第30話
「えっ。夜逃げ?」
「たりめーだ」男は言った。「おれたちを無意味に縛り上げる領主サマのトコいつまでも居たってらちあかねーべ? 三十六計逃げるが勝ちってもんですよ」
宿屋がなければ民家に泊まるしか無い。それにしたがって彼女はその民家に一晩の宿を取っていたが、夜半になって家人が騒ぎ出したのでなにごとかと起き出してみると、これから夜逃げするとの由。
「えっ」なんで今日に限って、わざわざ。
「そんなことは知らないよ」彼女が尋ねると、家主はうるさそうに言った。「前々から計画していたことなんでね」
その口調の余所余所しさの中に多少の後ろめたさのようなものが滲んでいたので、彼女は、おやもしかしてこういう機会、つまり宿客が来るのを待っていたのかなとおもったが、別にそれならそれで(どうだって)良かったので、黙っていた。
「でも、この家は?」
「こんなほったて小屋どーってことねえよ。カラスにでも住まわせておけ」
「はあ……」
「あなたもいつまでもこのようならちもないことばかりしてないで、早くこんな場所からは出ていったほうがいいですよ。こんなところに長くいたってろくなことにはなりませんからね」
などと、言い残して、乳飲み子を抱えた一家は小屋を出ていった。
一人残された彼女はあっけにとられつつも、はー、なるほどとひとり納得していた。
利益がなければ意味がない。この場所に彼が住んでいたのは、それによって彼が利を得ること多かったからに違いない。そしてたった今それが覆され、というよりも何らかの原因によって利よりも害のほうが重さを増してしまった。そしてその害というのは自らの力で覆すにはどうすることもできないものだ、それならば、そのような荷物はすべて捨ててしまって、今よりも利が重くなるような場所を探したほうが良い。下らない荷物など背負う必要はない。それによって益するのは、その背負い込んでいる本人に荷物を押し付けて楽をしている、収税人の方なのだから。なぜそのような人物をこちらが益してやらねばならないのか? それは賢く、正しく、そしてなによりもやはり「利」にかなっている。そしてその荷物を改めて背負う他人が居たとしても、それは当人にとっては関係のない話だ。他人が苦しんでいる? でもそれは”俺”ではないんだろう。俺が苦しまないのなら、誰が苦しんだって別に良いよ。だってそいつは俺ではないんだからな。なんという個人主義、それほど合理的な考え方は無いだろう……
いやいや、どこぞのお役人よりも、よっぽど個人というものを大切にしているといっていい。賢くて利口な人など何も中央のみの特権というわけでもない。その一人ひとりと、酒でも交わしながらじっくり話し合ってみれば、きっと楽しいことだろう。そのような機会が、私の人生にきちんと用意されていればよかったのに……、いや、これからでも遅くはない? しかし、話そうにも、開け放たれた扉から、家主一行はすでにこの村から出ていってしまった……
そして、季節は夏から秋へ、その間にも彼女はそれまで履いていた沓を履きつぶし、水干姿にわらじ履きで、ポクポクと街道沿いを歩く。
どうせ男の格好をしていたとしても、中央の人間には既に、女の身だと喝破されているのだからと、彼女は男の格好のまま旅を続けていたが、何者かにその身を誰何されたことは、今のところ一度もなかった。いっそのこと、頭を丸めて、坊主のまねごとでもして托鉢を持って行脚すれば、誰にも不審がられることなく宿を借りることが可能になるのでは? と考えもしたが、真面目な性格の彼女からすれば、寺からの得度を受けているわけでもないのに、そのような不用意なまねはできない。しかし都から出てきた、着の身着のままの格好で、ふらふらしているわけにもいかない。ならばどのような格好で”ふらふら”しているべきなのか?
「とうとうたらりたらりら……」
秋も深まり紅葉も風にとうとうたらたら揺れる頃、彼女は一夜の宿を借りた集落の近くで、襤褸をまとって歌を歌う女を見る。
ちりん、ちりん、と安い鈴の音が短く聞こえて、それは女が歩くたびにキチキチと鳴った。空洞を強く振動させるような深みのある音ではなく、小さなゴミが、小さな空間の中を精々不均等に行き来するような、短く乾いた音だった。
女の髪は乱れ、もつれ散り散りになり、その女の通った後には空気の濁ったようなかおりがした。女はどこを見ているわけでもなく、どこか焦点の定まらないような目をして、ゆらゆらとした足取りで、彼女のめのまえを通過した。
そういう女を今までに、二度ほど目撃した。着物の破れ具合や髪の毛の長さから、別人というのは知れたけど、短い間にきみょうななりをした、しかし同じような女の個体を目撃したことに、彼女は疑問を持った。そして尋ねた。
「お役人様ってのは、ほんとお役人サマだね」
尋ねられた相手は彼女を軽蔑したように見て、その愚問を鼻で笑った。「危なくなんかありませんでしょ。一体何に対して、危険を感じれば良いのですか」
「それは当然、野盗、男、獣」彼女は馬鹿正直に答えた。「女の身で……あのように、ふらふら、ふらふらと。まるで襲ってくれとも言わんばかりの無防備な様は、見ていてハラハラしてしまう」「私はいつもおもうんだけれども」
以前に荘園の”所”で木っ端役人として働いていたと話すその杣人は、久しぶりの都の風に当てられたのか、言葉による他者との交流に幾分勇み足になりつつ、彼女に食って掛かった。
「お役人って、皆さんの生活を保証するためにいられるんでしょ? 私ら作人が額に汗して労働して、せっせせっせと労力になる代わりに、その基盤を保証……というよりも労力に足る環境であると証明するための国造りとやらが仕事なんでしょ。そうじゃないの?」「まあ、そのとおりでしょう」「花鳥風月を愛でることとか、都落ちして金策に走ることでもない。そうでしょ?」「まあ、そのとおりでしょう」「私も、すべての役人連中が不正を働いて、だらだらとやることもやらずに別のことにかまけているとは言わないよ。言えませんがね、しかし、お国を統べようとするお仕事をなさろうとするあなたがたが、そのような無知蒙昧ぶりではおおよそ心配になってくるな」「はあ、それはどうも」彼女は短く頭を下げた。その様子に幾分気を良くしたらしい男は、続けて、「つまりさあ、ああいうものは襲えない。そういう不文律になっているの」「……はあ」「そういう民衆に広く染み込んだような常識を、あなた方は知らなすぎる。第一恐ろしいとはおもいませんか。ああいった手合のものに無計画に触れて、その後どのような災が起こるのか、考えてみなくても想像くらいはできるでしょう。彼女らは神聖で、かつ汚れ果てている。そのようなものに危険を承知で、向かっていく必要はない」「神聖……とは神がかりのようなものですか」「まあ、そう言い換えてもいいでしょう」「あなたがたの共通認識として、女ひとりの身であっても、手出しは無用ということですね」「そうです、そうです」なぜか男はそこで、それ自体を誇るような言い方をした。彼女にはそのような声色の理由が、少し分かる気がして、男に同情を覚えた。
女一人の身であっても旅は可能だ。つまり、神がかりの振りをすれば良い。元結を切って、髪をざんばらにし、襤褸をまとってふらふら歩く。その足取りは決して軽快ではあってならず、口にするのは意味不明のどこかで歌われたはやり歌……彼女も、中央からの捜索を逃れたいのならば、ぜひそのような扮装をすべきだ。男の身で奇妙な一人旅を演じて不審を買うよりも、よっぽど利口な行動だろう……「とうとうたらりたらりら……」
しかしその杣人が都での生活を知らないようにまた、その男の共通認識の外側に存在する他者もまた存在する。
女が死んでいる。まだ朝霧が出るような頃の、木のかおりで噎せ返るような、においたつ朝のことだ。
野犬は女の、梢みたいに伸びた足を、真っ赤な舌で舐めていた。女の裸体は乾いていて、しかしそれにはしっとりと水滴が張り付いている。それは野犬の舌を潤すだろう。生は誰かの快楽のためにのみ効果を発揮するわけではない。死んでようやく荷が降りたと安堵する生の元保持者の意見もあるだろう。そして死んだとしても、その死体は誰かの役に立つ。それならば徒に永らえさせるような生よりも、もっと有効な死というのも存在するのでは?
だけど彼女には目的がある。それは、生の状態に我が身を置かないでは、達成できない類のものだ。いや、そうに違いない。そうでなければならない……?
