」と声を上げた。

「あれは少し遠くの街の名産品なんだって」

 東側の壁には、縦に大きい刺繍絨毯が三つ飾られている。そのうち、船のいかりや魚のシルエットを描いている左の絨毯が、ソニアのお気に入りだ。港町の雰囲気ににぴったりだからだ。

「ここ、小さいけど、すっごく素敵なお店ね! 気に入ったわ」

 すっかりごきげんなマルチナは、会計台のそばの棚に置かれていた青色の布でできた針山を一つ買うことにした。金色の糸でステッチされているところが気に入ったそうだ。


 店から出ると、西に見える海が真っ赤に燃えていた。目抜き通りを歩く人たちも、気まぐれにまどろむ野良ネコも、石畳も、青色のタイルも、夕日色に染まっている。まるで夕日の国のようだ。この光景を見ると、大人の言う通り、夕方もロマンチックだな、とソニアは思った。

 マルチナをチラッと見ると、景色よりも手の中の針山をキラキラした目で見つめていた。

 うれしそうにしてるところで悪いけれど、そろそろ本当に帰らなきゃ。

 ソニアは意を決して、口を開いた。

「……あの、わたし、本当にそろそろ家に帰らなきゃならないんだけど」

「あら、わたしはまだ満足できてないわ」

 マルチナはキョトンとした顔で、ソニアの手を握る力を強めた。

 こういうところはわがままお嬢様だ、と思わずにはいられず、ソニアは頭を抱えて口を開いた。

「付き合ってあげたいけど、今日は本当にダメなんだよ。ごめん」

「……それなら、ソニアのお家に泊めてくれない?」

「えっ!」

 マルチナは「シッ!」と言って、針山を持っている方の手の人差し指を口に当てた。

「あなたって声が大きいのね」

「別に、町娘ならこんなものだよ」

 恥ずかしくなったソニアが言い返したが、マルチナは大して相手にしなかった。

「あら、そうなの。まあ、いいわ。それよりも聞いて。家に帰ったら、またあのバカみたいに大きな塀に囲まれたお屋敷で、退屈に過ごさなきゃならないのよ。そんなのいや。お願いよ、ソニア。一日だけ泊めて。それで明日も一緒に遊びましょう。それで満足するから。あなたといれば、何でもできるんだもの」

 マルチナはそう言って、ソニアの手を握りつぶす勢いでギュウッと握ってきた。


 ここまでは付き合ってあげたが、正直なところ、ソニアはこれ以上協力したくなかった。

 近侍によってあんなにも必死に探されているということは、マルチナは本来は家を抜け出さない方が良いにもかかわらず、抜け出しているということだ。そんな子をかくまったせいで、父さんと母さんに迷惑がかかるのだけは避けたかった。


「……気持ちはわかるけど、一晩帰らないで、お父さんやお母さんは心配しないの?」

 困り果ててたソニアは、少し強い口調になってしまった。すると、急にマルチナの顔から表情が消えた。目も鼻も口も、ただ顔に張り付いている絵のようだ。

 マルチナはちょっと間を置いてから、サッと目をそらした。

「……それは大丈夫よ。あるとすれば、あの馬たちに雷が落ちるくらい怒られるだけ」

 そう答えたマルチナは、迷子で不安そうな、小さな子どものように見えた。

 そんな子の手を振り払える人がいたら、どうすればいいのか教えてほしい! とソニアは叫びたくなった。

 だってわたしにはできないもの。

「……それなら、訳を教えてよ。マルチナがお屋敷を抜け出してる訳」

 マルチナは耳の後ろの髪を指に絡ませて黙り込んだ。

 ウソじゃなくて、本当のことを、どう話そうか考えてくれているといいんだけど……。

「言いにくい訳なら、協力はできないよ」

「あなたに迷惑がかかるようなことじゃないわ!」

 弾かれたようにマルチナが声を上げた。サファイヤ色の瞳が濡れている。

「……恥ずかしいだけよ。ただの、わがままなんだもの」

 マルチナはきれいなピンク色の唇をギュッと噛み締めてから、口を開いた。

「……家では、嫌ってほど勉強と運動、それから、芸術鑑賞ばかりさせられてるの。顔を合わせるのは、つまらない大人ばっかり。一番興味がある魔法の勉強は、ちっともさせてもらえないし、気分転換に本を読んだり、お散歩したりすることもできない。やりたいことが、何一つできないの。……それが、いやで、腹が立つから、家を抜け出してるの」

 マルチナは赤くなった顔をうつむかせて、「子どもみたいでしょ……」とつぶやいた。

「……どうしてそんなに、大変な生活を?」

「……わたしがいつか、家督を継ぐからよ」

 家督を継ぐとは、その家で一番偉い人になるということだ。それはソニアもなんとなく知っていた。大変な仕事なだけに、学ぶことが多いのだろう。しかし、十二歳の頃から将来のために厳しくされるのは、確かにいやだろうなとソニアは思った。しかも休みが無いだなんて。

 ソニアもマルチナの立場だったら、家を抜け出すだけじゃなくて、家から逃げ出してるかもしれないと思った。それでもマルチナは逃げ出さずに、一日だけ自由になれればよいと言っているのだ。そう思った途端に、マルチナの手を離す気持ちは、ソニアの心の中から泡のように弾けて消えた。

「……それじゃあ一晩だけね」

 パッと顔を上げたマルチナの目は、西日で輝く海よりもキラキラしていた。

「時々友達が泊まりに来るから、急に泊まりに来ても、変には思われないと思う」

「ほ、本当に本当に本当、ソニア?」

「本当に本当に本当だよ、マルチナ」

 マルチナは飛びつくようにガバっとソニアに抱きついてきた。カモミールのような甘い花の香りがフワッと香る。

「ありがとう、ソニア! あなたのこと大好きよ!」

 マルチナの声は少しだけ震えていた。

 ソニアはマルチナの背中に手を回して、ポンポンと優しく叩いた。

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