第29話
ぽっくぽっくと蹄の音が聞こえる。狩衣姿の女は、白み始めた明空の、そのまた向こうの山際をながめた。
いつの間にか馬上で眠ってしまっていたらしい。彼女の愛馬は場上の主を振り落とすこともなく、彼女を西へと運んでいてくれた。馬上で目覚めた彼女は何とはなしに馬の鬣を撫でた。そして、顔を上げ、しばらく山向こうを見るともなしに眺め、そこで彼女は気づいた。
「ああこれ、逆じゃないの?」
彼女は独り言を言いながら自笑して、愛馬の足を止めさせた。「逆だよ、逆! こっちじゃなくて、あっちに行かないと」
栗毛の馬は哀れっぽい目で彼女を見上げた。
彼女は馬から降りると、近くの木の枝に馬の手綱を止め、その木陰に自身の体を休ませた。
ムシムシと生え草を食む馬を横目に、彼女は朝露に濡れる大木の幹に凭れて、まだ完全には目覚めきらないような朝の景色を見ている。
尻は多少痛かったが気分は悪くなかった。それどころか、爽快といっても良い気分だ。
確かに彼女の行動は計画的に行われたものではなく、衝動的で無計画なものではあった。頭に血が上ったそのままで、取るものもとりあえず飛び出してきてしまったせいで、万全な旅支度とは甚だ言い難い有様、ついウトウトウカウカ船を漕いでしまったせいで目的とは逆の方向へ来てしまったし、短気は損気、衝動的に物事を運んで良い試しなどあるはずもない。
それでも彼女は、そういう状況を楽しんでいた。なぜなら、それらは彼女にとってははじめての”体験”だったからだ。なんでも体験のうちは楽しい。それがただの生活になってしまえば、億劫そのものでしかなくなってしまうものなのだとしても……
彼女は携帯袋から焼米を取り出してポリポリとそれを齧った。当座の間は空腹もそれで凌げるかもしれない。しかし水分補給は? 携帯食料が尽きたら? いや、どうとでもなるだろう。街道沿いに歩いていけば、宿場もある、民家もある……
街道といっても勿論この頃はまともな整備が行われていたとはいえず、いわゆる宿場などもそれに似たものは点在しているがそれぞれがきちんと機能していたかといわれれば疑問だっただろう。関所などもあるにはあったが各地に然るべき人材を割いて居たともまた言い難い。無法地帯ともいえないが、それぞれの関所では、その場を本来管理すべき官僚ではなく各地に潜む盗賊、山賊の類が管理運営を勝手に行い、通行税などと称して銭子を巻き上げている場所もあるくらいだ。であるからして、朝廷の庇護下に無い単独での街道移動はどちらかといえば避けるべきではあった。
実際、彼女が再び西を目指して街道沿いをポックリポックリとやっていると、国境あたりで、むくつけき男の集団とでっくわした。
そのうちの主格筋らしき貂の毛皮をまとった髭面の男が、なにがしかの言葉を馬上の彼女に向けた。しかし彼女は涼しい顔で、馬上からそのものたちを睥睨し、言った。「私は朝廷からの使者である。またこの道中は帝の勅旨あってのものである。速やかに立ち去れば悪いようにはしない。それどころか今のうちに立ち去れば、おのれらにも住吉大社よりの加護があるだろう」云々。
彼女の口走った言葉はすべてでたらめでお上に対する敬意もへったくれもない、おおよそ不遜なものに違いがなかったが、それでも彼女を見つめる山賊どもの目に、畏怖に似た感情が走った。彼女の言葉は実際にでたらめではあったが、その言葉には威厳があった。威厳と、自信と、それから何をもを顧みない、冷たい無関心があった。
彼女の落ち着き払った態度とともに、彼女の身にまとう装束も、彼女そのものの権威を、見るものの目に印象づけた。光沢のある、さらさらとした鬱金色の狩衣姿の美丈夫の姿は、それだけでその言葉、行動に対する傾聴を配さなければならないような強制力を持っていた。それから彼女は少し笑った。するとなぜか、毛むくじゃらのその男たちは、怯えるような表情を浮かべた。
彼女はポクポク馬に乗って歩きながら、その日の宿を探した。後年において、街道沿いには宿場町が栄えたが、この頃にはまだまだ宿と立派に呼べるような建物は林立しておらず、ぽつぽつと、馬を休ませる程度の賤屋が点在している程度。彼女は夕日が沈みかけた山際を遠くに眺めながら、一晩の宿を借りるために、厩に馬をつけてから、その苔むした茅葺きの小屋へ入った。
