第28話
なんて弱いんだろう? と彼女はおもった。
全身が酢を飲んでくたくたになってしまったみたいに彼女は全身で泣きはらして、その姿はまるで神降ろしをしたばかりの、虚脱状態の巫女みたいで、待機していた二人の女房によって”搬入”されていったが、網代車に”搬入”されたあとも、できそこないの巫女みたいな彼女はぐったりしたまま、ずっと泣いてばかりいる。
彼女が呪っているのは自身の意志の弱さだ。あんなに頭の中で反芻したのに。あんなに、助けてあげるってやくそくしたのに。たくさんに塗り固めて唯一のものと、それこそが真であるのだなどと、決め込んで、それを最善だとおもった。おもいこんだ。そしてそれは彼女の核とするところになってしまって、そのにせものの真に縋るようになった……
でもそれはにせものなので、それをにせものだと指摘する言葉がひとつでもあれば、すぐにかしゃんと短い音を立てて壊れてしまう。その壊れたものを拾い集めようとしても無駄だ。それは飴細工のようにきゃしゃで、薄くて、放っておくとすぐに溶けてしまうような甚だぜいじゃくなものだから。壊れた時にはもうすでに遅くて、それは地面に溶けて飴色を含んだただの水に。それをどうやって拾い集める? そんなことをしたって意味はない。でもあんなに大切にしていたのに。それを、ただ一言否定されただけで、びっくりして、手から離してしまった。それでむざんにもその飴細工は、かしゃんと壊れて帰らないものに。
そういうぜいじゃくな精神だから、こうやって何もかも上手く行かないんだ、と彼女はおもった。
私は逆立ちをしたって、ひっくり返ったって、姉には勝てないんだ。姉のように強い意志もなければ、強い欲求もない。仮にそれらに似たようなものを見つけることが出来たとしても、それによって頭の中は益々乾いて、その乾きを潤したくて、行動ばかりは益々募っていく。その繰り返し。どうして求めれば求めるほど、頭の中は乾いて真っ白になって、その白を塗り立てるようなまねばかりを繰り返さなければならないのか? どこまで求めれば頭は潤って、すべてに満足が行くようになるんだろう。彼女はそういう状況を想像した。だけどその想像は上手く行かなかった。すべてに満足が行くようになんて……
あれ?
「………………」
懐かしいにおいがする。彼女は顔を上げた。ゴトゴトと音が聞こえる。網代車の御簾の向こうから、真昼のような銀色の月の光が、彼女の眼前を捉えた。
彼女は拳を握りしめた。汗が滲んで気持ちが悪い。装束に手のひらを擦り付ける。
彼女は”そういう”状況を知っていた。以前にそういう場所に居たことがある。どうしてそれを忘れていたんだろう?
あんなに良いところだったのに。どうしてこんな、不便で、きゅうくつで、苦しいことばかりで、目的も欲求もわからない、わけのわからないだけの場所に……
いつの間にか、同席していた二人の女房は、すうすうと気楽な寝息を立てて眠り込んでいた。彼女は彼女の濡れ羽色の、艶々した長い髪を耳に掛けた。鼻をすすって、目をごしごしと手の甲で拭く。
分かっていただかないといけない。
彼女はそうおもった。今、彼女に必要なのは、絶対的な意志だ。その実際が飴細工でも、まがい物でも、何んでも良い。ただそれを他人にぶつけて、他人に受け入れてもらえるだけのものにするという絶対的な意志、どれほどそれを拒まれても……
しつこいほど説明するべきだったんだ。すぐにくよくよして、ちょっときょぜつされただけで怯えて、すべてを否定されてしまった、ときゃんきゃん言って逃げ帰ってくるべきじゃなかった。私があの人のことをどのくらい、愛しているのか。必要だとおもっているのか。だって私はまだ、”彼女と何も話していない”!
そういうことは、みんなあの人から教わったんだ。自分の考えていること、おもっていることを、それそっくりそのままを他人に伝えることは出来なくても、それを基軸にして、新たな考え方をこの世の中に創造できるということ。一人ならばだめだ、でも、二人で考えるのなら……そうすることによって新たな道を見つけることが出来るんだ。「お姉さんがそうやって、私に教えてくれたのよ」
今ならまだまにあう、彼女はおもった。
幸い女房たちはぐーすか眠っている。誰にも咎め立てられることなくこっそり抜け出せるのは今しかない、ああ、でもどうして、牛車というのは前からでないと降りられないようになっているんだろう? 牛飼い童に気付かれたら、後ろから警護しているものたちに再び取り押さえられてしまうだろう、どうすれば……どうすれば、このきゅうくつな”動くお城”から出ていくことが出来るんだろう?
