第27話

 彼女の姉は彼女の創ったその世界に介入してこなかったが(術がないのだから当然だ)、もうひとりの余計者はその厚顔遺憾なく発揮して、彼女のうつくしい世界に土足で踏み入るようなまねをする。もちろん彼女には、彼が全く善意の人であるというのは嫌というほど分かる。善とは、良いということだ。そして、他人に善という良いものを積極的、能動的に働きかけるということを、”善い”という意味としているのだ。善いもの、とはそれが発生すれば、すべて善的に受け取るべきだと自動的に決められてしまう類のものだ。拒んだりすれば、そこへ新たに発生するのは”悪”だろう。私は、あなたのためをおもって言ってあげているのに……などと。

「ああいうものを作る人は……よっぽど現世に興味がないのかな、などとおもってしまいましたよ」

 ここのところすっかり彼女にかまってもらえなくなった彼はへそを曲げていて、皮肉っぽくそういうことを言ったが、その実彼女と今現在会話しているという、彼にはもうすっかり非日常となったその現状に、浮かれていて、しかしそれを彼女にさとられまいと、わざとぶっきらぼうな口調を取ってみたりして、忙しないことこの上ないが、しかしそのような内心も、やっぱり彼女にとってはどーでもいいことだ。

「あなたという人は……生きているというのが似合わない、そういう、不思議な人ですね」

 彼女は黙って、机に向かって墨を摩っていた。御簾の向こうではシトシトと六月の雨が降っている。何もかもがジメジメとしていて鬱陶しい。しかし今彼女は、その鬱陶しいということもなぜか楽しかった。なぜなら……彼女は硯の中のまっくらやみを見つめながらおもった。鬱陶しいという感覚は、穢土特有のもので、それは浄土には無いものだったからだ。…………

「…………?」

 浄土……浄土とは何処だろう。

「あなたは、この世のものともおもえないほどうつくしく、輝いて、そしてその輝きのみに終始せず、そのうつくしい……しなやかな五本の指で、現世とは全く違ったものを、紙面の上に描き出してしまう……これはどういうことだろう? このような女性、この世の何処を探しても、あなた以外には見つかりようもないような……」

「兄が居ます」彼女は言下に答えた。「私ばかりが特別なわけではありません。兄が……この世に得難く、それでいてうつくしいものは、私の兄をおいては他に居ないのですから。私の全ては彼女によって創られました。あの人が居なければ、私などは何者でもありません」

「そのようなこと……」

 憂いを秘めた声で、彼もまた言下に言った。「あの人の才能とあなたの才能を、一度全く公平な目で見てください! あなたは身びいきをして、点が甘くなっているだけだ。僕などは、あの人の描いたものなど、二度と見たくないとおもってしまうけどね。あれほど残酷で、現実的で、まるで出てくる人々の幸福を願わないような書きぶりは……一体創作というものの根本を、どうお考えなのだろう。わざわざ不幸になるために、あの方の創った絵巻物の人々は創造されたのですか? もしもそうなのだとしたら、僕などには一生理解出来そうもないことだな。見ているだけで気分が落ち込み、それを手に取った自分の判断の拙さを悔やむような……

 その点、やはりあなたの作品、あなたの楽園はすばらしい。周りの連中もしきりにいっていますよ。あなたの創った楽園の中で、いつまでも遊んでいられるようなことがあるなら、どんなにか良いだろうとね。……あなたはそのすべてがすばらしい。ですがそれ故に不安におもうこともあります」

「………………」

 彼女は墨を磨る手を止めた。

「これほど完璧なあなたが……突然のこと、何処かへ消えてしまわないか」

「………………」

「物語の『かぐや姫』のようにね。突然光がバアーッ……とあたりを包み、天からはモクモクとした雲、ケムリと共に、陽気な音楽に身を包んだ天界人が、あなたのことを天へ引き戻しに来る……」