小屋の中は外から見るほど古びているわけでもなく、人が寝泊まりする程度には充分な広さがあった。竈があり、人が数人寝転べそうな板敷きの間がある。梁からは干した魚だの大根だのが下がっていた。彼女は板敷きの端に腰掛けると、ほうとため息を付いた。
「……………」
つい、大した考えもなく屋敷を飛び出してきてしまったことを、反省しなければならない。無計画に行動に移したところで、目当ての人の正しい居場所を知っているわけでもない。けれど、あのままあすこにじっとして、女の身のままとなって一生を棒を振るようなまねをするよりは、よっぽどマシだろう、たとえ再び彼と相まみえるために、数年を要することがあろうとも……
私には、男に仕えるよりも、生き物を孕むよりも、もっとやらなければいけないことがある。彼女の頭の中には快い、なにか清々しいような快感があった。
コトン、と音がした。
彼女が入ってきた入り口とは別の、厩に通じる西の戸が引かれ、薄暗い室内に光が差した。彼女は顔を上げた。男と目が合った。その男は、長細く大きな黒塗りの箱を背中に背負っていた。男は彼女の存在を認めると、片手を動かして荷物を背負い直した。
「おい、じゃまだよ」
男の後ろから、別の男の声が聞こえた。男と彼女は同時に、その声の主の方へと視線を走らせた。男が戸口を退いて、小屋の中に一歩入ると、それと一緒に、後ろに居た男が顔をのぞかせた。「あれ、先客かな……」
その男と目が合ったので、彼女は立ち上がり、軽く会釈した。彼女の立ち姿を認めた男は、急に張り付いたような笑みを浮かべると、「あら、大変だ」と、持っていた鼓のようなものを地面に置いて、なにやらへりくだったような態度で、「まあ、こんなむさ苦しいところに」と、言った。
「お前の管轄じゃないだろう」箱を背負っている背高の男が低い声で言った。鼓の男は、それを無視して、彼女に話しかけた。「都からお出でで? 荘園の方へ御用か何かですか」「あ、いえ、私は……」「ご安心下さいませ、私達は他所へ移りますから。この家のものも無責任でね、山に山菜取りに一度出掛けると、なかなか戻ってこないんですよ。あたしらがよく言っておきますから」「他へ移る? 何故ですか」「だって都のお大臣様と、一介の芸人が同じ宿では何かと具合が悪いでしょう」「そんなこと。気になさらないで」「え?」男の動揺を他所に、彼女は続けた。「今からでは他の宿を探すといっても苦労でしょう。それに、私の見た限りでは、この近くに宿舎は見つけられなかったようですが……」「ああいや……でも、ねえ」
鼓の男は確認を取るように、隣でぼんやりと突っ立っている箱の男を見つめた。「いいんじゃないの。あちらが良いと言っていられるんだから」「でも……」
鼓の男は戸惑いの仕草をした。そして、戸口の向こうを窺った。
鼓の男の行動とは別に、背高の男は背負っていた箱をその場に下ろすと、瓶から水を汲み、足を洗ったり、草履を軒に干したりとどんどん身支度を始めていく。「あれ? えー、どうする?」
鼓の男は戸口の向こうの誰かに話しかけている。
彼女は、無造作に置かれた細長い箱を眺めた。い草のにおいがする。彼女は目を細めた。
「開けてみますか?」
低い、艶のある声だった。彼女は顔を上げた。新しい草履に履き替えた男が、土間に立っている。
黒く鳥の巣のようにねじれた髪が首元辺りまで伸び、四角い顔には不精髭が散っていた。日に焼け、カサついた赤茶けた色の肌と、静かな光をたたえた目は、彼女がそれまでに、あまり目にしたことのない姿かたちをしていた。「何?」
「箱」
「箱?」
「いいから入れよ。もう、俺は知らないよ」
戸口でガタガタと、男と女が口論している声がして、彼女は首を巡らせた。
「こっち!」
男の声がして、彼女は再び首を正面に向けた。
「うわあ!」
彼女はびっくりして、おもわず大きな声を上げてしまったが、男はそれが楽しかったらしくて、乾いた声を立てて笑った。
彼女のめのまえに現れたもの、それは大きな毒々しい色をした振分け髪の、童型人形だった。それが、黒い髪を振り乱して、彼女の眼前に突然躍り出た。童型人形は左右に揺れた後、その横から男が顔を出した。「びっくりした?」