「…………」
その時彼女の頭にパノラマで蘇ったのは、過去の原風景だった。
頭の中で彼女の姉の言葉が聞こえていた。一体彼女の頭の中で、その姉は何を彼女に焚き付けていたのか? ……ああ、そうだ、走ればいいんだ! 以前のように、昔のように走ることができれば、あるいは……ああ、なんでこんなかんたんなこともおもいつかなかったんだろう? 宮中での規則やしきたりや、女性としてあるべき、后としてあるべきという品格や決まりという名の迷信に頭をかまけさせて、ろくに自分で考えもしなかったせいで……あー、なんでこんなかんたんなことに?
彼女はくすくすと一人で笑った。楽しくて楽しくて堪らなかった。
走る! 走るというそのことだけで、すべての規則を破ってしまうというそのことだけで、すべてが叶うなんて! なんてたんじゅんなんだろう。なんてかんたんで……下らない……
相変わらずコトコトと揺れる車内で、彼女は膝で立ち上がった。歩くときは、いざり足の方が望ましい。高貴な女性は立ち上がるよりも座っている方が望ましく、寝そべっている方が好ましい、特に御帳台の中などで、じっと男のことを待つように寝そべっているのが……
「止まって頂戴」
彼女は御簾を自身の手で絡げて、牛車を動かしている牛飼い童に向かって後ろから命令した。
牛飼い童も驚いただろう。なにせ彼が今現在乗せているのは、この世の春を謳歌する、都随一といっていいほどの、高貴な身分の姫宮なのだ。そういう、下にも置けない、普段であるならば衆目にさらされるようなことはない、彼などは一生お目にかかれないであろう高貴な人が、その全身をさらけ出している……彼には、都の決まりで全身をがんじがらめにされている彼などには、その事実だけで、もうもう気が動転してしまって、おもわず牛を引く手を止めてしまった。そしてそこを好機と捉えられて、彼女は牛車から逃げ出した。
もう一度。もう一度、きちんと”対話”することが出来たら!
そうしてあの人に分かっていただくんだ。私の本当の気持ちを、あなたが本当はどうすればいいのかということを。お互いの一方的な意見ではない、お互いに話し合うことによって、別の場所に結論を置くこと……それが、ほんとうの意味での会話……分かり合うということなんだ!
そして彼女はその時、実に十数年ぶりに、おのれの足で地面を踏みしめた。夜露に濡れた土はしっとりとしていて、それは足裏にごく良く馴染んだ。それはとても気持ちが良いものだった。彼女はその気分の良さが、足裏から全身を伝わってくるのを知った。でもそれはとても短い快感だった。彼女は、そのとても短かった、もしかしたら彼女のその一生の中で、一番の快楽だった数秒のことを、ずっと覚えていたかったとおもった。実際には、もう二度とおもい出すこともなかったけど。
彼女の快楽は、とても短いものだった。それは、彼女の足が地面に上手く接地し続けることができなかったためであり、そしてまた、彼女の足裏が地面の冷たさを、心地よさを、長く実感できなかったのは、彼女がその、他ならぬ土を蹴って、みずからのその足で、走り出そうとしてしまったせいなのだった。
「あっ」
短い声を上げて、彼女はその場に転倒した。ただでさえ活動には不便な、体にまとわりつく、なよやかでしっとりとした萎え衣装をまとって、普段から必要があるのかないのか分からない、一歩、二歩としか歩くことのない足は、走るようには作られていなかった。というよりも、そのための機能であったものを、彼女は、自らの意志によって不全にさせてしまっていた。彼女には足がある。だけどしかし、彼女の足は、走るためには用意されていないのだ。だから彼女はまっとうな理由によって転んだ。それは、”モノの使い方を間違えたから”だった。
痛い。彼女は片手で、袴の裾から飛び出した、なにやらぶよぶよとして、まっちろい棒のようなものを撫でた。
撫でてみても、そのゴムのような感触は、自身が自身の一部に触れているといった感覚を彼女にもたらさなかった。何かもっと別の他人の、自身からは切り離された物体を触っているかのようだ。これはなんだろう? どうして、こんなにさわり心地が悪くて、変にぶよぶよしていて、指が沈み込んだら、そのまま、形がくぼんで残っていくかのような……
歩けない。
彼女はその物体に触れながら、そのように確実な事実におもい至った。もうこれ以上は歩けないし、立つことも出来ない。立とうとすれば、このぶよぶよとした、わけのわからないものに激痛が走り、また私は再び、役に立たない自動人形のように崩折れるだろう。そのような未来が容易に想像し得るのに、わざわざ実行に移さなくてはならない理由はなんだろう。それとも、実際にやってみなければ本当のところは分からない? まさか……
彼女は満月に照らされた自身の青ぶくれした太い脚を見下ろした。
これは本当に、私の体の一部なのだろうか?