 春宮はおどけて、そういうことを口にした。彼女はそれに対して口を開くか開かないかためらって、結局ちいさく口を開いた。「そのような……」

「いいや、分かっている。そんなものは、所詮は物語に過ぎません」

 彼は彼女の言葉を遮るように、「でも……これは以前から考えていたことだけど。あなたは一度目を離してしまったら、そのスキに、それこそケムリのようになって消えていってしまいそうな危うさがありますね」

 男は妙に、郷愁に遠く意識を遊ばせるような言い方をした。

「僕はあなたの、そういうところが好きだったが……」

 彼は御簾の向こうに視線をやると、しばらく黙り込んだ。そして、次に声を発した時には、明るく、朗らかな調子で彼女に向かった。「そうだ、以前みたいに、今度あなたの絵を描かせてください。そうすれば、あなたがこうして僕のもとにきちんと存在していたというのが分かるでしょう。約束ですよ。必ず今度、時間を作って、僕にあなたの絵を描かせてくださいね」

 彼女はそれに反することなく頷いたが、その約束は結局、最後まで達成されることなく終わった。

 というのも、半分まで彼女の肖像を描いたところで、続きは後日としていたその後日が結局やってこなかったからで、彼女は彼の不安を実際させるように、天界へ帰ってしまったからだった。

 彼は彼女の、半分まで描いた肖像画を火に焚べて燃やした。雪のように白かった彼女の顔は火に舐められて燃えた。やっぱり、現世の似合わない彼女は、そうやって彼の目の前で、ケムリとなって消えてしまったわけである。

 では、彼女はどういう順路をたどって、その身を天界へと上らせてしまったのか?


 それは月影さえもあいまいになるほどの、嫌になるほど明るい晩のことだ。彼女は用意された、そまつな網代車にその身をすべりこませて、少し埃のにおうその室内で、コンと一つ咳をしている。

 さて、満月である。

 その日は都で祭りがあった。人々が一年の豊作を祈り、神に祈りを捧げる日。

 ただでさえ、彼らの労働の主としているもの、メイン・イベントというべきものが、年中行事としての祭りであるという土地柄である。祭りはそのもの政となる世の中だ。宮中は祭りの準備で慌ただしく、猫の手も借りたいような忙しさだが、その喧騒のあいまを縫って、こっそりと都を抜け出すことの、なんと大変なことか。

 気の良い、妹宮の根っからの信奉者であるところの兵部卿宮は、数日前から念には念を入れて、彼女の望むところの、たった一度の逢瀬についての準備をしていてくれた。「考えてみればかわいそうな話ですよね」と、兵部卿宮は言った。「僕たち男ならば、友人に会いたいと望めば、ふらりと出掛けて行ってふらりと帰ってくることが出来るが、女人にとってみれば、たったそれだけのことでもこれほど骨を折らないでは叶えられないようなものなのですからね。特にあなたのような高貴な御方は……」

 お忍び用にわざと粗末な作りをした網代車に揺られながら、彼女は兵部卿宮から送られてきた文の内容をおもいだしている。

「女人にだって、しかし、屈託なく語り合える友人の、一人や二人は必要だもの。僕はそのためのお手伝いを、こうしてさせてもらえているわけですから……これほど名誉なことはない。僕の人生に素晴らしい僥倖をもたらしてくれたあなただもの。これくらいのこと、しないでいては、バチが当たるというもの。僕を選んで下すって、ありがとうございます、姫宮さま」

 祭りの準備のどさくさに紛れて、少数の従者や女房を連れただけの一行は、月の輝く晩に、コトコトと都の道を進んだ。

 それにしても、まったく真昼のような明るさだ!