「……………」
「ほら、ご挨拶しなさいよ」
「……………」
彼女が男の質問に答える前に、別の男が見慣れない女を引いて、彼女の前へ立った。麻のそまつな小袖姿をした、小作りの女だった。しかしその眼光はするどく、ぎらぎらと白目を濡らした目をして、その少女は彼女のことを見ていた。
「ほら、挨拶」ただ黙っているだけの少女の言葉を促すように、鼓の男がせっつく。
「……………」
「お前、挨拶くらい……、ああごめんなさいお役人様。挨拶も満足にできないで」
「いえ……」
少女が黙ったままで居るので、鼓の男はむりやりその頭を下げさせた。それでも少女は黙っていた。彼女は少し笑った。「あの……。お気になさらず。私の方こそ、突然お邪魔をしてしまって。一晩で構いませんから、ご一緒しても構いませんか?」「とんでもない。もったいない。私らなどには気兼ねしないで下さいまし。私らなど土間でもじゅうぶんねむれるのですから」
などと、言いつつ言われつつ、彼女は一晩の宿をそこへ取った。
一行は三人組の傀儡師だった。普段は狩猟などで生計を立てているが、まつりの季節になるといそいそと出掛けてきて、街道沿いに各所の神社などで見物人の前で演芸披露と洒落込むらしい。彼女は宿の主人が取ってきた山菜料理を食べながら、彼らからそういう話を聞いた。
酒もちょっぴり入ったその席で、彼らは一芸をお目にかけようとしてくれたが、彼女は手を振って、「いや、いや。それには及びません。そういったものはきちんと対価を払ってのち行われるべきものです。私は今、路銀もすくないし、あなた方の労に報いるほどの対価を払えるものともおもえません」「つれないことをおっしゃる!」
鼓の男はにごり酒に酔った頬をして、ほがらかに言った。「お近づきのしるしに。ぜひ」
「とうとうたらりたらりら……」
彼らの演芸はなるほど素晴らしかった。たった三人ぽっちで、よくもこれほどの立ち回りができる、とおもわれるほど、くるくるとそれぞれがそれぞれの役を全うし、二体、三体の人形を使って、その物語を進行させていくのだ。彼女は久々に、生きる快楽に酔った。なるほど世の中という場所には、それぞれに素晴らしいものが存在するものだ。たったひとつの場所のみに拘泥して、その場所でのみ与えられる価値観や快楽のみに終始するのでは、どうも生きる甲斐もないというものだ、と、彼女はおもった。「ああ、素晴らしい、素晴らしい。あなた方は本物の芸術家です」
で、浮かれきった彼女は、平気でそういうことを言っていた。
彼女はそれから傀儡師たちから色々と話を聞き(鼓の男は彼女同様、中央からの流れ人だった。数年前、受領連について下向してきた後、そのまま中央に戻らず任地へ居付いて数年を過ごしていたが、その判で押したような生活に嫌気が差し、土地を出てふらふらしているうちに、気がついたら傀儡子の仲間入りをしていたらしい。最近はそうやって、昔の彼同様に、入団を希望する者が後をたたないが、しばらくすると傀儡師としての生活の面倒に音を上げるらしく、朝起きたら居なくなっている、というようなのはザラで、結局元の三人に戻ってしまう、など)、自らも話した。事情あって都の生活に愛想を尽かし、その職務を捨てて流れ者になるべく行動したこと。それまでの都での生活、そこで作った物語のこと、現在の情勢のこと……二人の聞き手は興味深そうに彼女の話を聞いた。それで、近頃では手頃な話し相手に飢えていたこともあって、自然に彼女も饒舌になった。
「マッポーってなんですか?」
いつの間にやら彼女お得意のブッキョー講義に座の話題は移っていて、しばらく二人は我慢をして彼女の話を聞いていたが、やはりよく意味が飲み込めないので、背高の男が代表して、疑問した。彼女は手振り身振りもまじえて、それに答えてやった。最初のうちは男の方も「はあ、はあ」と気のないような、しかし返事はしていたものの、再び黙るようになった。