話がしたい。会って、もう一度だけ、話がしたい……
「とうとうたらりたらりら……」
そして彼女は根城にしていた社から転び出て、駆け出した。
正確には、二月とそれから半月ほどが過ぎていた。あの鼓の男は彼女との約束を守ってくれた。
街道沿いにある人の出入りがある土地土地の神社では、季節ごと、行事ごとに祭りの準備が行われ、活気が生まれる。そこへは旅のものが行商へ来たり、芸を披露したりとにぎやかなことこの上ないが、その活気に華を添えるようにして、旅の一座でもやってくれば、祭りの気分は益々高揚していく。
彼女はその土地々々で宿を借りた神社で、時々そうやって芸事を披露する集団に出くわした。彼らはそれぞれにそれぞれの技術や力で持ってそれぞれの芸を披露していたが、彼女が東の国で出会った一団よりも上等な芸を披露していた一座は、彼女が目撃した限りでは一組たりとも居なかった。彼女は、彼らの芸を見聞きするたびに、記憶の中の一座の姿をおもい返して、それらと現実で起こっている芸とを引き比べた。そして、いつだって軍配が上がるのは記憶の中のそれで、それらは多少、時間を経ることによって美化され抽象化されていたのかもしれないが、それでも美化を補ってあまりあるほど、記憶の中の彼らの演芸はあざやかに、彼女の心のなかに残り続けた。
どうせ共に旅をするのならば……彼女は考えた。
どうせなら、一番良いものが良い。他から秀でるというのは良いことだ。それによって、われわれは、他と他を他ではないものと認識することが出来る……
そして彼女は顔を編み笠だの布切れなどで顔を覆い、裹頭のまねごとなどしてみて顔を隠して歩き、結局僧侶と勘違いされて道端に立っていたらおむすびをお供えされたり、して、ようやくの再会と相成ったわけだった。
しかしその再会は、誰にとっても偶然の奇跡として歓迎されるとは限らない。だから背の高い、丸太のような体格をした男は、ぬーと彼女を見下ろしながら言った。
「理由がないと一緒には行かない」
「ちょっと止めなさいよ」その隣の男がとりなすように、「お役人様がこれほど腰を低くしてお頼みしているのに……」
「私は……」
それはそうだろう、と彼女もおもった。彼の反応は全く自然で全く正しい。共同体に異分子を取り込むことは、それを介入させることに依る利益の発生が生じないことには行われ得なくて当然だ。だから彼女は彼に対して自身を売り込まなければならない。その理由。理由……、そして、その理由を話そうと彼女は口を開きかけて、閉じた。
理由? “彼”に会う理由は何だろう。それはただもう一度だけ会いたいからだ。でもそれでは正当な理由にはならないだろう。正当な理由としては薄いだろう。それならば、それでは……
「私は仏法を学びに」と、彼女は言った。「もうこんな世の中にはほとほと愛想が尽きた。ついては仏門に入って修行し、仏の道を極めたい。その教えを乞うための人物が、私の求めるものです。しかし私は許可もなく朝廷を飛び出してきて今は追われる身……無理を言っているのは承知です。そのうえで、僕を一緒に連れて行ってくれませんか?」
「坊主になるだけであれば何も、そのような苦労をしてまで旅をすることもない」背高の男は言った。「それとも、どうしてもその人でないといけない理由でもあるの?」
「その人でなければ意味がないのです」彼女は静かに首を振った。「その人の教えでなければ僧になる意味もない。僕は……本当なら、ただその人にもう一度会いたいだけなのかもしれないんだ。しかし、ただその人に再会したいという理由のみで、あなたがたに要らぬ荷を背負わせることはできないでしょう。
私には私にとっての理由があります。しかし、それが万人を納得させうる理由になっているかどうかは、私自身でも甚だ疑問を抱かざるを得ないというのは分かっているんです。……こんな奇妙なお願いごとが、果たして叶えられる価値があるのかと問われても、それに正確に答えられる回答を持っているわけでもありません。それは皆さんの判断にお任せし、こちらは皆さんのご厚意にお縋りするしかもはや残された選択肢は存在しないのだと……こういうわけです」
視線を落としてぐだぐだと語る彼女に対して、三人はおずおずと顔を見合わせた。
三人のうちのひとりの少女が、鼓の男の服の袖を引いた。男は少しかがむと、彼女の話に耳を傾けた。そして、鼓の男が代表して、彼女のその告白に答えて言った。
さて、ここにおいても、彼女の美貌、うつくしさは彼女の役に立った。数ヶ月湯浴みをしないせいで髪には油が浮き、頬はすすけ、装束は汚れていたが、それでも彼女がうつくしい、なにやら他人の目に映ってうるわしいさまは、充分に見て取ることができたからだ。
実際、三人組の中の少女が鼓の男に耳打ちしたのは、そのような内容だった。
人はうつくしいものにごく弱くできている。そこへ、傷つき果てた、自身ならば到底もちようのないうつくしさを有した他人が、”他ならぬ俺”接触してきて、何らかのものを乞う……そのときになってわれわれはどうするか?
場に、みしらぬうつくしい人がいる。きれいだ、とおもう。話しかけたい、話しかけられたい、とおもう。するとそのうつくしい人が、あなただけに、微笑んで、突然、あなたに対して何らかの話を持ちかける……マルチか? ネズミ講!? 用心深い人はそう疑うかもしれない。しかし、話を聞くくらいなら、構わないのじゃないか……そしてわれわれはまんまと、騙されたり、騙されなかったりしてしまう、と。
こんなにうつくしいひとが困っているんだ。助けてあげなきゃ。助けてあげる”価値のある”人なんだから。そして彼らは甚だ正当性に欠けるような、彼女の我儘を受理してしまった。特に三人の中にいたその少女は、彼女に微笑みかけられて、手なんか握られて、それだけでぼんやりしてしまい、すっかり夢見心地になって、そのまま彼女のことをうっとり見つめたりしてしまうのだった。
「はあ、まあ、それほど赤裸々に心中を打ち明けられてしまえば、こちらも応えるしかないというのが正直なところでしょうか」
「恐れ入ります」
「別に大したおもてなしもできませんよ。あなたの正直なお考えには敬意を表するが……」「私はあなた方にもてなしてほしいとは一言も申しておりません」彼女は言った。「ただあなた方のお役に立てるようにこちらも努力と敬意を払い、その道中を少しばかり共にしたい、と、こういうわけです」
「お役立ちったってねえ……」三人は再び顔を見合わせた。
「新しい人形芝居をしましょう。きっと皆さんも気に入るはずです」
言いながら、彼女は鼓の男だけに分かるように、ちょっと意味ありげな目配せをして、口角を上げた。彼はその意味をじょうずにとらえてくれて、また微笑がえししてくれた。
そして彼女と鼓の男の思惑どおり、その人形芝居は、着々と、全国津々浦々に広がっていった。
彼女は自身の書いた物語と、彼女の妹の描いた物語を再構築したものを脚本として提出し、結果その両方が人形芝居として演じられることになったが、観客の好みや歓迎に適うのは、いつだって妹の作品の方だった。そして、それらは徐々に人々に親しまれ、いつしか定番化していった。
何処の集落、どこの場所へ持っていっても、上演作は拍手喝采を受け、歓迎され、こんなにかんたんなことでいいのか? と演じるほうが多少疑問を抱いてしまうほどに、人々はその上演作に熱狂した。更にして人々は、その人形劇の劇中人物に一種の官能さえも抱いた。ある集落などでは、芝居にボウっとなった男や女が、一座が宿を借りている小屋に夜中、忍び込んできて、勝手につづらの中を開けて、男人形に頬ずりしたり、女人形を盗み出したり、ということもあったほどだ。「あなたとこうして合流することが出来て、本当に良かった」鼓の男は顎を撫でて、しきりに感心したふうに言った。「これほどの”当たり”をいまだかつて取ったことがない。何か狐につままれているような、夢を見ているような気分です。人がこれほど人形芝居に熱心になることがあるなど、考えてもみなかったことですよ」
「つかの間とはいえ、辛い現実を強く忘れることができるからでしょう」彼女は特にこだわりを持つ様子もなく言った。「物語とは人の手によって作られたもの。自然や、動物や、無機物など、それのみで自身の生を充足させることのできる高級なものどもからは、とうてい生まれさせる必要もないようなもの……物語とはそういう、人の欠けた場所を自らの手によって埋め立てるような、修復効果を生む力のようなものがある」「はあ。何だかよくわかりませんが」男は髭を撫で、「にしても、この結果はちょっと、異常ですね」と、少し首を傾げた。「どこへ行っても同じような反応が返ってくるのですからね。以前の私らのやっていた芝居内容じゃあ、とてもじゃないがこうはいかなかったわけで。今回こうして掛けている作品は、ちょいと栄えている地域でも、夜逃げが相次いでいるなんて地域に行っても、平等に良好な反応が返ってくるのですからね。こんなに立派に出来上がった本は、めったにはありはしませんわ。一体何処の地方に伝わる民話なのですか?」
彼女は物語の出どころを話した。「はあ。御妹さんが。……女の身で、大したものだ」「そうです、そうです。私の妹は、本当に素晴らしい才能の持ち主なのです。天才とはああいった類の者をそう呼び称すのでしょう……」
などと、いいながら、彼女は都にひとりぼっちに置き去りにしてきた、妹姫のことを簡単におもいだして、そのおもいで話をまったく過去のことして、扱って、その男に言って聞かせ、しみじみとしたような口ぶりをして、「今頃何をしているのかなあ」とか、のんきなことを言っていた。
「僕たちは一心同体、まったく同じものの一種類と二種類目でした。僕たちはある一定の頃まで……まったく同じだといってよかった。それが崩れたのはいつのことだったか……それは全く、性能の違い……というよりも……」