 草木はそよぎ、野犬は蠢き、虫たちは囀り……彼女は本当にしばらくぶりに、土の匂いや、草の香りを、その臓腑めいっぱいに吸い込んだ。

 おもえばこうして家の外に出たのは、何時ぶりのことだろう? 昔は何も構いもせず、姉とともに野山を駆け巡っていたような気もする。でも、そんなはるか昔のことは、もうすっかり忘れてしまった。ただ今彼女の中にあるのは、一種の焦燥感と、ただ一人の女性に対する、焦げ付くような、じれったいような希求だけ。喉の奥からせり上がってくるようなその熱い欲望に、体のすべてが支配されてしまって、それ以外に考えることが何もない。それは顧みれば、とても寂しいことだったが(だってそれ以外のものが全くの過去でしかなくなってしまうのだから)、だけど彼女は、今とても、一番に幸福だった。

 ひとりぼっちのおひめさま。

 その人はたった一人、誰も通わないようなうら寂しい山奥で、ひとりお寂しく暮らしている。同じような境遇にあった物語のなかの姫君は、その美徳である鈍感さ故に、一人ぼっちでも平気な顔をして「いつか王子様が……」と一人で居ても十分孤独ではなかった。しかしあの人は、私のあの人は違う。あの人は、あのような細やかな感性を持っている人が……それゆえに、私と似た孤独を、この身のうちにあたためざるを得ない人が……

 あの人は私に似ている。そして、その私がこの孤独に耐えられないのだ。それならば、どうしてあの人がたった一人ぼっちでいることにそのまま耐え続けられるという保証があるだろう?…………

 しかし……

 孤独でその身を固めている人間にむかって、その孤独を外側へと開示せしめようとすれば、どうするか。

 一。その孤独をこちらで半分引き受けるよとするもの。こうすれば十分の孤独を持っていた甲は、乙という介入者によって五分のみの孤独を背負うだけでいい。

 一。その孤独ごと、このおれが修正してやるッ! とするもの。甲の所有していた孤独そのものを乙そのものが打ち壊し、甲に対し”孤独である”という認識を一切持たせまいと努めること。

 一。孤独そのものを暮れなずませること。つまり、薄らげる。一時的に甲に寄り添い、然るべきときが来れば去る。孤独そのものを厭う対象にその行為を施せば、対象は孤独と孤独でないときの対比により、よりどちらかに感情の重きを置くことになるだろう……

 …………………

 彼女は結局、そういう勘違いをしていたのであった。

 つまり……

 孤独とは悪いものである。それは一方的に、第三者の悪意によってゆがめられ、強制されてしまった、かわいそうなお姫様の所有するものである。ラプンツェルはなぜに、その塔に閉じ込められている? スリーピング・ビューティーがそのうら若い身を横たえて、延々とひとり眠り続ける理由は? ピーチ姫はなぜに囚われているのか。よだかは、かま猫は、土神は……

 ……………。

 それは第三者からの強制を受けているからだ、あるいは他者からの拒絶に対し、当人がその拒絶を受け入れてしまうからだ。

 しかし、その自身の中に受け入れた孤独というものが、その先に用意しているものとは何か? 孤独を有するということは、儚くあえかな、木の葉のような人の身を、支えてくれるものがなにもないということだ。誰も支えるものがいず、その身を土の上に横たえればどうなる? 動物がその身を舐め、微生物が繁殖し、蝿が群がり卵を産み付け、あらたな命の肉布団と……なりたいか?

 孤独は死に近い。それは死という一切のおわりをてまねきするエサのようなものじゃないか? そのようなものが”悪い”ものでなくて、一体何だと言うのだろう! 

 というわけで、彼女は彼の人の、そういう死まねきのエサを雪ごうと、自ら進んで取り払おうと、していたのだった。

 でも、それが間違いだった、と。では、どう間違っていたのか?

 大体からして彼女は浅慮だ。彼の人に会って、その人の孤独をどうこうしたいと望んだとしても、具体的に彼の人を”どう”しようとしていたのか?