「……つまり何をしたって結局むだだってことですよね。そもそもの話が、正しい法が隅々までにゆきわたっていないというわけで。これでは、こちらがどんなに正しいとおもうことをそのまま直接遂行したとしても、その正しさが決して流布するようなことはないんです。だって末法の世というのは、本来であるならば正しいとされることが悪に、本来であるならば正しくないということが善になるようなねじれが生じているということになるのですからね。人のことは蹴倒にしても出世しろ、弱きものがまったくの弱きものでいるのはその人の責任なのだから、まっとうなわれわれが手をこまねいてまでしてそれを立たせてやる必要はない。そんなものは人生と時間の浪費なのだから。……僕は宮廷生活において、様々に、そのような場面を目にしました。しかし、今の僕は、それらの悪をおのが正しいとおもう道へ指導してやろう、修正してやろうなどという、一種ゴーマンともとれる考え自体を諦めてしまっているんです。なぜって、根田から腐っているものはもはや修復など不可能なのですから。
もともとが腐りきっているものを、どれほど漆喰や膠で塗り飾り立てたところで、その根本は、どうしても代えのきかないものであるというのは明白なんですからね。このような人たちに構いつけている時間こそ、本当の無駄な時間というものです……」
女はしたり顔でそういうことをいつものとおりにべらべらとやっていたが、それを聞いている男たちの反応が、予想していたものより遥かに薄いので、オヤどうしたのだろうとおもって、彼女は開きかけた口を一度ぱくんと閉じた。
彼らはなにか哀れなものを憐れみ、同情するかのような目で、彼女を見ていた。そしてそれを見た彼女は、その表情の理由を不思議におもった。なぜなら、彼女は、他人からそのような種類の視線で、おのが全身を眺められたということが、いまだかつて一度もなかったからだった。
「ちょっと、よく、わからないな。あなたの言っていることは……」男は悲しそうに首を振った。「それではまるで、あなたのほうが悪者みたいにきこえる」
何を言っているんだ? と彼女はおもった。
「……自分さえそれらの濁流にのまれること、まきこまれることを回避できさえすれば、後の他人はどうでもいいという見解とも見受けられてしまうということでしょう」
鼓の男が、背高の男の言葉を翻訳するように言った。
「いいえ、いいえ。それは違います」彼女はいくらか焦りあえぐかのように、「末法というのは、何処の誰であろうとも、そういった濁流にまきこまれることから逃れることが出来ない、ということです。この濁世でのあだ花を咲かせるものどもも救われなければ、その汚辱を良しとせず、みずからをこの濁世に咲いた一輪のけがれなき花としてその花実を散らすものもまた救われない。濁流のなかからのがれられたものは幸運であり、その濁流のなかで漂うものは不幸だというわけでもない。末法に生きるものは、その出自、環境の高低はあれど、みな平等に耐えざる不幸に耐えている。そしてこの私やあなたもまた例外ではないということです。私だけが特別で、その波から離れたところにいる、などということは、この世の中においてはとうていありえないことなのです」
「なんだかよく分からないようだが」男はしかし、少し口元を楽しそうに緩ませて、彼女の講釈を一段上から眺め下ろすような目をした。「弁の立つお役人様に、そうして滔々と言い聞かせられてしまったら、私など無学なものは、ハイそうですかと頷くしかありませんけれどもね」顎の髭あたりをざらざらと撫ぜ、「でもやっぱり、あなたは腐ってもお役人様ですね」と、言う。
「……僕が?」
彼女はうろんな仕草で鼓の男を見た。男は、ちらりと彼女の方へ一度視線を向け、すぐに反らした。
「それは、そうでしょう。あなたはうつくしく、地位と名誉に一度はめぐまれて、その人生のすべての快楽を恣にしたことのある人だ。それで、そのうちにそれにも飽きて、このような下賤なものらと、今度は下賤な楽しみを恣としようとしている。これほどぜいたくの似合う人もいないでしょう。僕などつまらない、虫のようなものは、あなたのことを羨ましがることすら剥奪されているようなものですからね。何しろ差がありすぎる。差が開きすぎているということは、その距離の上下も、左右も、まったくつかめないということです。つまり、仰ぎ見たらいいのか、地平線の彼方を眺めたらいいのか、そのどちらかすらも、分からないようなんだな。これでは比較のしようがない。そしてそれはあなたも同じことです。あなたは僕も、あなたも、どっちにしろ末法とやらに生きているのだから結局は同じこととしてしまうが……それだって、明確な差異が分からないからこその放言でしょう。あなたとわたしが同じ生き物のはずがない。そんなもの、一度見れば……わかることではありませんか」