彼女はそこで言葉を止めて、少しいたずらっぽい表情で、男の方を見た。「こんな話、興味がありますか?」
「ありますね」男は間髪入れずに答えた。「あなたの話すことは……誰からも聞いたことがない。そういう話に、興味を持たないという方が、不思議だ」
「それは、どうだか知りませんが」
「それで?」
「ええ、はい、だから」彼女は自身の二の腕あたりを撫でながら、「はじめは、同じ方向を同じ気持ちで眺めていたはずなのに、途中から、それが全然、お互いに違ってしまうようになった。第一には才能と気力と興味の多寡の問題ですね。彼女にとってはそれが多くあり、私にはもともとごく少なくしか備わっていなかったということ。早い話、私の才能の瓶はすぐに底をついたが、彼女の才能の瓶の底は果てしなく、あるいは底がすっかり抜けきっていて、いくら水を貯めようとしても底から流れていってしまう……だから彼女は瓶をいっぱいにしようと、やっきになって、おのれの才能を使って瓶を満たそうと精一杯になっているが、私にはもはやその必要はなくなってしまった。そういう差ですね」
「はあ」男はあいまいに頷いた。「なるほどね。それでは気の毒ではあるようだが」
「そうでしょう。あれはかわいそうな人なのです」
「ですけれど……そのお陰で、私達はその汲んでも汲んでも尽きないような瓶の水の恩恵を受けることができるのですね。なんだか大変なようだな……あなたの妹さんは」
「だけど……僕は時々、それに疑問におもうことがある」
彼女は言った。
「別に、それは僕自身の問題ではなく、彼女個人のことなので、僕などがわざわざくちばしを挟むことでもないとおもっていたから、表立って口に出したことはないのだけれど」
「関係ないということはないでしょう」
「そうですか?」彼女はうろんな仕草で、「最終的に自身の行動に決着をつけるのは他人ではありませんからね。私の考え方は私のみのものであり、それは必ず彼女の方でも共有し同じ意見を持たねばならないということでもありませんから」
「まあ……それはそうかもしれないけど」男は歯に物の挟まったような口調を取りながら、言った。「だけどそれじゃまるで他人なんかいらないみたいだ。他人の言った言葉が、どんな影響をも他人に与え得ないのだとすれば」
「そんなこともないでしょう」彼女はそれにすぐに反論した。「他人が居なければ、こうしてあなたと私が会話することもない。ただ私が下らない繰り言を中有に向かって吐き出しているだけということになる、また、私のこのような考え方を、あなたが疑問におもうこともない。他人は必要です。そうじゃないですか?」
「ん、ん、ん……」
何だかよく分からなくなって、男は黙り込む。「……で、あなたの妹さんに対する疑問というのは、どういうものなんですか?」
男は尋ねた。
「はあ、どうですか」自分からその話題を口にしたはずなのに、なぜか彼女は気乗りしないような声で、「まあ、各々で、それぞれに、好きなことをやればいいと僕などはおもうのですが」と、うつむく。
「それは……まあ、そうでしょう」
「各々で、好きなことを出来る人は良いのです」
「はあ」
視線を上げる。「たとえば、あなた方のようなね」
「……………」
「自身で自身がどういったときに一番快楽を得られるのかを知っている人は幸いだ。だけど世の中には、そうでない人たちもいる」
「……………」
「そういう人たちにとって……彼女の作ったものというのは、結局の所悪影響しか及ぼさないのではないか」
「悪影響?」
「僕はそれが心配なのです」
なんだかよく分からないが。
「どういうことですか」
「あの人の話に出てくる善男善女というものは、素晴らしいものでしょう」
彼女は特に表情を崩したり変えたりすることなく、ただ事実をただ淡々と述べるような言い方をした。
「好きにならずにはいられない。……そういう人たちばかりが出てきますね。健気で、勇敢で、意志が強く諦める心を知らない……それらはまったく汚れのない、うつくしいものです」
「それは……そうでしょう」その彼女の言葉は、彼にも理解できるものだったので、彼も簡単に同意した。
「僕は好きですよ。あの本に出てくる人たちみんな。けなげでね。おもわず応援したくなるような」
「そうでしょう」
「それと……悪影響と、どういう関係があるんですか?」彼は慎重に言葉を選びながら尋ねた。「どういう意図でそういう言葉を口にしているか知らないが……少なくとも、僕は、あの本を読んで、芝居として演じて、自分が悪影響を受けたとはおもってないな」
「僕から言わせれば、そういった考え方そのもの自体が、まるごと悪影響下に置かれているものの言動として聞こえてくるんですよ」
「……はあ?」
その言い方が少し癇に障ったので(そもそも、自分が心から良いとおもったものを頭ごなしに否定されて、気分の良くなる者など居やしないはずだ)、彼の声も多少剣呑の音を孕んだ。
しかし対話者は涼しい顔をしていて、その端正な顔は彼の声色によってもどんな変化も見られない。……うつくしく技工を尽くされた人形と喋っている? まさかね。
「ああいったものは……とても、良いものですね。良いものとして作られている。なぜか? そこに良いものが無かったからだ。人が欲しいとおもったもの、在ってほしいと望んだもの、それが現実として無い。だから想像した。そしてそれが人の手によって創造され、私たちのめのまえに顕現してしまった。そして、それは万人の心に良く映る、万人がほんのりと望み、しかし想像も、創造もしてこなかったような”無い”ものだった。しかし今めのまえに、その”無い”ものが”在る”! これは大変なことですよ。無いものが在るんだから。そしてそれは”悪い”ものではなくて”良い”ものなんだ。こんな魔術的なことが起これば、誰でもその現象に夢中になるのは当たり前のことでしょう」
「……はあ」とにかく、相槌を打つ。それから頭の中で彼女の言った言葉を考え直す。無いものが在る……
「たとえば、僕は、僕の生活に今までに無かった、あなた方の演芸というものに夢中になった。違いますか?」
「え? あー」
「何かに夢中になるということは素晴らしいことだ。なぜならそれは現在を忘れるということだから。現在というのは生命そのものだ。なぜなら生活というのはいつだって現在だからです。こうして話すのも、一語一語が口から飛び出してしまうのもすべて現在、現在の集大成が、過去未来現在のすべてを形作っています。夢中になるということは、その過去未来現在の順路を一緒くたにしてひとかたまりにし、時間を時間として処理せずに、ひとっ飛びに何もかもを飛び越えてしまうことが可能になるということなんだ。これはちょっとした時間旅行です。物事に夢中になるということは、それだけの力を持っています。それは素晴らしいことだ」
「それが素晴らしいことなのだと言うのなら……」彼は複雑な気持ちのまま尋ねた。「なぜそれを、悪影響などといって悪罵するのですか?」
「それは、夢中であるという状態そのものを、自身の生活の全てである、良いものであると勘違いしてしまうようになるからですよ」
彼女は答えた。
「たまの時間旅行ならば楽しいかもしれませんが、それは結局旅行であって、命の洗濯に過ぎない。ほうろうそのものが人生というのならばそれも良いでしょう。木の葉のように自由な生活は、生活というものに縛られている者たちからすれば、自由気ままな素敵なものに見えるかもしれないがしかし、木の葉には木の葉の現実がある。他人の想像する他人の生活は所詮は他人の現実です。現実は現実に過ぎない」
「……………」
「そしてその現実からほんのつかの間でもいい、離れようと、われわれは”良いもの”を探し続けます。現実以外の”良いもの”をね。そして見つかった先で時間旅行をして、精々自身のくそおもしろくもない現実を”飛び級”して、少しでもみじめな現実から意識を飛ばそうとする」
「……………」
「それ自体は決して咎め立てられる類のものではありません。むしろ推奨されるべき……やはり洗濯というものは、定期的に行わなければ、着物などでも汚れ果てるだけでしょうからね。しかし飛び級ばかりしていればどういうことになるか。いくら現実がみじめなものでしかないとしても、飛び級先で見てきたものは、おのれのみじめな現実には決して存在しないものです(存在しないからこそ、”無い”を”在る”に無理やり書き換えて来たのですからね!)。だが、飛び級し続ける生活を続けるとどうなるか? 今度は飛び級そのものが、時間旅行そのものが、その者の日常、生活そのものになってしまう。するとどうなるか? おのれのみじめな生活、本来であるならばおのれ自身とでもいうべきその現実が、次第に非現実めいて、生活のし甲斐のないものに成り果ててしまう。もともと魅力に欠けるものです。それが連続性と娯楽性を失えば、それに対する欲求は、ごく少ないものとなっていってもなんら不思議なことではありません。楽園はすぐめのまえにある、目を瞑れば……しかし目を開けばそこにはくだらない現実しか無い。しかしわれわれは間違えようもなく、現実にしか生きる場所を用意されていません。あの人の描くものの楽園はとても危険なものだ。そこで遊ぶ人たちのことを、そこへ縛って離さない。空想で腹が満たされますか? 現実の自身のめのまえには、冷たい稗しか用意されていないからといって、空想の中の雉肉で腹がくちますか? 僕が言っているのは、そういうことです」
「……………」
彼は、なんて答えれば良いのか分からず、開いていた口を取り敢えず閉じて、それから、開けた。
「つまり……僕らのやっていることは間違い?」