 つくづく、男女関係などというものはラクだ、と彼女はおもった。

 いや、そのようなものは楽なものと決まっているのだ。なぜなら、そういったものは、今までにヒトというもの、すべての生きとし生けるものすべてがこの地に住み暮らしている間に、脈々と、連綿と、少しずつ少しずつ、大衆の共同認識として織りつくってきたものなのだから。

 そのような大きな河に、彼女などが、ちょっとやってきて、そのそばに小川を作ろうとしても、すぐに干上がってしまっても不思議ではないだろう。水を注がれないものは枯れるしかないし、死んで花実が咲くものか、みるみるうちに草木は枯れ、地面は干上がり、蝶よ花よなどと、口にする余裕もない……

 脈に沿った生活態度を取れば、こうはならない。では、私も、そういった脈流に沿った生活者であったのなら、あの人とそういう目に……つまり、互いの孤独を癒やし、癒やされ、まったく二人ぼっちの生活者同士として、その二つの身を一生共にすることができたというのだろうか?

 そうではない、と彼女はおもった。

 そうではない……なにしろ、私には展望がないのだから。

 私は彼女と会って、彼女とどうなりたい? 彼女をどうしたいのか。別に……何もしたくない。その身を重ねたり、いっしょに暮らしたり、こどもを産んでもらったり、好きだとか嫌いだとかいう睦言を交換したいわけでもない。

 では、そのような消極的な欲望しか持たない甲が、乙に対して積極的な接触を試みる理由……というより、権利というのはどこにあるのだろう。

 何もない。他者が他者へと接触を図るのは、そこへ少なからずの期待や欲求を抱くからだ。そのひとかけらもないものが、他者へと何んの理由もなく接触を図るなどということは考えられない。

 いや、理由はあるのだ。彼女は考える。

 理由……

 かわいそうな彼女。イエによって閉じ込められて、親によって強制され、習慣によって孤独になり、男によってその身を一切から遠ざけられた人。そのようなおかわいそうな身の上の人を、そこから”救い出してやりたい”。そして、それを行為として実行できるのは、この私以外に居ないだろう。彼女の立場を慮り、その孤独を自分ごととして分かってやれるのは、この私以外には存在しない……

 そうおもうと、いくらか気が紛れた。自身の行為を正当化させることができた。だから彼女はもう考えなかった。これ以上考えたら……

 これ以上考えたら、行動できなくなる。理屈に足を取られて、身動きが取れなくなってしまうだろう。見る前に跳べ、どこかのエラい学者も、そういうことを言っていただろう……

 私は、不純な、まったくのわたくしした感情で、あの人の御前に出向くのではない。私の考えていることは、もっと、別の……お寂しいはずのあの方を、たった一人ぼっちでいるだけのあの人を、ただただお慰めしたいとおもうがゆえの……


 果たして、その邂逅は叶った。

 はじめて対峙したその人はうつくしかった。いや、うつくしかったように感ぜられた。そして彼女は身も世もなく、そのうつくしさのまえにぐずぐずになってしまった。

 まるで自身の体がか細くぜいじゃくなたくさんの糸で創られていたかのように、彼女は自身の体の糸を解れさせて絡ませて、ぐずぐずにしてしまった。

 こうなってくると、日常生活における自身の心の動きなどというものは、甚だ心もとないものだ。基本的には「そうでない」として自身を形作っている思考や考え方が、非常時において、これほど捻じ曲げられるようなことがあるとは……

 幸か不幸か、その日は”悪魔も遠慮しそうな”満月夜であった。星は無く、雲もなかった。あるのは空にぽっかりたったひとつ開いただけの真っ白な穴だけ。

 そのぽっかり開いた真っ白な穴から漏れる、殺人的ともいえる光の強さのお陰で、彼女は真正面からその人の顔を見た。

 その嵯峨野にあるお屋敷は、奥まった、人の通りが少ない場所にあった。

 幸いその山荘の女房だか端女だかを目当てにして通っている舎人がいたらしく、それを案内として一行は山荘への道を進んだ。姫を乗せた網代車の後ろからは、少し距離を隔てて、兵部卿宮が護衛代わりに網代車に揺られていた。姫の車には普段から姫付きの側近として頼りにしている高級女房が二人。彼女らもまた、姫の”秘密の友情”としてのその逢瀬を日頃から応援している二人なのだ。