「あなたはほんとうに、理路整然とした人だなあ」
しかし、彼女は鼓の男の軽蔑の言葉に何ら感じることのなかったかのように、それどころか、彼のその態度にまったく感心したというような態度すら見せ、彼を称賛してみせた。
「なるほどね。僕は悪人ですか」
「…………」
彼は、青白い月に照らされた、彼女のまっしろなそのしろおもてを見ていた。
それはとても恐ろしいものだった。うつくしいものとは、動かないものだ。なぜなら、うつくしいものというのは、大体において、人工的なものだからだ。自然界にはびこるものは、往々にしていびつだ。均衡を欠いている。どこかに存在としてのずれがある。例えばそれは、顔の部分の配置の不味さであったり、体全体を見たときの均整の崩れや歪みであったりする。ひとつの個体がある。その個体が個体としての全を為すことなく、一部に欠けやいびつが生じる。それによって観察者はそれが人造のものでないことを確認する。欠けたるわたしとおなじような、”生きている”生き物だと認識することが出来る。
でも、すべてが満たされ、その個体が十全と、それだけで完成されている時、人はそれに生命を感じることが出来ない。自分と同じ生き物であることを認められない。僕はこれほどまでに様々なものが欠けているが、かろうじて生きている。このようにかろうじていることの出来るおれなどというものがそれでも”生きること”を現在進行形で可能にさせることができているのに(つまり欠けていても生命を持続させることは出来る)、この完全とした、超然としたものはなぜおれなどという、欠け者と同じくして”生きている”ことが可能になっているのだろう? 欠けていても生命であることは可能だ。しかし、欠けていないものもまたこうして、生命であることが可能になっているのなら、生命の満ち欠けとは何だろう? このような不平等が、同じ生命間のなかで行われ得るはずがない。欠けている俺が生きている。それならば、欠けていないあの人は、もっと”良く”生きることが出来なければ、帳尻のあわないことになってしまうだろう……
この人には”ずれ”がない。絵に描かれたシミもシワもない虞美人のようにまっしろで余計なものが付着していないでうつくしい。その考え方や行動までも、どこまでも直情型で、おのれの欲望に忠実なさまは、うつくしいと形容しても適当におもわれるほどだ。
だかそのうつくしさはとても冷たい。冷たくて、残酷で、目を背けたくなるほどだ。でもそういうものを、多分、人はうつくしいものと言うのだろう……
「あなたのような性質の人が、中央の生活に飽き飽きしたというのも分かるな。あそこにはひとつの正解のみに価値を置く人ばかりだから」
「……………」
「誰も彼もが、同じ方向の同じ場所にある何かをその都度得て、その得たものに各自で満足を得るなんてことは退屈だよね。退屈というより……虫みたいだ」彼女は言いながら笑った。「彼らにとっては火に飛び込むのも花の中に潜り込むのもみんな同じなんだよね。こっちの蜜は甘いぞ……と誘うもののところへ、ふらふらとついていって、死んだり、蜜をなめたり、しているんですからね」
何がそんなに楽しいのか、知らないが、彼女はうつくしい顔の均衡を崩して、楽しそうに笑っている。「でも蜜を舐めようがみずから火に飛び込んでいって死のうがどっちにしろ最終的には同じでしょう。身分の上下も左右も、楽しみも悲しみも皆同じです。そういう考えが悪人のようだといわれてしまうのなら、きっとそうなのだろうが」
「それは……そうでしょう。あなたにとって、あなた以外の人というのはみんな虫のように見えるんだろうな」
「虫?」
女と目が合った。彼は息を呑んだ。虫というより、今の俺は、蛇に睨まれた蛙みたいになっているな、と、ぼんやりおもった。
「あなたが?」
「僕も……みんなも。あなた以外は全部」