「いいえ、間違ってはいませんよ」男はうつくしく微笑んで言った。「これは、受け取る側の問題だから。しかし、そうやって受け取る側のやわらかな、差し出されたものを何の疑いもなく飲み込んでしまうひなどりのようなか弱い頭に付け込んで、何でもかんでも”良い”とおもったものを与えてしまうというのは、少し考え無しな行動だと言われてしまっても、仕方のないことなのかもしれませんね」
彼は、自身のことを弱い頭のひなどりだと言われたことなど、あまり気付かずに、心のなかでは少し反省などをしてしまっていた。はやり、この人がこう言うのだから、おれは考えなしだったのかなあ、とかおもって。
「愛されるということは……とても恐ろしいことですね」
そして、彼の内心の反省などには気付かず、あるいは構わずに、彼女は言った。
「……はあ?」
「本人の意志はどうであれ、その個体が他人にとって愛しやすいものを有していれば、その個体は自動的に愛されてしまう。それは時によっては辛く、かなしいものですね」
彼女は、他人が居なければ会話というそれそのものが成り立たたないはずだと言ったが、彼は、自分が本当に彼女と会話しているのかどうかというのが、だんだん分からなくなってきた。
「彼女はたくさんの人に愛される。そしてそのたくさんの人たちの一人に引っ掛けられるような形で、私もまた彼女のことを愛しています。愛さずにはいられないんだ。あの人の才能と、そして想像するすべては……あなたもそうでしょう?」
同意を確かめるような熱心さで、男にみつめられて、彼は顔を赤くしてたじろいだ。
「ああ、それは……そうでしょう。そうですね」
「そしてそれはとても強いものだ。他人に対してどうしてか強く作用してしまう。それは彼女の示した物語の中に含まれた欲望というのが、他人の潜在的な欲望と良く合致するからだ。彼女の示した善男善女。悪男悪女。それらは彼らの中に眠っていた欲望を、自身では掻きにくくて掻けなかった痒いところを掻いてくれるかのように、この世の中に生み出してくれた……だから人は彼女の作ったものにどうしても惹かれてしまう。だが彼女はそんなことを望んでは居ないんだ。人々に愛されることなんか望んでいない。望まない他人からの一方的な思慕などはね。彼女はただ描くことだけを……望んでいるかのような。そして、その結果人に愛されてしまう、どうしても愛しやすくなってしまうことに戸惑っているような……」
男は、ほうと長いまつげを悩ましげにうつむかせて、呟いた。「ですから、僕くらいは……その環から離れても良いかとおもいます。要らない愛を突きつけられることほど、くるしいことなど、この世には滅多にはありませんからね」
「……………」
彼は頭が痛くなってきた。そして、その頭の痛いままに、ふとおもいついたことを口にした。
「だからあなたはその愛を、別の他人への思慕として移動させたのですか」
「……移動?」
今度は彼女が彼の言葉に首をかしげる番だった。彼はそれを見ていた。そして、その優越に震えた。このおれのつまらない言葉でも、彼女のことを不思議がらせることが出来るのだ。彼はその不透明性ゆえの優越に快感を覚えた。
「その僧侶のことを愛している。だからあなたはその僧侶に会いに行くことにした。そういうことですか」
「違います」彼女は、まったく的はずれな指摘を受けたかのような、びっくりしたような顔をして、彼の言葉を否定した。「私はあの人と、もう一度話がしたいだけ」
「話がしたい?」
彼は、彼女のその答えに、「分っかんねえなあ」という顔をした。「どういうことですか。よく、分かりませんが」
「言葉そのものの意味です」しかし彼女には彼の疑問そのものが分からないらしく、平気な様子で悠然とした表情なんかを浮かべてみせて、再び彼からの奇妙な視線を買うことになるが、自身の感情を正確に言葉に変換し使用しようと奮闘している彼女には、彼の奇妙な視線もやっぱり全然目に入らない。
「話すだけですか」
「どういう意味ですか?」
「え?」
彼らはしばし見つめ合った。そして、先に口を開いたのは鼓の彼の方だった。「いえ……他意はなくて。ただ、ちょっと予想外のことを言われて、びっくりしてしまって」
「そうですか」
「話すとはどういうことですか? 話すだけですか?」
「え?」
「え? ええと……そうじゃなくて。何だろうな……なんと言えばいいんだろう」
「はい」
「…………」
俺がまちがってるのか? と彼は頭の中で一度自問する。確かに先程の質問は質問の体を為していなかっただろう。彼の発言に疑問を抱いたのなら、その疑問を他人にもきちんと通じる形で説明して呈さなければならないというのは当然のことだろう。俺は彼の発言のどこを疑問におもって、頭を混乱させているのか? あれ? 間違っているのは俺の方……だからこうして混乱しているのか? あれ……
と、彼が思考を停止させて黙り込んでしまうと、それを助けるように、彼女の方が口を開いた。
「話すと言ってもそれだけではなくて、」そこで彼女はしばらく高説をぶった。彼はりちぎにそれに相槌を打ちながら大人しく聞いていたが、残念ながら彼女の高説に、彼の理解を補助するような要素は一切含まれなかった。「いやお説拝聴しましたが、凡夫には全く分からん境地ですね」「そうですか」「だって話を聞くためだけに都での面白おかしい生活や地位や名誉、そういうものを全部捨ててまで? 本当に話すだけ?」「あなたは何がそれほど疑問なのですか」彼女は彼の、歯に物の挟まったような煮え切らない質問そのものの方が疑問だ、というように眉根を顰めた。鼓の男はちらりと彼女の方を不審そうに、窺うように見つめて、それからすぐに視線を外した。「いや……、しかし、ただ会話するためだけのために山を越えて海を越えて、遠路はるばる彼方からやって来られても、向こうは困惑するばかりだろうな」「向こう?」彼女は首を傾けた。本当に、男の言っている言葉の意味も、その意図も分からない、といったような態度だった。だから男の方では、徐々に、彼女に教え諭してやるかのような気分になった。この人はうつくしくて賢いが、どこか人の感情の機微を解さないようなところがある。
「びっくりしませんか? 普通」
「何が」
「たとえば、ですよ」男は彼女のあっけらかんとした疑問の声に戸惑いながら、「一時的には知り合いだった他人と話したいというだけの理由で、あなたを追って都から一人の男が訪ねてきた、理由を問うたら『あなたともう一度話がしたかったから……』と言われたら……」「…………」「勿論それまでの関係性にも依るだろうが。でも、僕なら、少し反応というか、対処に困ってしまうかもしれない」「……なるほど」「いや、でも、お互いの熱量が一致していれば可能なのか……? もしかして、都では恋人同士だったとか」「まさか」彼女は目を丸くした。「恋人など。馬鹿な……僕と彼の関係は……いや、関係などとは呼べないだろう……少なからずでも双方に関係性があるとするのなら、昔なじみというだけのことです。もっとも、一方的に僕のほうが彼に教えを請うていたようなところもありますが」「それだけの関係性で、このような旅を?」「…………」「あ、いや、非難しているわけではないんですよ」
あれほど雄弁だった彼女が沈黙しがちになったのを引け目に感じた男は、言葉をとりなして、「ただ純粋に疑問というか。不思議というか。ただの昔なじみでしかない人に、そこまでして会う理由……そこまで苦労を重ねてまでして、会いたい理由にしてはよく分からないというだけのことで」
「確かに」
そんなこと人の勝手じゃないですか、などと機嫌を損ねられることは覚悟の上で、男はそういう言い方をしたが、意外に彼女はその言葉を吸収して、しかもあろうことか、つきものが落ちたかのように、気落ちしたような声で納得したような声を出したので男は少しギョッとした。「僕も、実のところそこが疑問だったのです。どうしてこれほどまでして彼の存在に執着してしまうのか……」彼女は視線を落として、口元に手を当てて考える仕草をした。「彼が都から居なくなった時……しまった! とおもったんです。僕はまだあの人に何も話していない。まだあの人と話したいことがたくさんあった。会って、お話がしたかったんです。それだけのために僕は、今までに、様々なことに興味を持って取り組んできた……全部、彼に話して聞かせるため、話して、彼の意見や言葉や反応を知りたくて……それができなくなってしまったと知った時、とてつもない喪失感が襲ったことを覚えています……だから、また彼とそういう時間を共有したいと……たったそれだけのことのために……でも、改めて問われると不思議なものですね。ほんとうに。あなたたちに要らぬ労を煩わせてまで、このような珍道中を。どうしてだろう? 何故私は、こうも彼本人のみに執着してしまうのでしょうか?」
男は、あっけにとられて口をぽかんと開けていたが、しばらくそれをやっていて飽きたので、口の中を多少唾液で湿すと、ようやくになってその重い口を開いた。「だから、好きだからじゃないですか?」
彼女がちらりと男の方を見る。
「え?」
「その人のことが好きだから」
「誰が」
「あなたが」男は彼女を指差した。「だから、執着してしまう。会いたいとおもう。話がしたいというのはその口実に過ぎないでしょう」
「まさか」彼女は大きく目を見張った。「そんなことが?」
「だってもうそれしかないでしょう。話がしたいからじゃない、それは口実に過ぎないんだ。好きだから、会いたいから、あなたはその人に会いに行くんでしょう」
「そういうものですか?」
「そういうものです」
「そういう……」
「そういうものならば、納得できますよ。会話がしたいとかいう言い訳ではなくね」