彼女は、はっきり言って、生まれてはじめて、自らの足を、自らの肉眼によって見下ろした。青ずんだ、やわらかな曲線などは描きようのない、どう形容するのが適当なのかもわからない、それは奇妙な形状のものだった。
「なんて……」彼女は息をこらえて、月夜に照らされて蒼光する、その不思議な物体を見ていた。
なんて醜い……
「姫……」
彼女は声のした方へ目を向けた。
「どうなさったのですか。牛飼い童が騒いでいるので、妙とおもって降りてみれば……女房たちは何をしているのですか? このような場所に、高貴なあなたが座り尽くしているなんて……」
そこには男が立っていた。
顔に見覚えはなかったが、声に聞き覚えがあった。彼女は目を細めた。月の光がまぶしくて、上手く見えない。そこに男は居るはずだ。でもその姿かたち、輪郭が茫洋としていて判然としない。
じゃり、と土を踏みしめる音がした。
満月だ。それがとても、ごく近くにあった。それは男の背丈すべてを覆うようにして、男のまうしろにあった。
彼女の視界に突然、にゅるり、と奇妙に短い手のようなものが伸びてきた。それには五本の短い指が付いていて、それが全部、まっすぐに彼女の方へ伸びていた。
「さあお立ちになって。私の手を」
そして、その兵部卿宮と、まともに、”目が合った”。
男は息を呑んだ。それから男はその場に片膝をついて、じっと熱っぽく彼女を見つめた。
「ああ、姫。あなたは」男は声を、恍惚に揺らして呟いた。
「なんてうつくしい……」
彼女は笑った。楽しかったからではなくて、その途端に、何もかもが馬鹿馬鹿しく、阿呆らしく、この世界のすべてがろくでもないものだというのが分かったからだった。このような醜いものを、この男は、うつくしいという!
「誰か助けて」
こんなところはもう嫌だ。こんなところには、もう一秒たりとも居られない。早く帰りたい。早く帰って、こんな場所に居たことは、こんな私で居たことは、すべて、全部忘れてしまいたい……
その時、世界は点滅した。
それから世界はものすごい光りに包まれ、全てが真っ白に、漂白されて、何も見えなくなった。
そして彼女はおもいだした。そしてそれに安堵して、しかしすぐにそのような感情も御無用になり、すべてのことを忘れてしまった。
その時彼女がおもいだし、そしてきれいさっぱり忘れ去ったのは、こういう感情だった。
ああ、やっと、帰ることが出来る!
なんのために、こんなところにやってきたのか知らないが、やっぱり私には必要なかったんだ。こんな、感情などという、やっかいで、つまらなくて、なんのために存在しているか分からなくて、その上薄汚いものは。そして私はそこから開放されるんだ。ひどい気分の浮き沈みからも、絶頂を感じて有頂天になることも、この世で一番さいていで、みじめな生き物の気分でどん底を舐めることからも開放され、私はもとに戻るのだ。感情などという厄介なものを感じる必要がない、静かで何もない場所……私にはそもそも、何も必要じゃなかった。”何も必要としない場所”こそが、私の必要な場所だったのを、どうして今まで忘れ果てて、こんなに”必要ばかりがある、”必要のない場所で、ああだこうだと下らないことを感じ続けていたんだろう?
でももう、そんな必要もない。嬉しくも悲しくもなかった。ただそこには、たったひとつの事実だけがあった。
私はようやくそこへ帰れるんだ!
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