「虫か……」
自分で言いだした話なのに、彼女は、つまらなさそうにその言葉を口から放ると、ふいと視線を外した。彼は、それを残念におもった。「もったいないことをした!」と、おもったためだ。
確かに、彼女のきれいな目で自身を見つめられるというのには、ひどい嫌悪感が伴った。それは、そのきれいなものに写っている自身の姿が、果たして、そのうつくしいものの見るに値する対象になっていかどうかというのに、自信がないからだった。そのようなうつくしいものに見られているみにくい己の姿が恥ずかしい。しかし、その視線が反らされたら反らされたで、悲しい。もっとよく見ておくんだった。あのうつくしいものを。もったいないことをした……
次の日の朝早く、傀儡師一行と、彼女は最後の挨拶をするはずだった。
「どうかまた会いましょう。今度お会いしたらぜひ、あなたの以前描いたという物語を人形劇にして巡業したい」
「いや、でもあれは私ばかりが考えたのではなく、みんなで一生懸命になって考えたお話であるから、とても私一人の一存では」
「脚色すればよろしいでしょう。どうせ本どおりの内容になるはずもないのですから。人形の個体数もありますので」
「ああ、しかし、そうなったら楽しいだろうなあ」彼女はしみじみとして、「私はこれから西へ回るのです。差し支えがなければ……私も一緒に道中を共にするというのは、難しいことでしょうか?」と、つい言ってしまった。
話をしていた鼓の男は、びっくりしたように息を呑んで、言葉を止めた。「それは。こちらとしても願ってもないことですが」うつむき、「しかし、僕たちはたった今まで、西を巡業して回ってきたばかりなのです。これから二月ばかりは、東の方へ行ってみようとしていたのですが……」
「ああ、困らせてしまったな」彼女は穏やかな様子で言った。「すみません。あなた方との一夜がとても楽しくて。つい、無理なことを申しました。忘れてください」「いや、とんでもない!」鼓の男は目を見開いて、「むしろこちらがお願いして、座付作者として着いてきてほしいくらいです。正直言って、たった一夜のことではあったが、私らはあなたのお話やその立ち振舞に、まったく魅了された。本人をめのまえにして、このような告白をするのはふらちめいているかもしれないが……」
鼓の男は首のあたりを恥ずかしそうに撫でて、「あなたのような方といっしょにたくさんのお話をしながら旅を続けたら、飽きることがないだろうな。僕などは、どんどん質問ばかりをして……あなたを困らせる結果になるのは目に見えている」「別に、困るということは」「いいえ、僕などは。……駄目ですよ。とてもじゃないけど、あなたのお話相手を立派に務められるような才能の持ち主ではありません」「ただの会話に、才能も何も無いとおもうんだけど」彼女は苦笑して言う。
それから彼女は、自身の身の上を短く話した。都を逃げ出したこと、少し不都合があって、都のものが彼女を探しているかもしれないということ。そして彼女には、西へ行く目標があるということ……「その目的のためには、私は途中で捕まってしまうわけには行かないんです」「捕まってしまう……って」そこで鼓の男は穏やかではない言葉の使用に怯えて、「なにか悪いこと……いえ、このようなことをお聞きするのは失礼だろうが」「ええ、まあ……」彼女はちょっと恥ずかしそうな素振りを見せてうつむき、「何と申しますか。お恥ずかしい話ですが」「はあ」「端的に申せば……」
端的に申せば……何だろう?
「こちらが決して積極的にはなれない婚姻から、逃げてきたんです」
「あら、あら、あら」
彼女のとっさの言葉は彼の理解の範疇にきちんと着地していたらしかった。彼女のもっともらしい理由は、実にもっともらしく理由として作用した。男は同情を込めた目で彼女を見た。嘘をついている? 嘘をついて彼の同情を買って、それでうまうまと道中の安全を確保しようとしている? でも、私は嘘を言った覚えはない。それに、あのまま唯々諾々としてあの男の言うなりに従っていたとしたら、一体どうなっていた? 好きでもない男のこどもを産み育て、それで詰まらない生活にその一生の花を散らすために、私は今までに生活をしてきた……とでもいうのか?