男は、何でこんな簡単なことも分かんねえんだ、と、じゃっかん彼女のことを侮るような、そして多少の可笑しみを持って眺めるようになっていたが、彼女の心中はもっとまた別の疑問でいっぱいになってしまっていたらしかった。「好き、ならば……」そして彼女は言った。「他人を好いているという理由さえあれば、他者への過剰な執着は、何もかもが正当化し、万人の納得に足る理由に成り得るということですか?」
「……はあ?」
男はおもわず、鼻にかかった、頓狂な声を出した。「なんですか?」
「僕が仮にでも……彼のことを好きだというのなら、あなたはこの無理矢理めいた道中も、納得の行くものだと理解してくれるということですか」
「…………」
何だかよくわからないが。
「理解というか……そうですね。そうだな。なんというか……」男は考えながら、「愛の力というのは偉大だなあと。納得するかもしれないですね。どんなに双方の間の距離が離れていたとしても、どんなに困難な障害が待ち受けていようとも、それを乗り越えるだけの胆力の原因こそが、つまり愛……」
「第三者にとって、どんなに突飛に見えるような言動でも、その理由が他者による他者への愛情に依るものであれば、何にせよ言動の理由としては機能するということですね」
「まあ……」男はあいまいに頷いた。「なんだかそう断定して言われると、良くわからなくなるようだが」
「それならば」混乱している男を他所に、彼女は続けた。「僕のこの行動が、いわゆる、他人が他人に抱く恋心を言動とするものでないとするならば、僕のこの行動は理解し難い、あるいは共感することのできない、不気味で奇妙な、正当な理由を欠いた行動になってしまうということでしょうか」
「……………」
何でこんな話になるんだ? と男はおもった。
「ただ、その特定の人物ともう一度話をしたいというだけで、遠路はるばる、また居場所も何も不確かな人に再見しようとするのでは、理由にならない。そんな表層的な、ごく薄らかな理由を口に出すというのは、その裏側に、もっと真実味のある、人には秘めていたいような、真実の厚い感情が眠っているに違いない。そういうことですか」
「まあ……」男は奇妙な圧力に気圧されるような気分になって、たじろいだ。「いや、ごめんなさい。そういうつもりじゃなかった。あなたのお考えを否定するつもりは、無かったんです」
「勿論そうでしょう。そんなことは分かっています。あなたは親切な人だから。ただ私は、単純に疑問におもっただけなんだ。私の感情が……」彼女は詠うように呟いた。「恋ならば理由になる。恋でないならば、理由にはならない。理由にはならないわけではないかもしれないが、その発言の裏側に、もっと別の感情を有しているのだろうと推測されてしまう。これは一体どういうことなんだろう」
「どう? どうと言われましても……」
すでにその時、男は彼女の”意味のわからない”疑問に戸惑っている。どうしてそんな、すべての人が分かっていることを、さも難問かのようにして、分かっていることを分からないことだと逆転させてしまうのか? そんな必要がどこにある……
「僕はずっと疑問だったんだ」
しかし、男のそのような戸惑いにはまったく構わず、それどころか天恵を開かれたかのようになって、きらきらした目で、彼女は一人勝手に続けた。「なぜたった一人の他人にこれほど執着する気合いが訪れるのか。別に、誰にも話さなくてもいいような内容でも、その人の前に立てば、何でも話してしまう。きっと反応が気になるからなんです。その人が、私の口にした言葉によって、どんな反応を取ってくれるのかというのが見たい、聞きたい。その結果が失望であっても、希望が叶えられたとしても、どちらでも構わないんです。どちらでも……僕の話に耳を傾けて、それで、あの人が……それによってどんな言葉を僕に伝え教えてくれるかが気になる。そしてそれに飽きるということがないんです。それどころか、その反応そのものを、まるで日常のものとしてしまえたら、などと……しかし、僕にとっては、このすべての感情それこそが疑問だった。なぜ彼にだけ? 僕は……正直に言って……ごめんなさい、気を悪くされたら申し訳ないけど。あなたが私のことをどうおもおうと、最終的には、どうでも構わない。この道中を共にしてくれた有り難い人、だから最上の敬意は絶対に払いたい、だけどそれだけなんだ。こんなことを言ってしまってごめんなさい、あなたが私を憎もうが、無関心であろうが、迷惑な人間、厄介さんとおもわれても……そういうものも、私の一部なのだろうと認めることができる。でも、彼の前だと、だめですね。今ちょっと想像してみたけど、そういうのは難しい。あれ? おかしいな。だんだんだめになる。良く分からない。僕はあなたに対して失礼な、礼を欠いたことを口にしていますね。でも……おかしいな。
だってそうでしょう?
私などという木の葉以下の羽虫のようなもの、大した価値など無いというのは分かっていることなんだ。だから、羽虫をそれ以上のものとして装飾しようとする、本来の自分より良いものにおもわれようとして、しかし粉飾するというのがそもそもおかしな話ですよね。そんなことをしたって虫は虫なんだから。それにもかかわらず、私は彼のめのまえに立つと、積極的にそのような行動を取っている。あなたのめのまえにこうして立っているのなら、私は私という個人を羽虫そのものとして扱うことができる。つまり、厄介さんである、失礼千万である、他人に向かってそのような言葉を吐きつけてしまう面倒くさい個人としての自身の欠陥を認め、それを含め自身であるという認識を保つことが可能になる……にもかかわらず、たった一人の個人のまえに立つと、それが不可能になるのはどう考えても不健康じゃないですか?」
「……………」
男は彼女の訳のわからない、しかし不思議に真に迫ったような言に煙に巻かれそうになったが、慌てて我に返ったように、「だから、好きだからでしょ?」と、若干嘲笑の混じった声を出した。「何をそんなに難しく考えているのか、分からないな。人が人に抱く感情というのは、実際のところはもっとずっとたんじゅんなものでしょう。そんな、理詰めで考えるようなことじゃないですよ。机の上で、感性的なものを、ぐちゃぐちゃと一人で考えてみても始まらないんだ。あなたは気位が高いから、自分の感情をうまく認められないだけなんだ。もっと素直になりなさいよ。自分の感情に素直になりなさい」
「素直とは?」
「だからさ、」男は少しイライラと、「あんたはその人のことが好きなんだよ。好きで好きでたまらないんだ。だからその恋心の強さによって、一度離れた縁をもういちど結び直そうと躍起になっているんだよ」
「恐ろしいですね」言われた彼女は、まるで他人の話をしているかのように、自身の二の腕を寒そうに擦った。「蛇のような執念だな。何だか末恐ろしいようだが」
「あんたの話でしょうがよ」
「怖いですね。人間の感情というのは恐ろしいものだ」
何をのんきなことを、とおもいつつ、男はその発言者のうつむいた顔を改めて眺める。
肌が異常に白い。そのつるりとした面は白磁器かなにかの表面に似ている。そこに居るだけで、所在しているだけで成立、完結してしまうような自己完結性がある。それ以上何も必要でない。付け加えるものなど何もない。これ以上何かを加えたらその均衡が崩れてしまうし、何かを引いたら物寂しくなる。端的にいえば彼女は美しい。美しいが、その完成された美の中には、どんな欠損もない。であるからこそ、その外観の中身であるところの感情に欠損が生じて、それによって按配が良くなっているのか? いや、まさか……
「しかし、そういう感情というのは、とても便利なものですね」
そして彼女は、また突拍子もない、人の感情に釘を引っ掛けるような言い方をして、他人の感情を不快に似た感情でむかつかせる。「一つの強い感情が、そしてその感情が万人に共通する認識であるとするのならば、何もかもが正当な理由を伴った行動として理解されるのですね。他人に対する異常な、強い執着……しかしそれも、好きなものは好きだからしょうがない。誰もがその行動を、肯定しないまでも、納得はする。僕があの人のことを好きだったら……それを”素直に”認めさえすれば、僕は異常な行動者ではなくなるんだ」
「いや、別に、異常とは言ってないですよ」
「そうですね。異常であることがなぜ悪いのか、ということにもなりますからね」
「……………」
つくづく、ああ言えばこう言う人だな、と男はおもう。こんな男の相手を四六時中続けるなどということは、随分骨の折れることだろう。
「あなたは……素晴らしい人だ」
で、その男は言った。
「……は?」
「あなたは何もかもが清浄だ。何の曇りもない。私はあなたという状態の他人に憧れを感じます。僕もそういうものになりたかった。そうすれば私も、おのれのなかに流れる感情の血脈のようなものを、もっと自然に(きっとこれがあなたのいう”素直”ということなんでしょうが)、自分のものとして所有することができたでしょう」
「…………」
「しかし人には個人というものがあります。そうでなければあなたがいて、私がいるはずがない。私があなたであるのならば、私はこうして会話すら容易には行えないわけですから」
「…………」
「個人というのは……そういう、悲しいものですね。誰にも共有されることのない……とてもかなしい、寂しいものです」
結局彼は彼女の言っている言葉の半分も理解出来ず(というより別に理解する必要もないとおもった)、しかし妙に好奇心の方だけは刺激されて、彼女の話を聞くのが、生活の中のひとつの楽しみになる。