 まず、山荘へはそこへ通い慣れている舎人が入った。それから親しくしている女房だか端女だかを通して、前斎宮へのお目通りを願う、と。

 舎人にはすでに、女房の手から、彼女の書いた文を渡すように言い渡していた。彼女は網代車の中で、そのときだけを、じっと息を殺して待っていた。きっと、いいや必ず、あのお優しい人は、私に会ってくれる……そのはずだ。

 まったく月の、うるさくなるほど明るい晩のことだ。彼女は都随一といっていいほどの身分の姫でありながら、その山荘の濡れ縁に座って、御簾越しのその人の息遣いを聞き、その人の気配を体全体で感じた。

 不思議と風は冷たくもなく、温くもなかった。いや、彼女は、そのようなものに頓着しているような余裕はなかったはずだ。だから実際に、風が冷たかろうが、温かろうが、実際は吹いていなかろうが、彼女には何も感じることが出来なかった。

 彼女は息を殺して、御簾の向こうのその人の気配を追っていた。彼女のそばでは二人の女房が待機している。「退いて頂戴」彼女は目の前を塞いでいる、大きな扇をかざしている女房二人に言った。「これでは、見ようとしても、前斎宮様の着ているものすら見れないじゃないの」「だけど姫様」「そうです姫様」「あなたは畏れ多くも……」「天大随一の……」「ありがたい身の上の……」「そのお体を人目に晒すような……」なとど、女房連は、口々に、そういう常識めいた言葉を口にした。だけど彼女は黙ったまま彼女らのかざす扇を、ゆっくりと自身の手で退けて、その視界の先を清々とさせた。

「前斎宮様……」

 彼女はその、紅色に塗った愛らしい口を開いた。

「無礼を承知で、非常識を承知で、このような高貴で神聖な場所まで、のこのこと、出掛けてきてしまいました。私のこの短慮を、どうぞお嘆きにならないでください。ただ私はこの身で一心に、あなたの御多幸をお祈りして……けれどそのような祈りだけでは耐えられません。それで、あなたの真実としている状況を、少しでも知りたくて。それで、矢も盾もたまらず、あなたのご迷惑も顧みず……」

 彼女は真正面を向いたまま、声早にそのようなことを口にしたが、御簾の向こうからは咳きひとつ聞こえない。彼女は背中に嫌な汗がどっと吹き出すのを感じた。彼女はそしてうつむいた。背中が冷たくて、それが月の攻撃的な光によって益々ひどくなるようだ。ああ、やっぱりこんなところに来るんじゃなかった。わたしなどは結局前斎宮に望まれ得るような人物ではなく、ただいたずらに彼女の感情を苛ませて、彼女の平穏を乱す不協和音程度の迷惑者でしかない……

「こちらへ」

 短い、しかし鈴を転がすような声だった。彼女は顔を上げた。その拍子に、彼女の額から頬にかけて、一筋の汗が伝った。彼女は口腔に溜まった唾を飲み込んだ。喉が痛くてたまらない。一体私は今、何処で何をしているのだろう?

「御簾の中へ。こちらへ来て。どうしていつまでも、そのような場所で座り込んでいるの?」

 彼女はふらりと立ち上がった。女房連が何かを言っていたような気もするがそれは言葉としての意味をなしていなかった。近くで蝿の囀っている音がする。でもそれに人間が、人間の言葉としての意味を持たせるはずがない。そういうことだ。そうだろう?

 御簾の中で見たその人はうつくしかった。まるで内側から発光しているかのように、あるいは水底に沈んでいる静やかな鈍さを孕んでいるかのように、その女は水を吸って、それから光を吸って、青白く、そして鈍色めいていた。

 声を出すか、出さないか、躊躇った。そして声を出した。しかしそれは声にはならず、ただかすれた消音で終わった。頭が痛くて堪らなかった。しかし全身で、彼女は笑っていた。体が幸福に震えて、その震えで全身が痛くて堪らない。しかしその痛みがまた堪らなく心地よくてどうしようもない。全身で笑いが止まらない。そういう気分だ。でも彼女は笑ってなんか居なかった。笑い方というものが分からなかったし、笑うべきでもないとおもった。でも彼女は笑っていた。それは、彼女には分からないことでも、それを見ている前斎宮から見れば、明白なことだった。