「それは……大変なことでしたね」男は深い慈しみのようなものを声に乗せて、彼女をじっと見つめた。「都での生活は一見華やかなようだが、その内実はそれぞれに苦労なことも多い。我慢できるようなものならばいいだろうが、よっぽど腹に据えかねる縁組だったのだろうな」「いえ、まあ」彼女は男から視線をずらし、「私が……我慢の効かない性分というか。早い話が我儘なんですよね。納得のできないものは納得できない。融通がきかない、頭の固い……どうしようもない性格が、こうした衝動的で短絡的な行動を引き起こしてしまった。そのせいで、こうしてあなたにもご迷惑を……」「迷惑、とんでもない」男は急ぐように首を振って、「迷惑だなんて、ちっともおもわない。それよりも僕は感謝をしているくらいです、あなたのその、無鉄砲な行動の結果を……」「無鉄砲」「あ、済まない。言葉が乱暴すぎましたね」「いいえ。実に的確だなと」彼女はそこで微笑んだりして、「やはりあなたは楽しい人だ。こうして少し話しているだけでも、私はとても楽しい気分になる」「それは、嬉しいな……僕もまったく、同じ気持ちです」
などと、言い合って、二人でニコニコしあっていたが、そこへ横槍が入った。
「駄目だ」
彼女は対面で話していた鼓の男の向こうを見上げた。そこには背高の男が、山際から上ってくる朝日を背にして、燦々と立っていた。
「東へ行くんだ。一度決めた目的を、途中でねじまげることはできない」
「でもさ、」鼓の男がとりなすように、「お役人様だってお困りの様子なんだし、そう無下にするようなことでもないだろう」
「駄目だ」
それからニ三度の会話の応酬があったが、背高の男の意志の方が固かったために、彼女の同行の件はお流れとなった。
荷支度をしている背高の男が小屋の中へ入っているあいだに、鼓の男はひそひそと彼女にだけ小声で話した。「こうなってしまえば、もう俺はあなたのことをひとりだけにして、このままはいさようならとしてしまうことはできません。どこかで落ち合おうことにしませんか? 偶然を装って……同じ旅空で、偶然の再会ともなれば、あいつも少しは頭の固いところを軟化させるでしょう」「いいえ、とても、そこまでのことは……」「いいえ、お願いします。どうか。これは俺からのお願いです。それに、どんな立場にせよ一人旅は危険だ。これはいくらあなたでも、きちんと自覚していなければならない」
「ありがとう」
彼女は言った。
「それでは、運が良ければ……街道沿いのどこかの神社ででもお会いしましょう」
「俺は本気で言っているんですよ」男は多少言葉を荒げて、「あいつをもう一度説得するのでもいい。とにかく、一人でなど無茶だ」「ありがとう。本当に。しかし……」彼女は朝日のまぶしいのに目を細めて、「私は一日でも早いうちに、西へと足を進めたいのです。それを間違えて東の方へ粗忽にも来てしまったような体たらくで。勢い込んで話す話でもないが」「いっしょに西へ行ってもいい」「それは良くない。私はあなた方の利益を損なわせるために、こうして偶然の出会いにめぐまれたというわけでもないのですから」「でも、」「二月。その間別れ別れになりましょう。それからいっしょに傀儡芝居をしましょう。昨日話したお話なんかは、まだまだあるんです。あんな話を、あなた方の素晴らしい人形芝居と共に人々のお目にかけたら、どんなにかいいだろう。ああ、そんな想像をするだけでも楽しいですね」彼女は笑って、「二月したら、西へ続く街道沿いの宿場やなんかをお互い虱潰しにして、お互いを見つけ出しましょう。そしたらその後はお互いがお互いを利益し合える素敵な道中になりそうですね。それまでどうかお元気で。私も死んだりしないで、健康に暮らします」
さて、彼女は今度こそ西へ。
彼女はその宿屋に次の日も宿泊した。近くの市まで出掛けて、質の悪い麻や木綿の布を買い込み、一日中ちくちくとやっていた。それから狩衣のかかり糸をほどいて、それを布地に戻すとくるくるとそれを丸め上げた。
きっと、というよりも当然のように、彼女は謀反者か何かとして、追手が手配されていることだろう。されていないのならばそれはそれで構わないが、用心に越したこともない。目的を妨げるものは、一つひとつ潰していくのが常道だ。彼女はその日一日掛かって、一着の水干と、それから女物の小袖を縫い上げた。次の日の出発の日、彼女は布地に戻した狩衣を市で売って、それぞれ必要なものを買い求め、ポクポクと西へ向かった。
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