彼女と話していると、どんな話をしていても楽しかった。彼女の話すそのすべてが理解できるというわけではなく、共感できるというわけでもなかったが、彼女の話は、常に彼の想像するちょっと上辺りに位置していた。少しわからないくらいが、一番おもしろいのかもしれない、と彼はおもった。わからないというのは余地だ。余りものであり、余白であり、未来であり未知である。その少し白抜きされた残り物部分を、ああでもないこうでもないと思案したり、埋め立てたり、掘り起こしたりするのは楽しいことだ。そういう余地を、彼女の話は彼へと提供してくれた。彼女と話すと心地よい疲労で、その晩を興奮でねむれないことなどもあった。彼女と相対するのは疲れる。しかし、それが嫌じゃない。それは不思議なことだった。
さて一方、他人に臆面もなく講釈を垂れる彼女は、次第にその講釈を自らの身から剥ぎ取られ、それが頭の中からドロドロと、溶け出した脳みそのように垂れ流れていくかのような感覚を、次第に覚えていくようになる。
季節は秋、日が暮れなずみ、篝火が焚かれ、ぱちぱちとした火の粉の爆ぜる音も心地よい黄昏時、村の神社では太鼓や笛の音がピーピードンドン鳴り響き、人々は火に群がる虫のように方方を踊り回って、日々の息災を祝福し、祭りの非日常を謳歌する。
「すさまじいものだな」
彼女はほとほと感心したという声色を隠さず言った。「なんというか……圧巻! です」
「お役人様もきみょうなことをいうね」
となりの鼓の男は自身の無精ひげなどを撫で、「もう慣れたでしょう。見慣れた風景だ」と、つまらなさそうに言った。「どこの地域へ行っても、どんな場所へ出かけても、みなやることは同じです。酒を飲んで太鼓を叩いて笛を鳴らして踊るだけ。こんなものは、もう嫌というほど……」
「それだからすばらしい」彼女は言った。「こんな様子はどれだけ見ても飽きないな。彼らの生命の輝き、生命に対する素直な称賛の姿勢は素晴らしい。何処までも明るく、ひねたところがない。彼らの輝く表情のそれぞれは、歌の素晴らしさのそれぞれはどうですか。すべてが生のよろこびにみちている。その風景は……」
「やつら、そんなことまで考えて行動してないですよ」
鼓の男は彼女の興奮とは反対に、ちょっとうろんっぽい声で答えた。「ただ祭りにかこつけて飲んだり食べたり歌ったりしたいだけです」「おや、お客でもあるところの彼らのことを、そんなふうに言ってしまってもいいの」「どうせ聞こえちゃいませんよ。皆自分のやることにむちゅうになっているんだから」
「それが、だから、素晴らしいと言うんです!」
彼女は彼の言葉をたたき台にするかのようにして採用し、また好き勝手なことを言った。「まさに、彼らには現在しか無い。今しか考えることがない。その簡潔さ、潔さ……朗らかさ。彼らは現在を楽しんでいます。でも、そういうことは、できない者にとっては……現在を過去にしないと楽しめないもの、つまり、あの時は辛かったが、振り返ってみると楽しいことばかりだった、とか、現在を未来に想像し、その想像の中で遊んだりしなければ、現在を認識できないものたち……そういう者たちからすれば、現在をそのまま楽しむものの目や耳というのは、何に引き換えても得たいとおもうもの。私は彼らの姿を眺めながら、そうやって現在というものの快楽に怠惰であった自分のことを、こうして反省したりしているんですよ」
「また、そうやって、わけのわからないことを言って」
鼓の男はうんざりしたように、しかし仕方のないいたずらな動物をあやすときのような慈悲を含んだ目をして、「あなたは自分に無いものに対して、少し価値を置きすぎる傾向にありますね。実際には、あなたの想像するような、それほど善いものばかりでもないでしょうに」
「ああ、なるほど……」それで彼女は簡単に彼の言葉に納得するそぶりなどを見せてしまって、益々彼は彼女のことを憎からずおもわざるを得ないようになってしまう。「完全なる異物だから、人は人に対して称賛の声を惜しまないのですね。僕と彼らは全く違うものだから……ああ、やっぱり、あなたのおっしゃることもいちいち面白いな。その調子でどんどん私とお話してやって下さい」
などと、胸肉もあらわに踊り狂う人々を他所に、彼女は優雅な様子で酒などを飲んでいて、少し酒に酔ったような彼女はそれらの人々を眺めるばかりだったが、ふいにその手を取られ、顔を上げると、そこへは見覚えのある背高の男。彼は無骨な様子で、しかし微笑んで言う、「さあ、こっちへ来て」
彼女の手からかしゃん、と短い音がして土器が溢れ、彼女は腕を引かれたまま、おぼつかない足取りで彼に着いていく。
篝火に男の顔が照らされて、その濃淡によって顔の印象が濃く映る。彼は楽しそうに笑っている。それを見て彼女は、いい顔だ、とおもった。彼の笑顔には、それを向けられた者の存在を祝福して喜ぶ、みたいな力強さがあった。顔の表情筋を緩ませて、明るい声を出して他人に向ける。それによって他人は、それを向けた側が、向けられた側の他人を憎からずおもっている(少なくとも、表面上は)というのを理解、または誤解する……と。
ただそれだけのこと、声色の高低、口角の上げ下げの選択をするだけで、それは全く正反対の意味として他人に捉えられてしまう運命にあるもの、それを彼らはごく自然に選択し、他人との円滑な意味交流として使用している。…………
市井の人というのは、なんて素晴らしいものだろう!
彼らにはどんな無駄もない。対面している間は談笑していたにもかかわらず、相手が退席した後に、その人物に対して罵詈雑言を浴びせ、上げていた口角をこれ以上無いというくらいにひ曲げて悪態をつく者を見るなどということは彼女にとっては日常茶飯事だったし、笑顔というものは、その下に隠した本来の感情を覆い隠すための面に過ぎなかった。実際に彼女も、口角を上げて笑顔を作るなどというのはそういったことのための記号として自然と使用してきたのだ。彼女は彼の自然な笑顔を見ながら、そういう過去の自身の行動を恥じた。その屈託のなさの中には、どんな隠し立てもない。少なくとも彼女には感じられない。彼女は、ある道具をめのまえにして、本来の使用方法を改めて教えられたような、まあたらしい恥辱に似たものを感じた……
感じた、が、その感情もまた短く終わった。彼女らは人の輪の中へと躍り出た。彼の手が、彼女の片手を取って、高く掲げた。ぱちぱちと篝火の爆ぜる音が聞こえ、太鼓や笛の音が遠く聞こえた。
「踊ろう!」
彼女の腰に、男の分厚い手が掛かった。彼女は腰に掛かった奇妙な肌の温みと、確かな他人との接触に、首筋の辺りをじっとりと濡らすことになった。
それは恐怖に似ていた。未知のものに出会っている、という認識があった。しかしそれとは反対に、遠い過去に、似たような体験をしているというような認識もあった。私はこれを知っている。しかし、それはただの誤認であって、真実ではない。私はこのようにして、他人と動作を対にしたことがない。このように人前へ躍り出て、平気な顔で体をくねらせたり、揺らしたりしたことなど、一度もありはしない……
今や、そこへ居る人々の視線は彼女のその体にあった。男の手の回った腰が熱く、不快だった。頭の中で次第に、音が強く、大きく鳴り響き始めるのが分かる。誰かが音を強くしたのだろう、と彼女はおもった。笛や太鼓を鳴らす人の人数が増えたのだ、と。それで頭の中が、それらの音で、こうしていっぱいになっているに違いない……
わあっ! と、おもわず彼女は目を瞑った。
彼女のめのまえに降り注いだものは、とてもあまやかなにおいを放っていた。それが篝火の火に揺られて、それぞれの色も濃く、彼女の全身へと降り注いだ。
それは花だった。たくさんの種類の、なまえも分からない花々の花びらが、舞い散って、それが彼女のめのまえできらきらと踊るのを見た。誰かが彼女たちに向かって振り投げたことによって、そのはらはらと舞い散る中で、彼女は背高の男の楽しそうな顔を見た。ただそれだけのことで、彼女は、現在の何もかもが、楽しくてたまらないような気分になった。
彼の大きな手が、彼女の萎烏帽子にかかった。ぱたぱたと彼の手が烏帽子の上を払うと、それに伴って花びらがぱらぱらと舞った。それから背高の男は、まったく善意から、あるいは好意からによって、その言葉を口にしたのだ。「今日くらいは、見せてくれても構わないんじゃないか?」
彼女は高揚して、幾分倦んだような頭で、ぼんやりと彼の言葉に返答した。「何が?」
「髪を……」
そして彼は、まるで彼女のことを慈しむかのような目をして、言った。「あなたのうつくしい髪を見せて下さい。こんなに楽しい夜なのに。こんな夜にまで、隠し立てすることもないでしょう」
「かくしだて?」彼女は呆けたまま、ただ男の言葉を繰り返した。
再び、はらはらと白だの、赤だの、橙だのの色をした花びらが舞った。村のわかいむすめたちが、籠いっぱいに詰め込んだ花びらを撒き撒き人々の間を通り抜けるのを視界に入れながら、彼女は彼の手の平が自身の肩に触れるのを感じた。
「ご事情があるのは分かる。知っている。でも、今日くらいは、構わないのでは?」
「構わない? 何が」
「あなたが女性であること」
彼女は、その時、彼に自身の正体を喝破されたことを、とんでもないことだと認識しなければならなかった。けれど、今や彼女の頭の中は笛や太鼓の音でいっぱいで、それから後は認識できるものが何もない。人の視線もある、火の熱さもある、男の手の温み、いや熱さも、感じる、しかしそれ以上に、彼女は男と踊ることによって、”現在”という時間の檻のなかに、すっかり囚われてしまっていた。
こんなことは……不思議だ。”今”以外に何も考えられない。現在のことにしかおもいを馳せることが出来ず、それ以外のことに頭が回らない。過去、私は何をしていた? 未来、私は何をなすべきか。何もおもいだせないし、何もおもいうかばない……これはどういうことだろう?