「わたしはずっと」彼女は震える、しかし人間にも分かる言葉を、ようやく口にしていた。「ずっとあなただけを。あなただけを夢見て」

「うつくしい人」

 と、うつくしい人は言った。「きれいな方だろうとはおもっていたけれど。これほどまでとは想像もしていませんでした。現実というのは、結局、想像では補い得ないものなのね。そのことを、今日ようやく、おもい知りました」

「あなたは……」彼女はこきゅうをするのをくるしくおもって、片手で胸の合わせを握り込んだ。「わたしはずっと。あなただけに会えるのを夢見て。それしか考えていなかった。私を救えるのはあなたしかいない。あそこはつめたくてかなしいところ。私の居場所はどこにもないの。あなただけが私のことを分かってくれた。あなただけが私にやさしかった」

「そのような……」

 女がめもとを緩ませた。その途端に、彼女は、”許された!”と、おもった。

 そういう、求愛者の早合点によって、往々にして人間関係というのは歪んでこじれてしまう。人は結局、その人の見たい事実しか見ようとはしないからだ。彼女はその女の微笑を許容だと解釈した。そう解釈しないでは、もうその場に一秒たりとも、自身を置く場所をなくしてしまったとばかりに、彼女はその女の、豪華な装束に隠れたまっしろな腕を、まっしろな首を、まっしろな頬を、眼前にして、その人物に飛びついていた。

「お止しになって」

 その人は言った。しかし彼女は聞こえなかったふりをした。そしてその女との、体と体との接触を求めた。彼女はその人に抱きついて、頬ずりをしてみたかったし、もっと肌と肌を密着させて、その肉体が本当に彼女のめのまえに存在しているというのを確かめたかった。そして、そういうものが本当は一番に欲しかったというのを知った。しかし、今頃気づいたとしてもそれは後の祭りだ。大体から今頃気づいたとしても、相手は彼女に対してそのような欲求は抱いていないのだから、いくらそのようなことを望んだとしても、それを望んでいない他者に強制することは出来ない、同じ感情を取れと、命令するような権利は、何処の誰にも存在しないからだ……

「あなたが好きなの」

 彼女は涙ながらに、というか泣き落としのようなまねを、それと知らないで自然と行っているが、しかしそれを眺める女の視線は、月の光のように澄んでいて冷たい。

「ずっとあなただけが好きだった。ずっと、一度でいいからお会いしたいと。それで、話がしたい。手をつないだり、いっしょにねむったり……私だけがあなたの孤独を分かってあげられる。そうでしょう? 一人で居るというのがどれほどかなしくてつらいことなのか、あたしはようく分かっているの。それを分け合える人はあなたしかいない。そうおもった。だから私は……」

 などと、色々と言を弄しながら、彼女は色々と女にくどくどと言い募っていた。女は大人しく、まるでそれをあやすかのように時折相槌を打ちながら、それを聞いていた。いい加減言葉をなくした彼女は、黙り込んで、時々泣きすぎた喉をしゃくりあげながら、月の光の中ではじめての静寂を持った。

「……わたしは」

 その静謐な、青い泉の中でふたり揺蕩うような静寂を破って、女は言った。

「私は、そのような孤独を愛しているの。確かに孤独は冷たくて、時々人が恋しくなることもあります。だけど、それは一時的なこと。私はずっと人によってくるしめられてきた。人によって、他人によって、私は幸も不幸も知りました。だけど今の私はもう、そのどちらも欲しくない。人から分け与えられる感情の良きにせよ悪きにせよ……私はもう、ひとつだって欲しくない。ひとつだって要らないの」

 彼女は触れていたその手を離した。それから彼女の人の体温で温まった手は、月の光に冷えた空気を掴んだ。だけどそれはすぐに彼女の手のひらの中から消えて、後には温い、汚い人間の体温だけが残った。


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