#07 あの日の手記


 彼女と初めて会話をしたのは、入学してまだほんの数週間後の、とある昼休みのことだった。

 その頃はまだ寝たふりをしている僕なんぞに声をかけてくる人が結構いたのだが、コミュ障の僕にはそれに答えることすら苦行だった。

 完全に自分の殻に閉じこもるために、周囲のことには一切意に介さず、文庫本を読んで時間をつぶすような人間になっていた。

 我ながら協調性のないやつだ。 

 今思えばあの頃声をかけてくれた人たちは、割と優しい人たちだったのだろうな。


「なにすんだこの!」

「なんだよ、おまえこそ!」


 目の前で取っ組み合いをする二人の男子。

 もう名前すら覚えちゃいないが、その二人のことはよく覚えている。

 そこまで素行の悪い生徒ではない。

 喧嘩の原因は何だっただろう。

 小学生レベルのくだらない口論が、だんだんとエスカレートした、という感じだったと思う。

 椅子が倒れて痛烈な音が響くと、クラス中の視線が彼らに集まった。

 二人を煽る男子もいれば、やめなよと窘めようとする女子もいる。

 そんな殺伐とした状況は、不運なことに僕の席の目の前で起こっていた。

 部外者というにはあまりにも、二人の距離が近すぎたのだ。


 本を読むふりをして無視を決め込んではいたものの、なんだか周囲の視線が冷たい。

 薄情な奴だと思われていたのかもしれない。

 しかし、こういった荒事に僕が関わるのはとても場違いだと、当時は思っていた。

 普段からこうやって我関せずと過ごしてきたのだから、いきなりそんな浅い正義感をかざしたところで、周囲からはなんだあいつ、としか思いわないだろうし。


 いつものように気配を消して、石ころのようにやり過ごすのが最善だと、そう思っていた。


 ガコン、ガコン。

 さっきから僕の机に彼らの体がぶち当たって大きく揺れている。


「ちょっと誰か止めなよ」

「なんであの眼鏡は何もしないわけ?」


 ガヤがうるさい。

 そんなこと言われても、仕方ないじゃないか。

 居心地の悪さを覚えつつも、そんな状況に耐え忍んでいると、一人の女の子が乱闘の中心に近づいてきた。

 まだ髪を染める前の、黒髪の彼女だ。

 

「なになに? プロレスごっこでもしてるの?」


 下手な正義感とか、そういうものじゃないことはわかった。

 単なる好奇心で危険な動物に近寄る無垢な少女のように、彼女は男子生徒の間に入ったのだ。

 その笑顔は、彼らの心の隙間にいともたやすく入り込む。

 あの無垢な笑みを向けられれば、きっと獰猛な獣も戦意を喪失するだろう。


 その時の印象は、とても綺麗な女の人だった。

 そう、女の子ではなく、女の人。

 他の女子生徒とは一線を期すほどに可憐で、美しい女性。


 それなのに仕草や表情は、女の子らしい愛らしさにあふれていて、そんなチグハグさが妙に目を引いて、たぶんあの瞬間、誰もが彼女に釘付けだった。


「あ、うん……」

「そ、そうなんだよ。プロレスしてたんだ……」


 後になって考えると、そもそも『プロレス』なんて単語を彼女が知っている方が意外だったのだが、そのときはみんな彼女に夢中で誰も疑問になんて思わなかった。

 そんな些細なことは彼女を前にすればどうでもいいことなのだ。

 気づけば喧嘩をしていた二人は笑いあいながら肩を組んでいた。


「でもあんまり激しくすると周りに迷惑かけちゃうからほどほどにね」


 まるで我が子を諭すような物言いに、けれど二人はまんざらでもない様子で首を縦に振っていた。

 綺麗な子というのは、心もきれいなのだろうか。

 とにかく、喧嘩を見事におさめた彼女は、いつも絡んでいる女子グループのほうに向かって歩き出そうとした。


「おっと」


 なにか忘れ物をしたかのようにその場に立ち止まり、あろうことか僕なんかに向き直る。

 まっすぐこちらを見つめた彼女――高嶺朱里さんは僕に向けてまた、微笑んだ。


「ねぇ」


「は、はい?」


「本、逆さだよ?」


 それが、彼女との初めての会話だった。

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