「どうせ、明日になればまた元の日常に戻るだけ。今だけはあなたと、女性としてのあなたと踊ってみたい。そういうことは、可能だろうか」
「女性? 誰が……」
男は好意だけを口元に残して、そして彼女を見つめたまま、その首元に手を伸ばした。首元で結ばれていた細い紐が解け、音もなく烏帽子は土の上に落下した。男の指はそれだけでは足りず、彼女の髪を結っている髻を千切ると、それも土の上に放ってしまった。
ああ、こんな屈辱的な行為が、果たして?
彼女の髪は、普通の女ほどもあるわけではない。しかし普通の男よりは、確実に長く、どうしても光沢を持ってつややかに流れるそれは、彼女の白おもての対比とあいまって、黒々としてうつくしい。
「ああ、やっぱりそうだった。あなたはうつくしい人だったんだ」
そしてそれを祝福、歓迎するかのように再び彼女の頭上に花が振り掛けられる。ぴーぴーと人々がそれを囃し立て、彼女は翠の髪を踊らせて、わけもわからないまま、自分が一体どういう現状に置かれているのかも、わからず、楽しそうに笑っている背高の男といっしょになって踊っている。
でも…………
男だとか、女だとか……そんなことは、どうでもいいことじゃないか? そんな、つまらない……さまつなことにこだわって、現在のたのしみをないがしろにするなんて……そっちのほうが、どうかしている。
その時、彼女の頭の中にあるのは現在しか無い。音と温度と他人の顔。それが今現在の彼女のめのまえにあるすべてだ。それ以外は存在せず、また、存在しなくても別に良かった。踊りながら彼女はおもった、あー、これだ。こういう感覚なんだ。こういう感覚を得たいと願い、であるからこそ、それを容易に所有しているような人々のことを、私は称賛の目を持って眺めてきた……それに似た現象が、たった今自分の身に降りかかろうとしている。こんなに素晴らしいことが! そして現在に掛かりきりになっている彼女の頭の中からは、今まで覚えてきたことが全部溢れていく。でも溢しても別にどうでもいいじゃないか? そんなものはもともと要らないものだったんだから。こうして現在で頭が一杯になることが可能になるのならば……余計な知識や策略や、演技や仕草や会話が、一体何の役に立つ?
彼女はそうやって、みずからのすべてを忘れ果てて、現在ばかりに掛かりきりになって、男と楽しく踊っていた。それは彼女に一時的に快楽をもたらしたが、また未来において、不快をもたらす理由にもなった。
なぜか? 決まっている。おのれの裸面を衆目のうちに晒してしまったからだ。
彼女にはそれが悔やんでも悔やみきれない。なぜなら、いつだって、自身に降り掛かってくる厄災というものは、ほとんどのばあい、みずからの手によって引き起こしたものに拠るからだ。
不可抗力による厄災や不幸、災難というのは確かにある。上司の機嫌が悪くて一方的に強く当たられるとか。家が貧乏でまんぞくな教育を得られなかったとか。親から虐待を受けたとか、顔の造作が不味くてその一生をその顔面を貼り付けて生活をしなくてはいけないとか……
しかし、自身の身に降りかかる不幸というのは、たいていにおいて、自身の手によってみずから手招きした結果というのが大半なようだ。
仕事でミスを犯すのは、自身の注意が足りなかったから。出先で雨に降られるのは、自分で傘を持ってくるのを忘れたから。人に嫌われるのは人に嫌われるだけのことを自身が過去によって行ったから。不幸を招いたのは……
しかし未来からそれを振り返ってみれば、「なぜあんな行動をしてしまったのだろう?」という後悔ばかりが残るだろう。未来から見れば容易に回避できるようなことでも、過去においての幼稚で、考え無しだった過去のおれは、それらに注意を払うこともできず、ただでくのぼうのように間違った選択肢をえらび、それによって自分の首を自分自身で締めている。このようなくだらない循環はないだろう。それにもかかわらず、過去の自分というのは、どうしてあんなにも頭が悪く、そして未来においてもまた、おなじようなあやまちを繰り返してしまうのか……
深夜、その女……つまり結局は女の身であるところの彼女は、草木も眠る丑三つ時、みしらぬ男に組み敷かれている。
それはもちろん、彼女にとっては最低な現象でしかない。しかしその行為がまったくの常識はずれの行為であったのか? というと、一度立ち止まって考えなければならないことになってくる。
まず第一にその日は秋祭りだった。祭りは豊穣を祈念し生命そのものを祝福するために行われる、生きる者にとってのよろこびを、神に感謝し捧げるためにある。そこへ来て生命そのものが、尊ばれ、歓迎されるのは当然のこと、祭りの最中から終わりまで、集落のそこここでは男女同士での睦み合いが気楽に行われ、人々はそれを感受し豊楽する。それはそこへ暮らす彼らにとってはごく正しいことだ、ただの常識だ、ただの楽しみ、命の洗濯に過ぎない……
彼女の身に降り掛かったものも、やはりその延長線上にあった。その男はそれを自身の常識に照らし合わせてそういう行為を行おうとしただけだ。しかし、その常識というものが、また別の常識と簡単に等号を結べるというわけでもない。
その男の常識というのは、つまりこういうことだ。夜這いってのは、一種の嗜みだ。一種の男らしさを証明するための手立てだ。そしてそれが引き結ぶものは、将来的には、結果的には、その集団にとっての善となる行為なのだ。だから俺は正しいことをしている。俺は正しく、そして常識にあふれる、男らしく勇敢な、一種の……
旅の者の血を集団の中に混じらせることによって、近親的欠陥を持った個体を生産することを避けることが出来る。薄弱児が生まれるということは、集団の存続にとって良いことか、悪いことか? その集団に余裕があり、すべてが潤いに満たされているのだとすれば、そういった子どもとの共存も可能だろう。しかし、どちらかといえばそうでない集団のほうが多いだろう。それならば、これから俺の行おうとしていることが、集団にとって正しいか、正しくないか? 大義名分は我にあり、俺は常識的な、正しいことをしている!
しかしその集団の利益を、すべての人間が望んでいるはずがない。
彼女はその時になってようやく知覚した。それは、おのれの体というのは産む体でも有りえてしまうということだ。
その体験は彼女にとって、とても奇妙なものになった。何か、自分の役割をおもいだしたような気もしたし、また、それまで信じ込んでいた(あるいは自身を自身で騙し続けようとしていた)ものを他人によってめちゃくちゃに踏み潰され、今まで築いてきた自画像を焼き捨てられてしまったような気もした。
彼女は今まで、侮っていたのだ。侮っていた、見くびっていた。自分だけは違う。自分だけはそういうものに作られていたとしても、そういうものから逸脱した存在で在ることが可能なのだ、と。だから今まで私は、女性という性別が強制されてきた詰まらない決まりごとから、逃げて、男の身に自身と他人を騙しつけ、好き勝手やってきたのだ。しかしそれはただ単純な逃避に過ぎなかった。性別を異にするものが、また性別を異するものに対してそのほかならぬ、”異”によって積極的に働きかけようとするとき、それは否が応でも強く作用してしまうということ。それによって、自身の性を自身に思い出させる。自分には無いとおもっていたものを、無理やり自覚されたという屈辱……
どんなに自身を偽装しても、”そうでないもの”だと宣言しても、”そう”なものは結局”そう”なのだ。人はその人の自然を持って生まれる。しかしそれは自身の意に背くとして、途中でその自然をむりやり捻じ曲げて、その捻じ曲げた結果を自身の自然として平然とすることを望む……それは、誰かの手によって自然と決められてしまった自身の自然を、自らの手で作り変える行為にほかならない。しかし……それは自然ではない。だからどうしても不自然として残ってしまう。その不自然はそして、なぜ暴かれなければならないのだろう?
隠しているからだ。
隠しているから、隠れているから……天の岩戸の例を待たずとも、他人の中にほのかに宿る秘密のにおいは、他者の好奇心をとてもじょうずにくすぐって、個人への関心、希求を強くする。
彼女はそのすべてを確かに隠していた。本当の性別も、本当の目的も、本当の欲望も、本当の所属も……、しかし、彼女にとってそれらは本当に自身によって認識できていたのか? と問われると、それはあやういようにもおもわれる。
彼女には本来性が欠けている。どこへも一致しようとしないし、一致するつもりもない。それで、本人は本当の目的とやらがあるのだと勘違いをしていて、その勘違いのお陰で、これまで生きて来れたようなものだったが、それでもやっぱり彼女にはその自覚もない。だから、他者によってその不安定な生命を固定されてしまうと、混乱する。彼女は、彼女自身をふらふらとさせておくのが好きだった。それで、精々周りの人々のことを翻弄して、そのような詰まらないことで翻弄、混乱する方が悪い、などと、棚上げのようなことを考えていたのだ。
しかし、そのようなふらふらが通じる場所と通じない場所がある。その違いとは何か?
言葉だ。
人の大多数は、言葉によって他人との関係を作る。言葉によって他人との距離を測り、位置を知り、意味や意志を交換し合う。会話の応酬によって、人々はその対話者との意思疎通を計ることを可能にしてきた。言葉とは便利なものだ。それを上手く利用することによって、生き物の本来的な暴力性や短慮ゆえの悪的結果を防ぐことも出来るようになる、それは動物にはない、人間のみに特権された、とても便利なものだ……
しかし、積極的にか消極的にかは、知らないが、その便利な道具の使用を選ばない人間というのももちろん存在する。その使い方を知らない、使い方を教えてもらったことがない、訓練したことがない、そういう人々をまえにして、言葉など、意味など、どんな価値を持つというのだろう?
彼女を組み敷いたその男は、言葉こそは知っていたが、その使用方法は、彼女の知っている使用方法とは少し違っていた。所変われば品変わる、その意味は万国共通の意味記号を持つはずのしぐさ、たとえば”笑顔”などという頼もしいものとはかけ離れて、彼らの使用する言葉というのは、他者理解のためではなく自己主張のためのみに便利に使用される。
男にとって、その行為は当然だったのだ。
そして、その男にとって女とは、そういうふうに組み敷くに値する、あるいは組み敷くものであるという記号でしか無い。その記号にどれだけの装飾が施されているか? 彼女はその点においては素晴らしいものだ。彼女はうつくしい異邦の女だ。彼は彼の常識に従ってそういうことをした。彼の中の不自然を自然へと作り変えるために。でもそれは言葉によって双方の間に共通認識が結ばれないままに行われたものだったから、行為の対象となった他者であるところの彼女からしてみれば、自然が不自然へと歪められてしまったと認識したのは当然のことだ。
彼女がそれに気づいたのは、何か生臭いような、いまだかつて知りようもなかった他人のにおいを、ごく近くに感じたためだ。
彼女は薄っすらと目を開いた。そこにあった情景! それが恐ろしいものでなかったなどと、なぜ言えるのだろう? 彼女はその存在を認識した瞬間、全身に冷水を浴びせられたかのような、直情的な恐怖を覚えた。
それは彼女の知っているものではない。なぜならにおいが違うからだ。そしてそれは、彼女が中央で嫌というほど嗅いできた、奥ゆかな、人を幻惑させるようなかおりでもなかった。それは人間のにおいだった。きっと、中央の人間も、何もつけないままで、人の住まう部屋へと偲んでくるようなことがあれば、このような不快なにおいを発するのだろう……それを知っていて……人々は自身の人間くさい、油臭い本当の匂いを糊塗するために、香を焚き染めたのではなかったのか……
ということはどういうことか? 今ここにある、彼女のめのまえにいる男というのは、実のところ中央で彼女を組み敷いた人間と、何ら変わりないものということだ。
中央の人間は、自身の生臭いものを知っている。だからそれを隠すという術も知っている。そして、隠すという術そのものが、中央では共通言語として作用している。その結果が香のにおいの充満に繋がった。その充満に鼻の慣れた、あるいはそれを生活そのものとして受け入れているその場所での生活者にとっては、それは最善のものとして作用する。しかし、ここではそのような共通言語の形成などは意味をなさない。文化として発達しない。だから男は生身のまま、生臭いままだ。つまり、彼のにおいは特別のものではない。誰もが持っているものだ。ただそれを隠そうとしていないだけの……
同じなのだ。結局。
中央でも地方でも、やることは皆同じ。どうしてこういうことになってしまうんだろう? 彼女は考える。夜、見知らぬ男が、見知らぬ女をその体の下へと組み敷く。そうすることによって、人々はいわゆる男女の関係というものを結び、縁故を結び、家族関係を結び、集団を形成する…… その過程の中で無効化されているものとはなんだろう。そして、大半の無効化されたものどもは、どの過程の最中に、どんなことを考えているのか? 何も考えていない。ただ、そうなってしまったものに対して抵抗を取り敢えず見せ、それが無意味なもの、どんなに望んでも達成できないものだと判断すると、思考という過程を取る余裕もなく、抵抗というはかない意思表示すら、相手に提示するのを止めてしまう。敵対動物に捕食される、あるいは狩猟される寸前の動物が、ぐったりと自身の動きを止めてしまうとき、その頭の中で何を考えられるというのか?
玉鬘の例を待つまでもなく、何かを受け入れなければならない他者というのは、別に田舎だけに限られたことではない。だから、田舎に居ても、都会に居ても、彼女はこうして同じような目に遭遇する。事前に文を交わすことによってその忍んでくる相手の存在を知っているか、居ないかの違いはあれど、どうしてここまで似たような現象が、遠く距離を隔てたというのに行われ得てしまうのか……
虫みたいだ、と彼女はおもった。虫みたいに、与えられた生存本能だけを行動原因として使用する。虫みたいなもの……そして私はその虫みたいなものに、その対であるという認識を持たれたまま、その絶対的におのれでしかないその体を、いいように扱われてしまうわけだ……
彼女は笑った。こんなくだらないことのために! こんなくだらないことのために、私はおのれの生き物としての生活を永らえさせてきたのではない。このような恥辱を受けるだけのために……私は女になったのではない!
彼女をその行為から遮断させたもの、それは単なる力とか、単なる偶然とかではなく、それは絶対的な意志だった。私はあなたのための自由動物ではない。あなただけのために作られた、性交可能機械などではない。彼女はそのものすごい力を持った腕に、満身の力を込めて噛み付いた。口の中にくだらない血のにおいと味が広がった。馬鹿馬鹿しい。こんなことはすべてくだらない。馬鹿馬鹿しい……詰まらないことだ……
「誰か、」
彼女は口の中で生臭い血をぐるぐる言わせながら唸った。「誰か在る。誰か起きて。誰か起きて、ここへ……」
ばん! と、耳元でものすごい音がした。髪を鷲掴みにされ、激痛が頭皮を襲った。彼女の視界はぐるりと回転した。耳が上手く聞こえない。靄のかかったように、しかし耳の中ではわんわんと空気のようなものがものすごい速さで回っているような感覚がある。
殴られたのだ、と、その時彼女が分かったかどうかは知らない。叫ぼうとした彼女の口を、誰かの分厚い手が遮った。彼女は呼吸がうまく行えず、どんどんと足で床をめちゃくちゃに叩いた。また殴られるかもしれない。その果てには殺されてしまうかも? やっぱり体格差は如何ともし難い、結局のところ抵抗など無駄なことは止めてしまって、じっと大人しく審判の時を待つしか無いのだろうか? ……馬鹿な。仮にそのようなことになったとしても、死んだら化けて出てやるからな。お前みたいなろくでもないものに、いいようにされて、なぜこちらが被食者の名付けを受けなければならないんだ? お前などが接触してこなければ、そのような名札は付けずに済んだのに。お前なんか。お前なんかに!
言葉が通じないというのは悲しいことだ。こちらがどのように工夫して、噛んで含めるような言い方をしても、その国語のいろはも知らなければ、やはりその言葉も意味不明の文字列、象形文字に過ぎない。言葉の通じない相手に、暴力を持ってこちらの意志を優先させるという方法は容易い。しかしその暴力を持ち得ないのだとすれば、その対話者足るべきものに対して、こちらは一体どのような身体的言語を使用すればいいというのか……
彼女がその時幸運だったのは、彼女のそばに、彼女を襲ったその男とよく似た体格の他人が仰臥していたということだった。床がどんどんと踏み鳴らされ、真夜中に女の張った声が聞こえれば、さすがに近くにいるものは何事かと目を覚ますだろう。
彼女のこと組み敷いた男は、その騒ぎによって起き出してきた二人の男に取り押さえられて、小屋の外へと連れて行かれた。それからしばらくして、一人の男が彼女のもとに戻ってきて、大丈夫だったかと尋ねた。彼女は小袖の襟を合わせながら素早く何度か頭を上下させた。「かわいそうに」
その男は言った。
「あなたのうつくしさに……ついつい、幻惑されてしまったのですね。その欲望のみにしばられて……かわいそうに」
その男は言った。
「ゆるしてあげなさいとは言わないが……」
その男は言った。
「それにしても、驚いたな……、正直、僕も戸惑っていて。お慰めするべきか、それとも……」
窺うように、彼女の方を見る。
彼女は髪を振り乱したままうつむいて、襟元を握りしめたまま、その男の話を聞いている。
人の善性に従えば……彼女は考えた。
人の善性に従えば、いくらでも罪業を水に流すことが出来るだろう。人は善によって生まれついた。しかしその成長の過程で、その善が黒く染まろうとするような出来事が起こっただけ。そのような不幸な経験を経なければ、人間というものは、ヒューマンビーイングというものは、本来は清浄な生き物であるのだから……
汝隣人を愛せよ。水清ければ魚棲まず……善人なお以て往生す況や悪人をや。私のようなものでもどうにかして生きたい。美しい日本の私。
…………………
彼女のいささか”過剰な”反応に、男たちはすこしびっくりしているみたいだった。このようなことは、何も祭りの日だけでなくても、日常的に行われているものなのに? 中央から来た人にとっては、多少刺激が強すぎたのだろうか? それにしたって、人の眠りを妨げるくらいに、大げさに暴れまわったりしなくてもいいのに……
早く……こんなところからは”逃げ”なくては。
このような非人道的な習慣がまかり通っている場所からは、一刻も早く逃げ出さなくてはならない。ではどこへ行こう? 決まっている。それは私の……かつて蒙を啓かれた唯一の人、あの人以外の場所に、どこがあるというんだろう?
あの人だけが、たった一人あの人だけが、私のことを正しく理解してくれる。
彼女はそして再び、空の白み始める前から無我夢中で手綱を取って、一心にその馬を走らせている。
とにかく西へ……
西へ!
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